Sample : 02『ヒューリスティックが仇になる-前-』

Sample02


~用語解説~


【暴人(ぼうと)】

人間の体内に潜伏する細胞(M細胞)の爆発的な増殖により、理性を失い凶暴化した人々。その現象はしばしば「暴人化」と称される。

【M細胞】

暴人化の原因になる、人間の身体中に微量に点在している細胞。別名「潜伏性狂気細胞」。一度分裂を起こすと爆発的に増殖する性質があり、体内の細胞をも喰らい尽くしやがて死に至らしめる。分裂の原因は未だ解明されていない。


~組織・人物紹介~


【特殊対策班】

警視庁公安部 暴人課に属する組織。基本4~6人の班で捜査をする。暴人の周囲の人々の安全確保と共に、暴人の“解放”を目的としている。近年、とある事件がきっかけで、特殊対策班の班員は皆「非潜伏者」のみに絞るよう徹底されている。


【真実也 基 (まみや はじめ) 巡査】

警視庁公安部 暴人課 特殊対策班の新米警官。生まれつき体内にM細胞を有していない特異体質、「非潜伏者」であることもあり特殊対策班に配属される。オセロがとてつもなく弱い。


【蛭間 要(ひるま かなめ)警部補】

蛭間特殊対策班 班長。物腰柔らかで掴みどころのない性格。目を細めて常ににこにことしている。犬派。


─────────────────────





《 音声テスト完了。ターゲット設営準備完了。精密射撃テスト、カウントダウンを開始します。提示されたターゲットの眼球もしくは鼓膜に照準を定め、できるだけ多く、正確に撃ち抜いてください 》


 暴人課地下二階に位置する特別射撃訓練場に、無機質なアナウンスが流れる。黒い部屋に黄色の照明が光る訓練場には、数十体もの人型の人形が配置され、不規則に素早く動いていた。コツコツと鳴るヒールの音を鳴らしながら、一人の人物が透明な自動ドアを開けて訓練場に入室する。両手に一丁ずつ持っている銃が、黄色い照明に照らされて光る。


《五、四、三、二、一》


 ゼロ。そう言い終えた自動アナウンスの直後、室内に複数の発砲音が響き渡った。撃った弾丸が軌道を描いて人形の目の位置に打ち込まれるたびに「hit」という電子表示と命中率が機械音で読み上げられた。


「hit 100%」

「hit 100%」

「hit 100%」

「hit 100%」

「hit 100%......」


 他の弾丸も吸い込まれるように人形の眼球、口の中、耳に収まっていった。発砲音が響く度に電子表示モニターは音を立てて更新されていく。

 

 訓練場につながるエレベーターが開いた。その到着アナウンスに、人物は思わず手を止める。


「miss 99.98%」


発砲された一発の弾丸が人形の目の僅か左端に打ち込まれ、モニターの表示と音声が流れる。銃を持つその人物は手を下ろすと、声の主の方を振り返った。


「おや、失礼」


 射撃場入り口付近の柱に寄り掛かり腕を組んだ蛭間要は、モニターを一瞥してから肩をすくめた。



『BLACK OUT~蛭間特殊対策班~』


Sample:02


「ヒューリスティックが仇になる-前編-」



 蛭間特殊対策班のオフィス。出勤後間もなく資料の整理を始めた真実也基は、デスクについた後も作業に集中できずにいた。つい昨日の出来事がフラッシュバックのように、脳裏に焼き付いて離れないのである。


『我々特殊対策班の目的はすなわち、彼らを苦しみから一刻も早く“解放”することだ』


あの時の蛭間の言葉を思い出す。苦しみからの解放──つまり、暴人を苦しめることなく殺すこと。それが特殊対策班の目的であり、使命であると。


「虫退治とはワケが違う」


真実也はそう呟き資料をまとめて立ち上がった。班長デスクの傍のホワイトボードを見ると、そこには昨日と同じ黄色い付箋で新たに「おやつの時間なので行ってきます。」と書かれている。


「まだ午前十時だ……」


目を細めて呟き、ため息をついた。特殊対策班のオフィスは今日も、真実也 基一人だった。黄色いメモにぼうっと見を通していると、ふと昨日のメモの内容を思い出す。『新人“諸君”は入口ドア前にて待機を。』


