BLACKOUT~蛭間特殊対策班~

おすみ

Sample : 01『蛭間特殊対策班』

Sample_01

~用語解説~


【暴人(ぼうと)】

人間の体内に潜伏する細胞(M細胞)の爆発的な増殖により、理性を失い凶暴化した人々。その現象はしばしば「暴人化」と称される。

【M細胞】

暴人化の原因になる、人間の身体中に無数に存在している細胞。別名「潜伏性狂気細胞」。一度分裂を起こすと爆発的に増殖する性質があり、体内の細胞をも喰らい尽くしやがて死に至らしめる。分裂の原因は未だ解明されていない。


~組織・人物紹介~


【特殊対策班】

警視庁公安部 暴人課に属する組織。基本四~六人の班で捜査をする。暴人の周囲の人々の安全確保と共に、暴人の“解放”を目的としている。近年、とある事件がきっかけで、特殊対策班の班員は皆「非潜伏者」のみに絞るよう徹底されている。


【真実也 基 (まみや はじめ) 巡査】

警視庁公安部 暴人課 特殊対策班の新米警官。生まれつき体内にM細胞を有していない特異体質、「非潜伏者」であることもあり特殊対策班に配属される。


─────────────────────────────





死生、命あり


“M”は突然現れる

“M”は息を殺して血肉に潜む

“M”の暴走は天命である

苦しむ彼らを“解放”することが 唯一の救いである


手段を選ぶな 躊躇う心も殺すのだ


暴人を“解放”せよ。


それが我ら『特殊対策班』の天命である





 満員電車に揺られながら、川崎康男(かわざき やすお)は沈んでいく太陽に目を眇めた。角の剥げた黒いブリーフケースをしっかりと抱きしめ直し、天井に張り付いた広告をぼんやりと眺める。

やがて電車は静かに停止し、到着の無機質なアナウンスが流れだした。康男は出口へ流れ込む人の並に押されるように、電車から降りた。

 改札を通り駅を出た頃には、太陽はビルの隙間にすっかり飲み込まれ一日の役目を果たす。代わりに車のライトやビルの明かりが街を照らしていた。康男はいつものように、よれたスーツのしわを直しながら我が家への帰路につきだした。





「ただいま」


 誰に向けてでもなく呟く。扉を閉めてから、鍵をかける。一息吐いた後に玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を重い足取りで進みだした。四十七にもなると、疲労が染み付いて取れないな。そんなことを考えながら、康男は乾いた咳払いを一つした。


「おかえりー」


 リビングのドアを開ければ、娘・由比(ゆい)が部屋着姿でテレビを見ながら一人夕飯をとっていた。由比は康男に一瞥もせず、テレビに釘付けだ。


「母さんは?」

「ご飯食べてすぐ部屋に行った。お父さんの顔、見たくないんだって」


 由比は後半の語気をやや強めて皮肉っぽく言いながら、水が注がれたコップに口をつけた。依然振り向くことなく音楽番組に夢中な娘に、康男は特に返答することもないままブリーフケースを椅子の上に置いた。


「お父さんの分、冷蔵庫にあるから温めて食べてって。お母さんが」


 康男が由比の声に視線を向けると、ずっとテレビに顔を向けていた由比はいつの間にか振り返り、康男の方を見ていた。顎で冷蔵庫の方を指す。ああ、と康男は言葉に詰まりながら返答をした。


「……いい加減、仲直りしたら?なんの喧嘩したかは知らないけどさ、お互い謝れば済む話じゃん」


 伝言係になる私の身にもなってよね。娘の言葉に、康男はまたしても言葉を詰まらせた。由比はしばらくしてため息をつくと、食べ終わった食器を重ねて手に持ち、立ち上がった。


