46.蓮の花揺れて

 谷中やなか墓地から下りてきた三人は、予定通り上野公園に寄り、田んぼになった不忍池しのばずのいけのほとりで弁当を広げた。

「今日はたくあんか。そういえばそろそろ大根の季節だね」

 たかしはおにぎりを食べている。康史郞こうしろう公認の仲になったことで、話し方もくだけてきたようだ。その隣でかつらは家族写真を見つめていた。

「空襲で写真もみんな焼けてしまいましたから、康史郞が疎開するときに持っていったこの写真を見たとき、本当に嬉しかったですね」

「疎開に行く前の晩に母さんがこれを持ってきて、俺を抱きしめてくれたんだ。『今度会う時はきっと大きくなってるから』と言って。結局それが母さんとの最後の夜だった」

 康史郞は思いだしたように話し出した。

「疎開先も色々大変だったんでしょ。迎えに行った時、別人みたいでびっくりしたわ」

 かつらは疎開先から康史郞が戻ってきた時のことを思いだしていた。顔から幼さが取れ、背も伸びていたが、痩せこけた体に洗いざらしの学童服を着て立っていたのが昨日のことのように思える。

「でも一面の焼け野原になった東京を見て不安だったから、姉さんを見てホッとしたよ」

 もちろん、その後で康史郞は母親の死を知り、防空壕の家を見て愕然とするのだが、それに付いては触れなかった。


「ところで、どうして母さんのことを話す気になったの」

 康史郞がかつらに尋ねる。

「私が結婚したら、あのお墓を守るのは康史郞になるから。その前に本当のことを話しておきたかったの。でも、私が母さんを置いて逃げたことを知ったらきっと許さないんじゃないかとずっと思ってた。それに、康史郞が悲しむ顔も見たくなかったわ。悲しい思いをするのは私だけでいい、と思ったの」

「姉さんの気持ちは十分伝わったよ」

 康史郞の言葉にかつらは救われたように感じた。

「ありがとう。嬉しいわ」

 かつらは写真を肩掛けカバンにしまうと、おにぎりを手に取った。

「隆さん、ミシンのこと覚えてますか」

「ああ、縫製工場に相談するって言ってたね」

「工場長さんにベルトの替えを取り寄せてもらうことにしました。ミシンの説明書も貸してくれるそうです。ただし代金はお給料から天引きになるので、来月は節約しないと」

「それじゃ、俺がくず鉄拾いを頑張らなきゃな」

 康史郞が明るく言う。隆はおにぎりを食べ終わると手を拭きながら話し出した。

「決めた。康史郞君が中学校を出るまでに、君たちと住めるような新しい部屋を見つけて引っ越すよ。それでお金が貯まったら、今度はあのバラックを建て替えよう」

「そりゃすごいや」

 康史郞は手を叩いた。

「もしミシンが直ったら、工場に勤めなくても家で縫製の仕事が出来るようになるわ。そしたら、隆さんがどこに引っ越しても大丈夫よね」

「そこまで考えていたとは、さすがかつらさんだ」

 隆は誇らしげにかつらを見つめた。


 食事も済み、三人は帰りの都電に乗るため歩き出した。不忍池の田んぼを横目に見ながらかつらがつぶやく。

「この田んぼが、また蓮の池に戻る日が来るのかしら」

「蓮の池か。そういえば、いつか『泥中の蓮でいちゅうのはす』の話をしてくれたね」

 隆の話を聞いた康史郞は驚いた。

「姉さん、よう兄さんの話をしたの?」

「ええ」

 かつらは言葉少なにうなずく。隆はさらに語り続けた。

「ずっと考えていたんだ。泥の中で清らかに咲く蓮がきれいなのはきっと、泥の中を必死に茎を伸ばし水面に花を咲かせたからだと。かつらさんはそんな蓮の花のように美しい」

 かつらは頬を赤らめた。

「昔ここに来たとき、両親が話してくれた蓮の花のことわざを思いだしたんだ。『一蓮托生いちれんたくしょう』。死んでも同じ蓮華れんげの上に生まれ変わる。これから私たちはどんな時も一緒だよ」

「隆さん」

 かつらは立ち止まり、隆の目を見つめる。

「私は康史郞がいたから今まで頑張って来れた。そしてこれからは隆さんも一緒よ」

「ああ。私たちが前に進めたように、きっとここも蓮の花が揺れる池に戻るさ」

 二人はどちらともなく寄り添い、歩き始める。康史郎がそれを見守るように二人の後に着いていった。

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