「僕以外に、新人がいるのか……?」


昨日の会話の中でも、蛭間は出張に行っている二人の他に、もう一人の存在を挙げていたことを真実也は思い出した。


もう一人とは一体、誰なのだろう。そう考えていると、オフィスの廊下側からなにやら賑やかな話し声が聞こえてきた。音が籠っていて話の内容こそは聞き取れないものの、その愉快そうな話し声はだんだんと近づき、オフィスのドア前でピタリと止まると、蛭間班の年季の入ったドアが開かれた。


「えーっ、バニラフラぺ、私も大好き!生クリームたっぷり入れて頼むんだ!」

「私もです。私たち、趣味が合いますね」

「ね〜っ!嬉しいな〜っ」


後ろを向いて楽しそうに話しながら入ってきたのは、長くウェーブのかかった、ラムネ色の髪の女警官だった。その後ろから彼女よりも頭一つ分以上背の高い班長・蛭間要が姿を現すのを確認すると、真実也は反射的にビシ、と音が鳴るほどの敬礼をした。


「お帰りなさい!」

「わ!びっくりした」


声を張り上げた真実也の声に驚き、女警官は振り返る。目が覚めるようなレモン色の瞳と目が合った真実也は、あっと声を上げて後ずさった。


「あれ?あれ?」

「き、君は」

「ハジメちゃん?わっ、ハジメちゃんだ〜っ」


女警官は真実也を見るなりパッと顔を輝かせて、笑顔でかけ寄った。その勢いに真実也は更に後ずさる。眉の上で切り揃えられた前髪を揺らしながら、女警官はその場で飛び跳ねる。


「超〜ひさしぶり!」

「おや、真実也君のお知り合いですか?」


女警官の嬉しそうな反応を見た蛭間は、目を細めた微笑みながら真実也に問いかけた。真実也は驚きと困惑の混ざった表情を浮かべながら頷く。


「花園みちる……僕の同期です」

「そそ!同クラだったのー」

「そうでしたか。知り合いがいて良かったですね、真実也君」

「そ、そんなことよりどうして彼女がここに……」


真実也は自身の手を取りぶんぶんと容赦なく振り回す花園みちると、蛭間とを交互に見て言った。

花園みちるは確かに警察学校時代からの真実也の同期だが、真実也の記憶が正しければ、座学、体力テスト、実践訓練……どれをとっても彼女は、お世辞にも優秀な生徒とは言えなかった。気まぐれで怠け癖のある彼女のことを、真実也はよく叱った覚えがある。そんな彼女がなぜ、特殊対策班に入れたのだろう。真実也は未だ驚きを隠せなかった。困惑する真実也に、蛭間は自身のデスクに腰をかけながら言った。


「彼女も非潜伏者なんですよ」

「そ、そうだったんですか?知らなかった……って、いや!確かに非潜伏者は珍しいですが、それだけの理由で彼女のような人間が入れるとはとても……」

「えっ、ひどい!それどういうこと?」


早口でつい口を滑らせた真実也に、みちるは頬を膨らませて怒る仕草をとった。


「ひるるんも何か言ってよぉ」

「ヒルルン?」

「いけませんよ真実也くん。ちるちるに謝りなさい」

「チルチル?」


何を言ってるんだ?と言いたげに真実也は二人を見る。互いの顔を見合わせてにこにことしている二人に、真実也は少しむっとする。


「さっき決めたあだ名ー!こっちの方が可愛いでしょ?」

「蛭間班長は上司だぞ」

「私が許可したんですよ」

「どうして許可するんですか?」

「拒否する理由も無かったので」


けろりとした態度の蛭間に、真実也はため息をついた。息を吸った瞬間、煙たさを感じて咳き込んだ。


「蛭間班長、タバコを吸うなら喫煙所で吸ってください」

「いいえ、真実也君。これは“タバコ”ではなく、煙る草と書いたリラックス効果の……」

「要するに煙草ですよね?げほ、消してください」

「あはは、漫才みたい、ウケる〜っ」


一人の加入により突如騒がしくなったオフィスに真実也は目眩を覚え、力なく椅子に座り込んだ。


「ハジメちゃん、よろしくねー?」


真実也の顔を覗き込むように、みちるは白いリボンのついたイヤリングを揺らしながら、人懐っこい笑顔で項垂れる真実也に握手を求めた。真実也は彼女の笑顔に押され、差し出された小さな手を握って「よろしく」と返答した。