「自分が食べた食器洗っといてよね」


 康男を通り越して台所へ向かう娘に、康男は何も言い返せなかった。





 いつも通り、食事を済ませた。やっぱり駅中の洋菓子店でケーキでも買ってくればよかった。明日は、明日こそは買ってこようか。そんなことを考えながら、康男は冷たい水でごしごしと食器を洗う。

いつも通り入浴を済ませ、いつも通り歯を磨き。いつも通り、妻・美代子のいる寝室の隣にある部屋の扉を開けて、数年前から使用している自身の寝室に戻った。「あとはいつも通り寝るだけ」。康男は心の中で呟くと、軋む関節に痛みを感じつつ眠りについた。



* *



体の内側が熱い。康男は体内の燃えるような感覚で目が覚めた。いつもの癖でベッド横に置いてあるデジタル時計に視線を移せば、四時四十六分の表示が目に入った。カーテンの隙間から見える空は仄明るい。息を吐いた拍子に、口の隙間から白い蒸気のようなものが吹き上がるのが見えると、康男はその異質さに気がつく。まとまらない思考のまま半身を起こすと、鼻からさらさらとした液体が数滴こぼれた。指で拭いとったそれは墨のような黒色をしており、自身の血液だと分かるまで数秒を要した。

 一秒、二秒、三秒経過し、状況を理解した康男がハッと息を飲んだ瞬間。康男の視界はその意識と共に、「ブツ」と音を立てて真っ黒に途絶えた。



 午前四時四十八分。閑静な住宅街に獣のような雄叫びが響き渡った。



* * *



「なんの騒ぎ?」


 パトカーのサイレンが鳴り響く。数台のパトカーと救急車が、一軒の家を囲むようにして停まっている。玄関を出て庭に出た一人の住民が、寝ぼけ眼で隣の庭にいる住民に問いかけると、すっかり目が冴えた住民は答えた。



「川崎さん家、旦那さんが暴人化しちゃったんだって」



しんと静まり返った川崎家の室内にも、サイレンの音が不気味に届いている。暗い廊下を進めば、“KEEPOUT”のデジタル規制線が貼られた室内から、微かな口笛の音が聞こえてくる。カーテンが閉められた薄暗い室内で、口笛の音の主である黒い影がゆっくりと立ち上がった。降ろされた右手には短銃が握られ、その銃口からは黒い液体が数滴滴る。


「やだ怖い。奥さんと娘さんは無事だったのかしら」

「さっき保護されていったわ。無事でほんとによかったぁ。旦那さんは、まぁ……残念だけれど……」


 一部が剥げた壁紙に、割れたスタンドライト。かき乱された本棚には、もう数冊の本しか並べられていない。黒々とした液体がフローリングの上で溜まり、薄く広がっている。食いちぎられた枕の綿はスポンジのようにそれらを吸い上げると、生臭い質量を帯びて床に張り付いた。


 黒い服のその人物はサイレンの音を模した口笛を拭きながら、部屋の中央に横たわった川崎康男の遺体に跨るようにして立っている。遺体は、口が大きく開いた状態のまま脱力していた。


「そういえば前に川崎さんの奥さんから聞いたんだけど、結構前から寝室を別にしてたらしいのよぉ」

「ああ、だから旦那さんだけ……ってことなの?なんだか皮肉ね」


 川崎康男の開ききった瞳孔は光を失い、一点を見つめ続けている。その人物は口笛を止めて金色の双眸で彼を見下ろすと、顔や自身の白いシャツについた黒い飛沫を拭うことなく、銃を懐にしまった。入れ替えるように取り出した携帯端末に電源を入れて耳に近づける。

