4.救急搬送

「はい。はい、そうです。そちらに戻る途中でずぶ濡れの女性をひとり拾いましてね。お手数ですが、着替えとお風呂、あと、救急箱を用意していてもらえませんか」

 久留間課長補佐が運転するクルマの中。

 ハンドルを握り、スマホでどこかに連絡をとっている課長補佐の声を隣に聞きながら、わたしはなかば(以上?)放心状態で、助手席の上で、ただただクルマの動きに揺られつづけていた。

「ああ、ケガと言っても大ケガじゃありません。どうも、何度か転んだみたいで、あちこちにり傷や打ち身を負ってるんですよ。それで、消毒液とか湿布、絆創膏などの用意を……。はい。はい。……そうですね、あと一〇分ほどで着くと思いますので、どうぞよろしく。はい。わかりました。では」

 電話の相手は女性か……。

 スマホから洩れ伝わってきた声の高さに、わたしはボンヤリそんなことを考えている。

 課長補佐の口ぶりからすると、奥さんとかお母さん――身内ではないみたい。

 一定の遠慮や配慮が必要な間柄の女性みたいだ。

 課長補佐が、『救急箱』と言った途端、相手の声が鋭く、心配そうなものになったから、きっと優しい人なのには違いない。

「安藤くん」

 スマホをポケットにしまうと、課長補佐は言った。

「これから私の知り合いの家に行く。君も聞いていた通りで、今、お風呂の用意とかを頼んでおいたから、まずは身体を温めなさい。いろいろな事は、その後だ――いいね」

「はい……、御迷惑をおかけして、すみません」

 ちいさな子供にさとしてきかせるような、穏やかな口調で言われて、わたしはぺこりと頭をさげた。

 さげることしか出来なかった。

 干上がった喉からなんとか絞り出した声は、まるで老婆のようにしわがれきっていた。

 それがまた、情けない気持ちをいや増しにして、じわりと視界がにじみそうになる。

 と、

「あ、そうだ!」

 唐突に課長補佐が声をはりあげた。

「安藤くん」と、再びわたしの名を呼んだ。

「は、はい」

「今さ、僕、クルマを運転しながらスマホを使っちゃったじゃない?」

「はい」

「コンプラ的にマズいから、そのこと誰にもナイショにしてね? そしたら、お礼に、つぎ出張に出た時、なにか特別にお土産買ってくるからさ」

 ひょうげた調子で言いながら、へたくそな仕種で片目をつむってみせたのだった。

「もう……!」

 わたしは苦笑するしかない。

「それって、賄賂わいろでもって目撃者を買収しようとしているワケですから、やっぱり、コンプライアンスに触れますよ」

「あ、そっか。でも、頼むよぉ。君と僕との仲じゃない」

「単なる会社の上司と部下の関係ですし、その発言は、今度はハラスメントに引っ掛かります」

「うわ~、キビシ~なぁ」

 ことさら、ツンと言うわたしに、ややオーバー気味におどけてみせる課長補佐。

 そうして言葉をかわしていると、しだいに呼吸も落ち着いてきて、灰色に沈んでいた周囲の様子に色と音とがもどってきた。

 同時に、ぐっしょり濡れた服から伝わる冷たさも。

「クシュッ!」

 ブルッと身震いをしたはずみにクシャミがでた。

 寒い……。

「あと、ほんの少しだ。もう到着するから、もうちょっとだけ辛抱してくれ」

 心配そうに、気づかうように課長補佐が言う。

「は、はい」

 わたしはカチカチ歯が鳴りそうになるのを必死で抑えてうなずいた。

 両腕で自分を抱きしめるようにしても、それでも寒い。

 秋の雨にうたれすぎている。

 でも、

「そ、それにしても」

 気を使わせてばかりで申し訳ない――そんな気持ちで、わたしは、はじめて自分の方から課長補佐に話しかけていた。

「それにしても、課長補佐ってクルマの運転がお上手なんですね。失礼ですけど、なんだかとても意外です」

 身体はガタガタ震えている。でも、それがわかるのも、精神状態が元に戻ったからだろう。窓外の景色が飛ぶように後方へ流れていくのを見ながら、わたしは言った――お世辞などではなく本心で。

 狭い山道。

 舗装こそされてはいるけど、右に左にくねったそれを猛烈な速さで課長補佐はクルマを疾走させているのだ。

 しかも、同乗している人間わたしに少しも不安を感じさせない滑らかな走り。

 そこらのタクシー運転手よりも、ずっと上手と確信できる、それは技量の冴えだった。

「あはは、お褒めにあずかり恐縮だね、と、着いたよ」

 わたしの言葉に課長補佐は嬉しそうに笑い、そして、

 雨のかすみの中から、ぼぅ……とおぼろに姿をあらわした、門の中へとクルマを滑り込ませていた。

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