「うんうん。二人とも同期同士、ぜひ助け合っていってくださいね」


仕方なく煙草を消してシガレット形の駄菓子に代用していた蛭間は、デスクで満足気に頷くとよし、と一息ついて立ち上がった。


「ちるちるはオフィスで待機をお願いします。私はこれから、真実也君と武器庫に行ってきます」

「武器庫、ですか?」


そう言って首を傾げる真実也に、蛭間は目を細めてにこりと笑った。


「オリエンテーションを終えた君はもう立派な特殊対策班班員。君がこれから使っていく対暴人用武器を、私が選んであげます」

「いいなぁ〜。ねぇ、それって私もついて行っちゃダメなの?」


「ついて行きたい」と顔に大きく書いてあるようにねだるみちるに、蛭間は眉を下げて答えた。シガレット形の駄菓子を一本取り出し、みちるにくわえさせる。


「申し訳ないのですが、私と真実也君で二人分の許可申請しか出さなかったので、ちるちるは一緒に行けません。これでも作って待っていてください」


蛭間は上着の内側からお祭り屋台を模した知育菓子を取り出し、みちるに手渡した。彼の上着は四次元ポケットか何かなんだろうかと、真実也は訝しげな顔で蛭間の上着を覗こうと試みる。


「う〜ん、わかった……待ってるね」

「ご理解いただき感謝。それでは真実也君、行きましょう」

「え!?は、はいっ」


そう言いながら既にオフィスの外へ出て行く蛭間を追うように、真実也もついていった。



公安部の廊下を歩いている途中、真実也は我慢できずに口を開いた。


「蛭間班長、教えてください。花園みちるが特殊対策班に配属されたのは、非潜伏者以外にも理由があるんですよね?」

「ふふ、随分気にしているようですね」

「当然です。警察学校時代の彼女を考えれば……特殊対策班に採用されるだなんて、ありえません」


真実也は歩幅の大きい蛭間に、早足でついていく。蛭間の返答が待ちきれずに横目でちらちらと伺う真実也に、蛭間は笑いかけた。


「確かに警察学校時代の彼女の成績は、お世辞にも良いとは言えませんね。だけれど彼女は、特殊対策班に間違いなく必要な人材でしょう。同期の君なら覚えがあるのでは?座学、運動、実践。全てにおいて駄目だった彼女が、唯一得意としていることが」

「花園が得意としていること?」


真実也は、彼女の行動を頼りに記憶を辿ってみた。座学も、体力テストも、実践訓練も。どれもてんでダメだった彼女が、得意だったもの。思考を巡らせた真実也の脳内に、一つのイメージが浮かび上がって焦点が定まった。


「……あっ」

「心当たりがあるようですね」

「……確か彼女は、射撃の実技だけは同期の中でトップでした」


真実也たちの警察学校では、射撃訓練は男女別に行われるため、真実也はみちるが射撃場にいるのを見たことがなかった。しかし、みちるが射撃の試験でトップだったことは、同期達の間で一時期話題になっていたことを思い出したのだ。


「ところで真実也君は、遠くから自身が撃ち込んだ銃弾の風穴に、もう一発の銃弾を掠ることなく、通すように撃つことができますか?」

「な、なんですか急に」

「どうでしょう、できそうですか?」


いつの間にか立ち止まり、前髪の隙間から金色の瞳を覗かせて詰め寄る蛭間の勢いに押された真実也は、息を詰まらせながら答えた。


「いいえ、できません、できませんよ。そんなこと、人間ができるとは……」


そう言いかけた真実也は、なにかに気がついたように目を見開いた。蛭間の視線から逃げるように下に向けていた視線が思考と連動して一時停止した後、恐る恐ると蛭間を見上げた。


「まさか」

「察しがいいね、君は」


蛭間は微笑むと、真実也の肩についたホコリを軽く払った。


「彼女は……花園みちるは、例えるならそれ程精密な射撃をいとも容易くやってのけたんだ」

「花園が……?」

「そう。彼女は比類なき射撃の名手だよ」


再び歩き出した蛭間だが、真実也は衝撃のあまりついて行くことを忘れてしまいそうだった。蛭間は、少し歩いた先にある大きな扉の前で立ち止まった。懐から出した黒いカードキーを扉の横のセンサーにかざすと、電子音とともに扉は開く。重厚な黒を基調とし、近未来的な黄色の照明のついたエレベーターだった。蛭間についで、急いで追いついた真実也も彼の後に乗り込むと、エレベーターは起動音を立てた。エレベーターの中で蛭間は口を開いた。