ピー、という電子音が流れた。





『BLACK OUT~蛭間特殊対策班~』



Sample:01


「蛭間特殊対策班」





警視庁公安部 暴人課のビルは、本部庁舎の奥に併設されている。


《蛭間特殊対策班》


入口横に備え付けられた銀のプレート。それを一瞥した真実也 基は、大きく息を吸ってスーツの襟元を正した。

蛭間特殊対策班。今日からここが彼の職場だ。

 警察学校卒業後の勤務先は卒業の数週間前から発表されるが、

真実也は未だに、自身の勤務先を受け入れられずにいた。真実也はオフィス横に取り付けられたプレートにもう一度視線を移してから、小さく呟く。


「蛭間要、か」


 真実也が配属された蛭間特殊対策班の班長・蛭間要(ひるま かなめ)は、暴人課のみならず、警察で知らない者はいない程名の知れた警官だった。暴人の“解放”数は課内でトップを誇り、数え切れないほどの暴人を“解放”に導く姿はしばしば「死神」と称されている(なぜ「死神」なのかは真実也も分からなかった)。しかし秘匿性の高い公安警察故に、彼に関するそれ以上の詳細や姿、性別すら、知る者は真実也の周りにいなかった。警察学校を主席で卒業した真実也だが、その自信とは裏腹に、彼の班に配属されることへの緊張と不安が何よりも勝っていたのだった。


「だめだ、だめだ。しっかりしなければ……」


 オフィスの入口でしばらく立ち尽くしていたことに気がついた真実也は、言葉を吐いて自身をなんとか奮い立たせた。深呼吸をし、よし!と拳を握れば、入口のドアを穴のあく強さでノックした。


「失礼します本日付けで配属されることとなりました真実也基巡査です!どうぞよろしくお願いいたしますっ!!」


 緊張した真実也はノックと同時にドアを思い切り開け、その勢いのまま大声を絞り出しビシ、と音が鳴りそうな敬礼をした。


「……ん?」


 二秒、三秒。返事がない。緊張で無意識に閉じてしまっていた瞼を開けると、室内には人の気配すら、ましてや部屋の電気すらついていないことに気がついた。しんと静まり返った人のいないオフィスに、自身の出した大声の余韻が儚く伝わっていく。

 部屋を間違えたのだろうか。真実也は室内から身を乗り出しプレートを再確認する。「蛭間特殊対策班」。プレートには間違いなく、この文字が掘られている。


「誰もいない……」


 予想外の出来事に目眩を覚えつつも、真実也は恐る恐るオフィスに足を踏み入れた。

 教室の半分ほどの広さのオフィスの中央には、向かい合うように作業用デスクが2台ずつ並んでおり、部屋の最奥には班長用のものとわかるデスクが入口に向けて備えられていた。資料やカップが置いてある使用感のあるデスクもあれば、誰も使っていないようなデスク(恐らく新人用に空けてあるのだろう)も見られる。

班長デスクの傍のコートハンガーに、黒いジャケットがかかっていた。部屋の中央まで足を進めると、真実也は班長デスクの左にあるホワイトボードの存在に気がつく。近づいてみると、その中央には正方形の黄色いメモが貼り付けてあり、端正な手書き文字で「ランチに行ってます。新人諸君は入口ドア前にて待機を。」と綴ってあった。


「ランチ?今は午前十時だぞ」


 思わずそう呟いた真実也だが、「入口ドア前にて待機」の指示に従うべく、踵を返して入口に戻った。ドアのレバーハンドルに手をかけ、引き下げて扉を開けた。キィ、と音が鳴る。


「おや」

「あっ」


 扉を開けた先で、一つの大きな影が真実也をさえぎった。暗いオフィスの室内から廊下側の明かりが差し込む。真実也は思わず驚いて後ずさったが、班員だと思い急いで体勢を整え、敬礼する。


「お、おはようございます!本日付けで配属されました、真実也基巡査です」

「おはよう、新人君」


 自分より目線一つ分ほど背の高いその人物は、両手に一つずつクリームの入ったドリンクを持っていた。真実也は自分は平均よりも背が高い方だと思っていただけに、自分より背の高い人物に遭遇したことで動揺していた。

