第三話 新しい獲物

 吸血鬼にとって、栄養価が高い血の持ち主は二種類に分けられる。

 一つは、単純に能力が高い吸血鬼。しかしこれは都合のいい誓約をふっかけられたり、対価を求められたりとリスクが高いばかりなので現実的ではない。

 もう一つは、穢れを知らない若い人間。この場合の穢れとは、俗物的な欲望に加え、挫折や絶望なども含まれる。

 どちらの獲物の方が簡単かなんて、言うまでもない。

 ……言うまでもない、のだが。


「へえ、流石は今をときめく大人気の美人歌姫。凄い人気だねぇ!」


 夕方。開場まではまだ時間があるというのに、ずらりと並んだ人の列を最後尾から眺めながら、主が暢気に笑う。

 栄養価の高い血を、と進言した手前、サポートには全力を尽くしますがね。

 もっとなんていうか、ラクな相手はいくらでも居ましたよね?


「忘れてないかい、キミ? ボクは、ボクのことを恨んでくれた人の血しか飲めないんだよ。だから、歌姫のコンサートを台無しにすれば、歌姫は怒り心頭だろう? きっとボクのことを殺したくなるほど恨んでくれるだろうさ!」


 個人的には、鼻をつまんででもそのまま飲んでくれたら嬉しいのですが。


「それはビネガーをそのまま飲むのと同じだよ。……って、果物が主食なコウモリくんに言ってもわからないか。とにかく、まずは歌姫の元まで辿り着かないとね」


 主が列から離れ、建物の裏手に回った。ワタクシも翼を広げて、建物付近を上空から観察する。

 警備員は居たが、警察やSVEFは居ないようだ。主の肩に戻り報告すると、彼がニンマリと笑った。


「ふふん、それは好都合。こんなに人間が大勢集まるイベントを見逃すなんて、仰々しい見てくれの割には大したことないね」


 先ほどまでぐうたらしていたとは思えないほど、主の足取りは軽い。関係者専用の出入り口を見つけると、警備員が立っているにも関わらず、主は躊躇することなく向かった。


「やあ、お疲れさま」

「は? すみませんが、こちらは関係者以外立ち入り禁止で――」

「失礼な、ボクは超有名なピアニストだよ。そうだろう?」


 追い返そうとした警備員のしかめっ面に、主が手を翳し、パチンと指を鳴らす。

 たったそれだけで、しかめっ面が驚きと緊張で引き攣る。


「し、失礼しました! どうぞ、お通りください」

「うんうん、それでいいんだよ。じゃあね、お仕事頑張って」


 かしこまるあまり、軍人ばりの敬礼までし始めた警備員に、主がひらひらと手を振る。

 難なく侵入を成功させたのはいいけれど。ピアニストだと偽る必要はあったのだろうか。


「相手を騙すには、嘘の中にをちょっとだけ混ぜることが大事なのさ」


 そう言って、主の指先が私をくすぐる。ううむ、この綺麗な指は本当に器用でいらっしゃる。

 そんなやりとりをしながら、難無くエレベーターへと乗り込む。


「ふっふっふ。楽勝だねぇ。前のカジノとは違って、今回はすぐに決着がつくだろうから、気楽でいいなー」


 確かに、前回のカジノは大変だった。

 主は手先が器用なだけではなく、先ほどの警備員にも施したような、人間を惑わす幻術にも長けている。

 主の悪食は、主を恨む者の血でなければ満たされない。ならば、幻術で恨みの感情を強制的に植え付ければ早いのだが。

 主いわく、「コレジャナイ」のだそう。

 カジノのオーナーは狡猾で貪欲だったので、下準備に相当な時間を費やしたが。確かに、今回はコンサートを台無しにすればいいだけなので、すぐに終わるだろう。


「それに、全くの嘘でもないしさ。あ、そこのキミ。ピアニストであるボクの控室ってどこだっけ? ド忘れしちゃってさあ」


 若いスタッフに声をかけ、あっさり控室の場所を教えてもらう。なんの障害もないまま、主は無事に本物のピアニストの名前が貼られた控室を見つけた。

 ちゃんとノックをしてから、部屋の中へと入った。偉い、流石はワタクシの主。返事を待てば満点でした。


「は……え、誰ですか、あなた」

「こんばんは。そして、おやすみなさい」