「しかも拳銃から狙撃銃まで、触ったことのない銃までも、ごく短時間の練習ですべて完璧に使いこなしてみせた。彼女の射撃技術にかかれば、遠距離から危険を犯すことなく、暴人の目のみを撃ち抜くことも容易い」

「暴人の目を?」

「暴人は、粘膜からの攻撃に脆いんです。本来遠くから目を撃つやり方が最も安全で“解放”も確実とされているのですが、何よりも高度な射撃技術が求められる。外してしまえば暴人を無闇に苦しめてしまうリスクを考えれば、私も含め誰もやりたがらない方法です。でも彼女なら……みちる君ならそれができる」


金色の目を覗かせて笑う蛭間に、真実也は背筋が凍るような感覚を覚えた。昨日のオリエンテーションの光景が蘇ったのだ。真実也は自信なさげに視線を落とす。


「技術的にはできたとしても、暴人の“解放”なんて彼女にできるとは……」

「思いませんか?ふふ、彼女のことが心配なんですね」

「そういうわけでは」

「でも心配いらないですよ。彼女は……」


君と違って、優しくないからね。

エレベーターが止まる音が存外に大きく蛭間の声がよく聞こえなかったが、真実也にはそう聞こえた気がした。


「え……?」

「真実也君。警察手帳は持っていますか」

「は……はい」


蛭間は肩にかけた上着の胸ポケットから警察手帳を取り出し、エレベーターのボタン横のパネルにかざした。


《警視庁 公安部 暴人課 蛭間特殊対策班 蛭間要警部補……承認しました》


片言の電子音声と共に、承認完了であろう高い電子音が鳴り響いた。真実也も蛭間に続き警察手帳をパネルにかざすと、同じく承認音声が流れ扉が静かに開いた。

声が響くほど広いこの部屋は床も天井も高級感のある黒が基調とされており、目が覚めるような黄色の照明が眩しい。部屋中央に置かれた操作パネルのようなものと、壁一面に飾られた武器の数に真実也は圧倒された。


「さぁ、武器庫に着きました。ちるちるの話は置いておいて、君の武器を見繕いましょう。ついてきてください」


蛭間は部屋中央の操作パネルに歩みを進めた。真実也の彼の横に立ってパネルを覗き込む。六十インチほどある大きな液晶パネルに蛭間が警察手帳をかざすと、システム起動。という音声アナウンスが流れた。


「我々特殊対策班が使う武器は、近距離、中距離、遠距離用の3種類に分かれています」


蛭間は慣れた手つきで液晶の操作をすると、やがて武器の写真が液晶に映し出された。銃口の細長い、黒の短銃。オリエンテーションで蛭間が小坂を“解放”した、あの銃である。


「『HSM12_E05“Logan”』。私が愛用している対暴人用の近距離射撃銃です。発砲された銃弾は粘膜に反応して激しく暴発するので、暴人の内側からや粘膜に発砲すれば1発で“解放”することができます。しかし暴人の皮膚表面に対するの威力は8割減なので、暴人に触れるほど近づく必要がある」


よって、初心者向きではないです。蛭間はウィンドウを閉じた。


「遠距離射撃銃については、先ほどのちるちるの話でも少し説明しましたね。遠距離射撃はとにかく射撃技術が求められます。ちるちるのように高い射撃技術があれば、遠くからでも目や耳などの粘膜を狙い一撃で“解放”することが出来ますが、そんなことを出来る人はそういません。それに、遠くから粘膜以外の部分を射撃となると最低でも同箇所を二回、射撃しなければなりません。暴人の皮膚表面はとても硬くなっているため、一度の射撃では銃弾が体内に届かないのです。遠くから同じ部分を二回続けて撃つ……相当な射撃技術がいるでしょうね」


ということで、これも初心者向きではありませんね。蛭間はざっくりとスライドして読んでいた遠距離武器のウィンドウを閉じた。


「いろいろ説明しましたが、初心者の君に最も適している銃は、近~中距離のこの武器です」


蛭間が新たに出したウィンドウには、シンプルなデザインの黒い拳銃が映し出された。


「『HS_M54 “Matilda”』。拳銃の中で最も威力の高い銃です。二発当てれば“解放”できる銃とされています。この銃はとても威力が高いため、一発当てればたちまち暴人は致命傷を負います。あとはどこでも、もう一発当てさえすれば“解放”することができますよ」