 その人物は、ネクタイの代わりに黒いリボンをしていた。肩まで伸びた白金色の髪は柔らかく女性的でありながら、真実也と同じスラックススタイルのスーツを着ており、どこか中性的な雰囲気を持っている。敬礼をしたまま視線をやや上に向けた真実也を見るや否や、彼(性別が分からないが、真実也はとりあえず“彼”と呼ぶことにした)はにこりと目を細めて微笑んだ。


「予定より十五分早めの出勤。良い心がけです」

「はい」

「部屋の電気を、つけていただけますか」

「はいっ」


 真実也を通り越して部屋の中央へ進む彼の指示通り、真実也はドア横のスイッチをONにした。時間差で蛍光灯がパチパチと点灯する。彼は身軽にくるりと振り返ると、班長デスクのすぐ側にある空のデスクに、持っていたドリンクを一つ置いた。


「一つ差し上げます。君のデスクはここですよ」

「は、はい!ありがとうございます……?」

「どういたしまして」


にこやかだがあまり抑揚のない口調で喋る彼は真実也の隣のデスクの椅子に腰掛けた。班員の彼のものと思われるそのデスクは綺麗にファイル等が整頓されている。真実也は机の上のドリンクを手に取ると「いただきます」と声に出して口をつけた。甘いバニラクリームの味がした。


「あの、他の班員の方は?」

「二人は昨日から博多へ約二週間の出張。もう一人は、今日は見えていませんね」

「班長もご不在なのでしょうか」

「まぁそんなところでしょうか」

「ご不在、ということですか……?」


 彼は返事をせずに穏やかに笑うと、にこにこと目を細めたままドリンクに口をつけた。心の中で彼、と呼んでいた真実也だが、微笑むと女性のような気もしてきて不覚にもドキリとしてしまう。


「特殊対策班に入ったということは、君は『非潜伏者』なんですね」

「はい」

「ふふ、そんな感じがしますね」

「は、はぁ」


 真実也基は、生まれつき体内にM細胞を有していない特異体質、『非潜伏者』だった。暴人化の原因になるM細胞を先天的に有していない彼に、暴人化の可能性は無い。特殊対策班への配属が決められた理由も、真実也が『非潜伏者』であるからという部分は大いにあるだろう。


「そういえば君は……特殊対策班や暴人についてどの程度ご存知です?」


 またもや彼から話を切り出した。ドリンクは既に半分ほど減っていた。真実也はドリンクを机に置いて姿勢を正し、彼に向き直る。


「はい、特殊対策班の目的は主に二つ。『暴人の“解放”』『暴人の周囲の人々の安全確保』です。暴人はM細胞──別名『潜伏性狂気細胞』の細胞分裂により起こり、理性を失い凶暴化した人々のことだと理解しています。暴人の特徴として、高い凶暴性と身体能力、瞳孔の散大、理性の喪失、非常に高温になった体内……そして最大の特徴である、墨色に変色した血液があげられます。M細胞の分裂の原因は、未だ解明されていないのだとか」

「ふむ。暴人化した“人”はどうなるか、ご存知ですか?」


 真実也は少し考えてから、頭を小さく横に振った。


「暴人化を抑制する手立ては……現状ありません。M細胞が一度でも暴走を果たし暴人化すれば体内の細胞が食い尽くされ、間違いなく死に至ります」

「よく理解されていますね」


 感心感心、と彼は何度も頷いた。しかし真実也は再び頭を振る。


「いいえ、この程度のことは今どき、小学生でも知っています。むしろ分からないことが多すぎて……配属決定後に渡された資料と政府によって公表されている情報を足し合わせても、この程度の情報しか集められませんでしたし」

「特殊対策班は公安の管轄ですし、暴人に関する問題も全て公安部が取り仕切っていますからねぇ。秘匿性が高いのは致し方がないですよ」


 ドリンクを飲み終えた彼は椅子に寄りかかり足を組んだ。相変わらず穏やかに微笑んでいる。真実也はふと、特殊対策班への配属が決定して間もなく送られてきた資料の内容を思い出した。