 中に居たのは、小太りの中年男だった。突然の来訪者に慌てて立ち上がったのも束の間、主の術でまたたく間に気を失ってしまった。

 バランスを崩して倒れ込む身体を、主は軽々と抱える。吸血鬼は細身に見えても、身体能力は人間よりも圧倒的に上なのだ。


「おっと、危ない。倒れて頭でも打ったら大変だ」


 放っておけばいいのに、主は律儀にも男をソファに寝かせた。すやすやと寝息を立てている様子を見るに、ただ眠っているだけのようだ。

 ニヤニヤと、まるでイタズラを隠す子供のような笑顔の主。


「ふふん、これで歌姫のコンサートは台無しになったも同然だよねぇ? だって、専属のピアニストが眠っちゃったんだもの」


 ……えっ! まさか、これで終わりですか?


「十分でしょ。あとは歌姫に会って、コンサートは出来なくなったっていうことを伝えないとね」


 いやいや。ここまで来たのですから、もっと徹底的に台無しにするべきでは? 機材を壊したりとか、客を幻術で追い返したりとか!


「えー……キミ、極悪じゃん。極悪コウモリじゃん、こわっ」


 吸血鬼である主にだけは言われたくないのですが! などという緊張感のないやりとりをやっていた、その時だった。

 コンコン、と控えめなノックが聞こえてきたのは。


「休憩中のところ、ごめんなさい。今日のプログラムのことで、いくつか確認したいことがあって」


 鈴を転がしたかのような、可愛らしい声。主が入室を促せば、「失礼します」という声と共に一人の女が部屋に入ってきた。

 絹糸のような金髪に、雪のよう白い肌。主の美貌で慣れているはずのワタクシでも、見惚れてしまうほどの麗しさ。

 なるほど、これが噂の歌姫か。人形のように愛らしい顔立ちだが、ワタクシたちの姿を目にした途端、アクアマリンの瞳が驚きに見開かれる。


「あら? あの、あなたたちは誰ですか? それに、その人は一体」

「初めまして、可愛らしい歌姫さん。ボクは吸血鬼。こっちの子は助手。キミの血を貰いに来たんだ」

「……吸血鬼さん、ですか?」


 歌姫の方は、驚きのあまりきょとんとしてしまっている。そんな彼女の手をとり、恭しく指先に口付けを落とす。


「そうとも。キミは美しく、その声には力がある。キミの血ならば、ボクの飢えもきっと満たすことが出来るだろう。大丈夫、殺したりはしないから。大人しくしていれば、痛くもないよ」

「で、でも。私、これから本番で……来てくれた皆様のために歌わないと」

「残念だけど、それは無理だよ。見ての通り、キミの相棒であるピアニストの彼は夢の中だからね。朝まで起きないと思うよ」


 歌姫が困り果てたように、視線をピアニストへ向ける。主の言葉に嘘偽はない。彼女がどれだけ叫ぼうが、目を覚ますことはない。

 ドアはしまっており、辺りに人気ひとけはない。彼女は完全に主の罠にはまった、逃げることなど不可能である。

 しかし何を思ったのか、大きな目をぱっと輝かせて、歌姫が主を見返した。いや、違う。 

 彼女が見ていたのは、主の手だった。自ら主の手を握り返し、というかガッツリ掴んで、隅々まで見つめている。

 

「吸血鬼さん! あなた、ピアノを弾けるんですね!?」

「……は? まあ、それなりには」

「いいえ、私にはわかります。それなり、などという腕前ではありませんよね? この手は何十年も鍵盤を叩き、音楽を愛してきた手です!」


 確かに、ピアノは主の趣味だ。これまでにカジノディーラーやバーテンダー、シェフやパティシエ、マジシャンにエステティシャンに占い師など、様々なことをやってきたものの、継続しているのはピアノくらいだろう。

 街やホテルを渡り歩く日々のため、毎日とはいかないが。主のピアノは、人間が到達できる技量を凌駕していると断言していい。

 それを知ってか知らずか、この歌姫、


「お願い、吸血鬼さん。ピアニストとして、私と一緒にステージに立ってほしいの!」


 などと、言い出したのである。


 

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