「遠距離銃は同箇所を二発撃たなければいけないのに、この銃はどこでも良いんですか……?」


素朴な疑問を投げかけた真実也に、蛭間はにこりと微笑む。


「なにせ威力が桁違いですから。一発で暴人に致命傷を負わせられる威力を持った銃は、この銃だけです。……おっと、大事な話をしそびれるところでした」


パネルの方を向いていた蛭間が真実也の方へ向き直った。


「この銃を使う時に気をつけなければいけないことは、“必ず二回、続けて撃つこと”です」

「二回続けて……ですか?」

「暴人の体内で暴れているM細胞は、致命傷を負うと傷口の修復作業に取り掛かりだします。その間暴人の皮膚表面は人間と同程度に戻り、理性も戻る。つまり、“人間”に戻るということです。さすがに理性のある人間を撃ちたくはないでしょうから、理性が戻る前にちゃっちゃと二回撃って“解放”してしまうのが適策です」

「暴人が、理性を取り戻すなんて……」

「ええ。M細胞が修復作業に当たっている、ほんの一時的な期間ですが。修復が終われば再びブラック・アウト(理性喪失)を起こし、元の暴人に元通りです」


蛭間はマチルダの武器選択ウィンドウを開いて何度か操作をすると、やがて武器庫の壁面が動き出した。武器棚が一列動いたかと思うと、その中からさらに一つに区切られた棚が壁の奥に吸い込まれていく。しばらくすると、蛭間達の立っている液晶パネルの横から銃が顔を出した。蛭間はそれを手に取る。


「……まぁ、二回続けて撃てさえすればどうってことはないですからね。これは班長である私が保管しておきます。出動時に君に渡しますよ。……さあ、オフィスに戻りましょうか。ちるちるが待ちくたびれています」


置いていきますよぉ、ひらひらと手を振ってエレベーターに向かう蛭間を真実也は下唇を噛んで追いかけた。エレベーターは二人が入ったことを確認したかのようにタイミングよく閉まり、ゴォと音をたてて動き出した。


「……いつ君が引き金を引くことになったっておかしくはないんだ。少なくとも、その覚悟は決めておいてほしいな」


エレベーターの壁に寄りかかりながら、腕を組む蛭間は低く呟いた。


「……はい」


真実也は上がっていくエレベーターの数字を追いながら返事をした。少し酔った。



* * *



午後二時二十五分。蛭間特殊対策班に出動要請が出た。


「真実也君、読み上げを」

「はい」


揺れ動く車内、真実也は端末を手にし、液晶に映し出された情報を目で追いながら読み上げた。


「通報は、東二区の『アダチオフィスビル』からです。会社員の男性、佐々木樹三十三歳が勤務中に暴人化。周囲にいた複数人の社員にけがを負わせていますが、いずれも捻挫や切り傷などの軽傷で済んでいます。社員は通報後に別階へ避難、防火シャッターなどで暴人と人との距離は安全に確保できているとのことです」

「安全は確保済みですか」


足を組んで座る蛭間はふむ、と顎に手を当てている。その様子を伺う真実也と隠れた前髪越しに目が合った時、蛭間は顔を上げ、懐から黒い拳銃、マチルダを取りだした。真実也に手渡しながら、前かがみになって言い聞かせるように言う。


「暴人の動きは読めない。君が撃つ可能性も充分あると考えてください。その時は必ず、二回撃つように」

「は、はい」

「それと……くれぐれも、暴人の言葉に耳を貸さないように」

「……分かりました」


自身の目の前に座っているのに、表情が読めない。真実也は緊張と不安で手の震えを覚えるものの、蛭間に悟られないように頷いた。蛭間は目を細めて座席に寄りかかった。


「……ふふ、ひどく緊張していますね。飴ちゃんいりますか?」

「結構です」

「おや、残念」


車が停止すると、二人は車を降りて現場に急いだ。





エレベーターで上り、暴人のいる三階に到着した。暴人・佐々木樹は社内オフィスの廊下で発見された。


「蛭間班長」

「物音を立てず、あまり刺激しないように」

「は、はい」


オフィスは暴人化当時の緊張と混乱が伝わるように荒れており、資料は床に散らばり、椅子が廊下にまで倒れている。蛭間と真実也の存在に気づいた佐々木は、荒い呼吸でぬらりと振り返った。左手で引き摺っていた消火器が床に擦れ、ゴリ、と鈍い音を立てる。

ビジネススーツを着た佐々木は、不気味に開かれた瞳孔で蛭間たちを捉えると、大きく息を吐いた。高温の蒸気が口から吹き上がる。消火器の存在に気がついた蛭間は、真実也より半歩後ろに下がった。