「そういえば、特殊対策班に関する資料を頂いた時に、その活動内容に『暴人の“解放”』『暴人の周囲の人々の安全確保』としか記されていませんでした。詳細説明は全くなかったので気になったのですが、特殊対策班の掲げる『暴人の“解放”』とは一体、なんなのでしょうか?」


 呟いた真実也はちらりと彼の様子を伺う。前髪で隠れた彼の右目と目が合った気がして、一瞬心臓が跳ね上がった。


「安心してください。今日から君は公安部暴人課の特殊対策班員。否が応でも知ることになりますよ」


 やはり気のせいだったのか。真実也が数回目を瞬かせると、彼は先程のように目を細めて笑っていた。右目は前髪で隠れている。


「ああ、もうこんな時間ですか」


 真実也越しに班長デスク側にかかった壁掛け時計を見た彼はすっと立ち上がると、空になったドリンクの容器を手に取り部屋の最奥へ向かっていった。傍のくずかごに容器を捨てる。


「それでは、定刻になったのでオリエンテーションを始めましょう」


 彼は班長デスクのコートハンガーにかかった黒いジャケットに手をかけ、袖を通さず肩に羽織った。上着とは思えないガチャガチャとした重厚感のある音がオフィスに響く。真実也は訳が分からず、飲み終えたばかりのドリンクを吹き出しそうになる。


「蛭間要。蛭間特殊対策班の班長です。どうぞよろしく」

「えっ?」


 真実也の間抜けな声がオフィスに響いた。





「ど、どうして最初に言ってくれなかったんですか」

「申し遅れまして申し訳ありません」


 特殊対策班の廊下をつかつかと歩きながら、蛭間は笑いながら返答する。その後ろを真実也は早歩きでついて行く。


「でも、班長はご不在だとさきほど……!」

「休憩時間中でしたので。労働時間外ですから、厳密に申し上げるとあの時の私は“班長”ではないのです」

「な……」

「まぁそれは冗談として。あの時点で班長を名乗ったところで緊張を煽ってしまうと思ったので、言わないでおいたまでです」


 言葉を失った真実也に、蛭間は掴みどころのない笑顔を向ける。これが本当にあの蛭間要なのか?真実也は自身が想像していたイメージとかけ離れすぎた現実を、いまだ飲み込めないでいた。


「ひ、蛭間班長。オリエンテーションとは具体的に何を……?」

「今日ははじめてなので、実務的なことは一切しなくて良いですよ」


 携帯端末を操作しながら蛭間は続ける。


「当然ながら、君はまだ何も知らない。何よりまずは見ること、聴くこと、そして知ることが大切です。今から君には、特殊対策班の仕事を傍で見学してもらいます。さぁ、着きました。これに乗ります」


 廊下を抜けると、広い駐車場のような屋外に出た。黒いバンが何十台も駐車してあり、蛭間が指した車の運転席には運転手が乗っている。真実也は指示されるままに車の後部座席に乗りこんだ。黒いシートは対面式に設置されており、蛭間も真実也の隣に乗り込むと間もなくして車は発進した。


 静かに発進した車は警視庁の敷地を抜け、道路に出た。しばらくしてから蛭間は口を開いた。


「通報は、西区の介護福祉センターから。二十代の男性介護福祉士が暴人化初期症状を訴え、それに気付いた従業員が間もなく政府指定の暴人用拘束具「アレスタ」にて拘束。男性以外の入居者、従業員は残らず安全な別室に移動済み」


 蛭間は一息で言い終わると、ちらりと真実也に視線を送った。


「真実也君。“暴人化初期段階”については、警察学校で習いましたか?」

「はい! 暴人の兆候が出ているにもかかわらず、未だ理性を保っている段階のことですよね。いつブラック・アウト(理性喪失)を起こし暴人化するのか分からないため、非常に危険な段階かと」

