第四話 怖いもの知らずな歌姫

「……ボクの話、聞いてた? 吸血鬼なんだけど、ボク」

「ええ、バッチリ聞いていましたよ。でも、吸血鬼さんだからと言って、ステージに立てないなんてことはないですよね? 明るいのが苦手でしたら、照明を調節しますから!」


 そう言って歌姫が主の手を離すと、傍のテーブルに置いてある楽譜の束を手に取り、固まったままの主の手に押し付けた。


「はい、これが今日歌う曲の楽譜です。有名なバラードやクラシックばかりなので、初見の曲は少ないと思うのですが!」

「……これ、十曲近くあるんだけど。これをぶっつけ本番で、しかもキミの歌に合わせて弾けと?」


 とんでもない無茶振りである。パラパラと楽譜を捲る主の顔からも、すっかり笑みが消えている。

 この歌姫、今すぐ殺されても文句は言えないだろう。だと言うのに、彼女はさらに、負けず嫌いな主に言ってはいけない言葉を口にした。


「……無理ですかね? 吸血鬼の方って、人間を魅了することが得意だって聞いたんですけど、流石に無茶なお願いですよね、すみません」

「はあ? ……誰が出来ないなんて言った?」


 主!? ワタクシが驚きのあまりに何も言えないでいる間、主はもう一度、今度は最初から最後まで楽譜に目を通す。

 そして、不敵な微笑を浮かべて、頭一つ分背が低い歌姫を見下ろす。


「いいよ。これくらい、ボクなら目を瞑ってても弾けるさ」

「本当ですか!」

「キミの歌声が霞むくらい完璧に弾ききって、観客を一人残らず魅了してやるとも。それでキミのファンがボクのところに来ちゃったらごめんねー? 先に謝っておくよ」

「望むところです! じゃあ、吸血鬼さんの衣装を手配しに言ってきますねっ」


 曇りのない満面な笑顔で、歌姫が部屋を出て行く。ぱたん、とドアが閉まる音でワタクシはやっと我に帰りました。

 トンデモ展開ですが、これは逆にチャンスかもしれません。本番の途中で主が弾くのを止めて彼女の邪魔をすれば、コンサートだけでなく彼女の信用も取り返しがつかないことになるだろう。

 ……という、ワタクシの思惑とは裏腹に、


「ふ、ふふふ……ボクを煽ったことを、後悔させてやる……」


 主の目に灯った本気という名の炎が、メラメラと燃え上がっていた。



 案の定という状態だったので結果から言うと、コンサートは大成功してしまった。


 千人の人間を収容出来る会場は満員。開始直前にピアニストが急遽変更になることを知らされた時は、観客たちも不安そうにざわめいていたが、それもほんの数秒間。

 歌姫をエスコートしながら登場した主に、特に女性たちが色めいた歓声を上げた。シンプルなグレーのスーツは主の美貌と完璧なスタイルを際立たせ、視線を流すだけで妖艶な色香を感じさせる。

 対して、歌姫は瞳の色と合わせた水色のロングドレス。薄く化粧を施し、髪も繊細に編み込んだ姿は先程の無茶振りをかましてきた女と同一人物とは到底思えない。


「予定外のことはありましたが、今夜も皆様に煌めくようなひと時を贈らせて頂きます」

「心配はいりません。ここに居る全ての人に、夢のような時間をお届けしましょう」


 美しい歌姫とピアニスト。この二人がステージに立って、成功しないわけがなかった。

 主は宣言通り、全ての演目を完璧に弾いてみせた。誰かの歌に合わせるなんてことは初めてだったが、歌姫のアドリブにもしっかり対応した。

 度肝を抜かれたのが、主のピアノに負けない歌姫の歌声だった。透き通るようでありながら、目の前で星が七色に瞬くかのな煌めき。ワタクシを含めた誰もが、呼吸することすら忘れるほどに魅了されてしまった。

 幕が下りれば、観客たちは涙を流して万雷の拍手を二人に贈る。これを大成功以外のなんだと言うのか。


「……ねえ、ボクたち、何しに来たんだっけ?」


 本番終わり。あてがわれた控室でソファに腰掛け、ペットボトルの水を一気に飲み干してから、主が疲れ切った様子で呟いた。

 それ、ワタクシの方が聞きたいですけどね。


「もう帰ろうか……とりあえず、帰ってベッドで寝たい――」

「吸血鬼さん!」


 ノックと同時に飛び込んでくる歌姫。格好はステージの上と同じなのに、すっかり元通りに戻ってしまった。


「今日は本当にありがとうございます! 吸血鬼さんのピアノ、素晴らしかったです! 大勢のお客さんたちが吸血鬼さんのピアノをもっと聞きたい、次の公演はいつかってスタッフに凄い勢いで詰め寄ってますよ」

「は、はは……そう」


 主の笑顔が引きつるなんて、滅多に見られないのに。きゃっきゃとはしゃぐ歌姫に頭を抱えたくなった頃、再びドアがノックされた。


「あの、先ほどピアニストの方はいらっしゃいますか?」


 恐る恐る部屋に入ってきたのは、主が眠らせたピアニストだった。

 朝まで起きないと思っていたが、主の意識がピアノに向かってしまっていからだろう、予想よりも早く目が覚めたようだ。


「ああ、誰かと思えば。おはよう、よく眠れたかい?」

「は、はい。その、最近あまり眠れていなかったので……あの、それで……」


 彼は自分の役目を盗られたことに怒ることも、悲しむこともしなかった。

 むしろ、なぜだかやたらすっきりとした顔で、主と歌姫の前に立つ。

 そして、深々と頭を下げた。


「途中からしか見られませんでしたが……お二人の歌とピアノに、感服しました。同時に、自分の限界を思い知りました。おれ、引退します!」

「え、なんでそうなる?」

「自分の体調管理すら出来ず、皆さんに迷惑をかけたことはもちろん、おれではあそこまでの演奏は出来なかった。だから、辞めます。田舎に帰って、父のトマト農園を継ぎます! 今度、差し入れにトマトジュースを贈りますね。では!」

「何この人間、思い切りが良すぎるんだけど!? ちょ、待っ」


 言いたいことだけ言って、そのまま走り去るピアニスト。いや、元ピアニストか? 

 ちなみに、トマトが好きな吸血鬼は結構多いらしい。おやつ感覚だが。


「……どうしましょう。コンサートのスケジュール、半年後まで決まっているのですが。どこかにその凄腕を持て余しているピアニストさんは居ないかなぁ」


 歌姫がチラチラと主を見やる。べきべき、と主の手の中で空のペットボトルが潰れていく。


「あのねぇ……ボクは、キミの血を貰いに来たの。ピアノを弾くためじゃない」

「でも、凄く楽しそうでしたよ?」

「それは……こんな風に、誰かの前で弾くなんて滅多にないし」

「私も凄く楽しかったです! だから、もっともっと歌いたいです。あなたと一緒に。歌える程度でいいなら、血も差し上げますので」


 お願いします! 手を差し出すどころか、主の手を掴んでぶんぶんと振り回す歌姫。

 本来ならば、従者であるワタクシが歌姫に噛み付いてでも止めるべきなのでしょうが。どうしても、動けなかった。


「……いいだろう。近い内に、二度と歌えなくなるくらいの絶望に叩き落としてあげるから」


 そう宣言する主が、とても楽しそうに笑っていたから……。


 


 

 

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