3.差し伸べられた手

 まさか、北島あいつが戻ってきた!?

 反射的にわたしは身構えた。

 成り行きはわからないが、道路から下の土手へと転落し、なんとか這い上がったらどこにも姿がみえなかったから、呪詛半分に安堵半分だったのに、今更もどってきたんだろうか。

 が、

(違う……)

 目の前に止まっていたクルマは、わたしをここまで連れてきて、そして、置き去りにしたそれではなかった。

 たぶん外車。

 いや、ここまでわたしを連れてきたのも同じく外車だったけど、あれは、ポルシェ? だったか、自動車にはうといんでよくわからないけど、とにかく流線型をした、いかにもスピードの出そうなスポーツカーだった。

 でも、今、わたしが目にしているのはゴツい――直線主体なデザインの4ドアハッチバックだ。

 色も違う。

 ポルシェが銀色だったのに対し、ハッチバックの色は黄色。

 それもマイルドな黄色ではなく、目を刺すように鮮やかなレモンイエローに、その全面が塗装されていた。

 屋根やボンネットの上がしろくけぶるくらいの強さでもって、雨滴が一面はねかえっている。

 そんな、なんと言うか無骨な……、へんなたとえかも知れないけれど、どこか、ちょい悪おやじみたいな印象をあたえるクルマが、わたしの傍にとまっていたのだった。

「乗りなさい」

 雨がつよいからだろう――ほんの少し降ろされた運転席側の窓(外車だから、当然、左だ)から、そんな男の声がした。

 きっと、ずぶ濡れで、地面に座りこんでいる女を見かねての親切だったのだろう。

 でも、あんな事があった直後のせいか、わたしは完全におかしくなっていた。

「ほっといて!」

 せっかくの言葉を間髪入れず撥ねつけたのだ。

「どうせ、あんたもわたしの身体目当てなんでしょう! おためごかしの親切で、人をだまそうたって、そうはいかない! ほら、消えて! わたしは一人でも大丈夫だから、とっとと何処かへ行っちゃいなさいよ!」

 相手を罵倒し、わめき散らしたのだ。

 怒りがパワーをくれたのか、力が入らなかったひざが勝手にうごいて、再びわたしは立ち上がった。

 そのまま後も見ないで歩きだす。

「お、おい!?」

 とまどった声が聞こえてきたけど、知ったことか。

 髪はざんばら――あれだけ頑張って整えたヘアスタイルも何もあったものじゃなくなってるだろう。

 前髪はべったり額にはりついて、雨垂れはひっきりなしに目にはいる。

 服は上、下――当然のように下着さえもがずぶ濡れで、肌にまとわりついて気持ちがわるいし、動きにくい。

 そして、なにより右足だ。

 道路から下の土手に転落したはずみかどうかはわからないけど、いていたヒールが片方すっとんでいて、右足、左足に段差が生じて歩きにくいことこの上ないのだ。

 ひょこひょこ、びっこをひくような不自然きわまりない歩き方しか出来やしない。

 それでも、わたしは止まらなかった。

 怒りの念で頭の中が完全に塗りつぶされていた。

(北島……! 北島……! 北島……!)

 つい、今日の今日までのぼせあがり、申し込まれれば結婚さえも考えていた男が、今では憎くて憎くてたまらなくなっていた。

 そんな男に舞い上がっていた自分の莫迦さ加減に腹が立って、やりきれなくって仕方がなかった。

 そんなやり場の無い激情――今にも身体が内側からバン! とぜてしまいそうな憤激にくらべれば、多少の不快感やら歩きにくさやらは何でもない。


「待ちなさい!」

 クルマのドアが閉められる、バン! という音につづいて聞こえる雨のなかを走ってくる音。

 ハッチバックを運転していた男が、わたしを追いかけてきている。

 ほとんど反射的にわたしは足を速めたけれど、そもそも男と女、それに加えて、足許に問題をかかえているとあってはどうしようもない。

 あっという間に追いつかれ、「なにを考えているんだ、君は」と肩を掴まれてしまった。

「うるさい!」

 身体をひねってその勢いで、わたしは男の腕を振り払う。

 すぐ背後に立つ男の顔を殺意すらこめ睨みつけた。

 が、

「なに考えてるんだは、こっちのセリフよ! これ以上、しつこくするなら警察を……」呼ぶ、と言いかけ、そこで、続けるはずの言葉は、溶けるようにして霧散した。

「え? あ、安藤くん……?」

 わたしの顔を目にした相手も目をまるくしている。

 クルマの中からわたしに呼びかけ、そして、こうして追いかけてきてくれたのは、

「く、久留間課長補佐……」

 冴えないわたしの上司こと、久留間課長補佐だった。

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