「その通り。暴人化は突然起こりうるものですが、多くの場合は暴人化初期段階を経てまもなく暴人化します。今回は公共施設だったため、拘束具も備えてあったようですね。周囲の人々の安全確保も完了している。残るは然るべき“解放”のみの、理想的な状況です」

「なるほど」


 何を考えているのかわからない笑顔で、蛭間は真実也の方を見た。真実也はそれに合わせるように軽く会釈をし、膝の上に置いて硬く握っている両手を握り直した。緊張のためか、汗で手のひらは汗で湿っている。真実也はふと、気がついたように顔を上げて蛭間に問いかけた。


「……その。然るべき“解放”とは、具体的に何をするのでしょうか?確保や延命治療とは、少し違う処置なのでしょうか」

「そうですねえ」


 組んだ足の爪先を円を描くように回しながら考える蛭間に、真実也は向き直って返答を待った。窓の外の景色を眺めていた蛭間はようやく足の動きを止めると、目を細めて真実也に微笑みかけた。


「百聞は一見に如かず。見れば分かります」

「な、なるほど……」


 有無を言わさぬ彼の雰囲気に、真実也は思わずそう答えていた。


「そういえば真実也君は、暴人を実際に見たことはありますか?」

「いいえ。ビデオで見たことがあるくらいで、実際には一度も」

「そうですか。それは結構」

「はい」


 プツリと会話の途絶えた車内は車の走行音を立てて現場に向かう。


「真実也君。飴ちゃんいりますか?」

「結構です」

「おや、残念」





 十分ほどすると、車は静かに停車した。車を下りれば目の前に『コトブキ介護福祉センター』と書かれた看板が掲げられた建物が建っているのがわかった。蛭間や真実也以外にもパトカーや救急車が数台停まっており、入居者や従業員が警察に保護されながら施設の外へ出て行く様子が伺えた。颯爽と建物入口まで歩く彼の後ろをついていくように、真実也は足を早めた。


「担当の警察の方々ですか!」


 入口正面の階段を上ると、屋内から髪を一纏めにした三十代ほどの女性が姿を現した。服装からして介護士のようだと真実也は思った。蛭間は警察手帳を見せながらこくりと頷く。真実也もそれに合わせるように、慌てて手帳を取り出した。


「こんにちは。公安部の蛭間です」

「お、同じく。真実也です」

「ああ、よかった……とりあえず彼のいる部屋へ案内します」


 胸を撫で下ろした彼女に促されるまま、蛭間と真実也は施設の中へと案内された。


「入居者や従業員の皆さんは、もう安全な場所に避難されましたか?」


 蛭間は微笑みながら、動揺する女性を落ち着かせるように言った。女性は冷静でいようと努めているものの、顔色は悪く声はひどく震えている。


「……はい、全員移動し終わりました。早い段階で変化に気付けて、本当によかった……この廊下をまっすぐ進んで突き当たりの部屋です。鍵は、これで開けてください」


 蛭間が礼を言いながら鍵を受け取ると、女性の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。


「すみません」

「あ。いえ」


 顔を覆いながら涙声で呟く女性に真実也は動揺し、眉を下げて蛭間の方を見た。蛭間は何も言わず、落ち着き払った様子で女性を見ている。


「彼は……小阪君はとっても素直で、親切で、良い子で。何をするにも一生懸命な子だったんです。入居者の方からも可愛がられていて、毎日、本当に楽しそうに働いていたのに。よりにもよってそんな子がどうして……って考えたら」

「ええ、お辛いでしょうね」


 涙を流し俯く彼女に蛭間は優しく声をかけた。真実也は息を飲んだまま、気配を殺すように蛭間の後ろに立ち尽くす。


「消えてほしくない人間ほど、早くいなくなってしまう。運命とは極めて理不尽なものです。でも心配は要りません。我々は彼を理不尽な運命から解放します。さぁ行って、後は任せて」