「援護する。銃を構えていなさい」


刺すように鋭い蛭間のかけ声と共に、真実也は両手でマチルダを恐る恐る構えた。銃口を二十メートルほど離れた距離にいる佐々木に合わせる。焦点が定まらず、荒い呼吸と共に照準が乱れるのがわかる。

次の瞬間、佐々木は胸を掻きむしり、叫び声とも呻き声とも似つかない奇妙な声を上げた。そして左手に持っていた消火器を真実也にめがけて、投げるように振り上げた。


「動くな!」


たじろいだ真実也が避けようとするより先に、蛭間が声を上げた。暴人にではなく、自分に向けて言ったのだ。真実也はマチルダを強く握り、足を地面につけて照準を佐々木にしっかりと定め直す。銃を持つ手が震える。汗で滑り落ちそうになる。

佐々木は鼓膜が震えるほどの絶叫をしながら、消火器を投げた。消火器は軌道を緩めることなく、野球の球のように真っ直ぐに真実也に飛んできた。思わず床を強く踏みしめる。


「合図をしたら撃て、“必ず二回”だ」


蛭間は銃を構えたかと思うと、照準を定める間もなく引き金を引いた。耳をつんざくような銃弾とほぼ同時に、命中した消火器が弾き飛ばされた。


「今だ」


真実也が消火器に目を奪われたほんの一瞬の間に、暴人はすでに半分以上距離を詰めてきていた。蛭間の合図で、真実也は両手で握ったマチルダの引き金に指をかけ、力を込めて引いた。

弾けた弾丸は暴人・佐々木の腹に命中する。


「キ゛ャア゛ァァ゛ア゛ァ!」


大量の墨色の血しぶきを上げた暴人は、今まで聞いた事のないような金切り声を上げ、真実也の視線の二メートル程先で怯んだ。血しぶきが顔にかかる。ぶくぶく、ぐつぐつと腹の底が煮えたぎるような音と、傷口から放たれる蒸気。ひどく苦しげな暴人に、真実也は乱れた自身の呼吸を必死で整えながら、次の一発を撃とうと体勢を整える。


「嫌だ……」


墨色の血を吐きながら、暴人が何かを呟いた。先ほどの呻き声とは明らかに違う「人の声」に、真実也の心臓は跳ね上がった。目の前の光景に、眼球さえも震えるのが分かった。


「死にたくない……」


暴人は苦しげながらも震えた唇の隙間から明瞭な言葉を漏らすと、真実也に手を伸ばした。開かれた瞳孔からは涙が溢れており、伸ばした左手の薬指が光った。目の前にいたのは間違いなく「人」だった。

真実也 基は、全身から力が抜けていくのを感じた。


「時間切れ」


真実也は激しい発砲音で我に返った。

暴人・佐々木は左耳からの強い衝撃に、黒い血を吹き出して倒れた。耳の中に銃弾が詰め込まれている。未だまとまらない真実也の脳が、少しずつ状況を理解をしていく。


蛭間は愛銃、ローガンを懐にしまうと、通信機器を取り出した。


「こちら蛭間特殊対策班、班長蛭間要。十五時十五分、ターゲット佐々木樹を無事“解放”した。新規負傷者はゼロ、回収班は直ちに暴人の回収を」


抑揚の無い声でそう告げ、通信機器をしまった蛭間は返り血のついた顔を拭うことなく、真実也に歩みよる。


「必ず二回撃てと、言ったはずだよ」


倒れ込み項垂れる真実也に言った。優しく言い聞かせるような、しかしそれでいてひどく冷たい口調にも聞こえた。


「優しさが“人”を殺す。君のその良心が、何よりも彼らを苦しめる」


蛭間は真実也の肩に手を置き、胸元からハンカチを取り出した。


「これで顔を拭きなさい。君は優しすぎる、特殊対策班には向いていないよ」


そう一言告げると、蛭間は暴人に一瞥もせず現場を後にした。胸ポケットから取り出した煙草の先に火をつけ、深く吸い上げ吹き出した紫煙だけが現場にゆらゆらと残る。

真実也基は回収班が到着するまでの間、静かになったオフィスで一人、蹲るように声を潜めて泣いた。




暴人、佐々木樹は“解放”された。




BLACK OUT~蛭間特殊対策班~

Sample:02『ヒューリスティックが仇になる-前-』



END.




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