「……よろしくお願いします」


 蛭間は女性の肩に優しく手を置いた。女性は蛭間を見上げると、意志を固めたのかしっかりと頷いた。蛭間と、そして後ろに立つ真実也に礼をすると入口に向かって走っていった。真実也は彼女が出ていくのを目で追った後、静かに視線を蛭間に移した。目線を少し上に向けて蛭間の表情を横から伺おうとするも、白金色の彼の髪が表情を隠している。


「行こうか」


 閉ざされた扉の方を向き、蛭間は真実也を見ることなく抑揚の無い口調で言い放った。





 鍵を開けて二人が中に入ると、“それ”は部屋の中央にいた。手足は床に押し付けられるように拘束され、仰向けに寝かされている。


「だ、誰ですかっ」


 扉を閉めるなり中央の人物が叫んだ。真実也は驚いて後ずさったが、蛭間は動じない。


「お邪魔します。特殊対策班の蛭間です」

「と、特殊対策班?」


 中央まで静かに歩み寄ると、通報の通り二十代ほどの若い介護服を着た男が恐怖に脅えた顔で拘束されていた。男は蛭間の言葉を繰り返した。容赦無く男に歩み寄る蛭間にたじろぎつつも真実也は彼の一歩後ろ

からついていく。男の瞳孔は開き、耳から墨色の出血をしているのがわかった。真実也は動揺をなんとか隠そうと、スーツの襟元を正す。男のすぐ横まで移動した蛭間は、彼の傍にしゃがみ込んだ。


「僕は暴人化してしまうんですか?」


 横たわった男は明瞭な口調で問いかけた。声だけを聞くと普通の人と何も変わらないことに真実也は驚く。蛭間は顎に手を当てると、微笑みながら答えた。


「時間の問題でしょう。それにしても、暴人化初期症状がここまで長く続いてるとは珍しいですねぇ」

「はは……そうですか」


 男は力無く笑う。時折口の隙間から蒸気のようなものが呼吸とともに吹き出している。


「僕、もう少しでケアマネージャーに昇格できるところだったんですよね」

「それはそれは」

「ようやく、親孝行。出来ると思ったのにな」


 蛭間は静かに、彼の話に耳を傾けている。


「こんなこ…と…に、なっちゃうなんて。本当、ついてな、ぁ」


 言葉を紡ぐ彼の口元がおぼつかなくなってくるのを見た真実也は、そわそわと蛭間に視線を向けた。蛭間は羽織っている上着の内側を手探っている。


「小阪友輝さん。大丈夫、私が楽にしてあげますよ」

「え……」


 次の瞬間、蛭間は上着の内側から取りだした注射器で彼の首を刺した。首に針が打ち付けられるド、という音に真実也の心臓がぞくりと跳ね上がった。


「班長!」


 真実也は驚き、反射的に叫んでいた。注射器を刺された彼はドクンと一度大きく痙攣すると、徐々に呼吸が不規則に乱れていった。


「何を打ったんですか!」

「血流促進剤。暴人化初期症状は長引いても仕方がないからね」

「な……」


 真実也の方を見ることなく言い放った蛭間の冷たい声色に、背筋が凍るのを感じた。足が棒のように固まり、指の先すら動かせない。


「だから、血流を早めてはやく暴人にしてしまった方が良い。……暴人化初期症状を経た先には暴人化しかない。暴人になった者は死ぬまで苦しまなければならず……M細胞が細胞や臓器を食い破るのを、苦しみながら待つことしかできない」

「そんな、そんな……」


 小阪友輝と呼ばれた男は、喉の奥で唸るような不気味な呼吸音と共に手足をばたつかせ始めた。蛭間は仰向けに寝る彼の上に跨ると、両足で彼の両腕を踏んで固定する。先程までの柔らかい口調が嘘のように、恐怖を覚えるほど淡々とした口調で続けた。


「暴人の“解放”。我々特殊対策班の目的はすなわち、彼らを苦しみから一刻も早く“解放”することだ。もう分かっただろう?真実也基巡査」


 蛭間はまたも上着の内側から何かを取り出す。銃口の細長い黒の短銃が、ぎらりと光った。蛭間はその銃口を彼の唇に押し当てると、躊躇なく奥にねじ込んだ。銃口が喉の奥に当たる音と小阪の嘔吐く声が重なる。真実也は引き止めようと声を絞り出そうとするものの、喉が締まって声が出せない。


「一つ教示をしよう。暴人の皮膚表面はとても頑丈だが、体内は人と同じく脆い。体内から強い衝撃を加えれば一発で、苦しむ間も与えない」


 蛭間が角度を変えて銃口を奥へ奥へと刺していく度に、小阪は人間とは思えないような声を上げて足をばたつかせた。完全に理性を失った小阪は意味を持たない言葉を出し続けている。蛭間はそんな彼を静かに見下ろしていた。俯いた拍子に垂れた白金色の髪の隙間から見えたのは、地獄のように冷たく、それでいて慈悲に満ちたような彼の表情だった。真実也は自身の心臓の音が脳に響くような感覚を覚える。


「どうか安らかに」


 真実也の視界に映るもの全てがスローモーションのように動いた。引き金を引く蛭間の指、開ききった小阪の瞳孔に映る発火した火薬の光、飛び散る墨色の血液。返り血を浴びても尚慈悲深く微笑みかける、蛭間の金色の瞳。



暴人、小阪友輝は“解放”された。



* * *



 真実也は、そこから先の記憶があまり無い。力無くその場で倒れ込んでことは覚えている。


「大丈夫ですか?」


 天から降ってくる声が徐々に大きくなる。眉をしかめてまぶたを開けようとすると、頬に冷たい何かが押し当てられた


「うわっ!!!」

「おはよう新人君」


 真実也が声を上げて飛び起きると、目の前で蛭間がペットボトルを手にして笑っていた。辺りを見渡すと、どうやらここは蛭間班のオフィスのようだった。真実也は自身がオフィスのソファに寝かされていたことを知る。


「はは。まさか失神するとは思いませんでしたよ。体調はどうですか」


 蛭間は真実也に水の入ったペットボトルを渡すと、真実也の隣に足を組んで座った。


「今回は特に、条件も良くてオリエンテーションに最適なケースだと思ったのですが……君は思った以上に繊細な子だったようですねぇ」

「あんなものをいきなり見せられたら、誰だってああなります!」


 呑気に笑う蛭間とは対照的に、真実也は声を張り上げた。つい熱が入ってしまったと思い一呼吸おいて気持ちを落ち着かせると、俯いてぽつりと呟いた。


「人が人を、殺すなんて」


 ぽつりと呟く真実也に、蛭間はしばらくして答えた。


「君は暴人を“人”だと思っているのかい?」

「え……?」


 蛭間の方に顔を向けると、蛭間は立ち上がった。おかげで表情がよく読めない。


「彼らは人の形をした化け物だよ、真実也君」


 窓の隙間から差し込む強烈な西陽が、蛭間の背後を照らす。声を出したら殺されるのではと思うような張り詰めた空気に、真実也は言葉を失った。


「……冗談です。いっそそうやって割り切ってしまった方が、気持ちが楽ということですよ。さて、今日はもう上がってください。初勤務で疲れたでしょう?赤飯でも炊いて、たらふく食べてください。それでは」


 振り返りいつもの調子で微笑んだ蛭間は、軽い足取りでオフィスを出ていった。扉の軋む音に続き、ガチャリと閉まる音がオフィスに響く。



 蛭間特殊対策班

──今日からここが、彼の職場だ。




BLACK OUT~蛭間特殊対策班~

Sample:01『蛭間特殊対策班』


END.






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