38.見えない背中

 交番を出たかつらと康史郞こうしろうはそのまま「まつり」に向かった。

「すっかり遅くなっちゃったわ」

 早足のかつらに康史郞が尋ねる。

「姉さんがいなくてお店は大丈夫なの」

征一せいいち君が代わりに入ってくれてるわ。そうそう、征一君を怒らないでね。私のために康ちゃんが京極きょうごくさんの所に行ったって教えてくれたんだから」

 康史郞は征一が自分の行き先を教えたのでかつらが助けに駆けつけられたのだと理解した。

「もちろんだよ」

 康史郞はうなずくとさらに尋ねる。

「そういえば、姉さんなんで翡翠ひすいを持ってたの? もしかして京極さんのプレゼント?」

「違うわ。今度ちゃんと話すから」

「まつり」が見えてきたので、二人の話はそこで途切れた。


「康ちゃん、ごめん」

「いいんだよ。姉さんが来なかったらどうなってたか」

 征一と康史郞が話しているのを見ながら、かつらは戸祭の出してくれた味噌汁を飲んでいた。時計は8時を回っているので入口は閉めている。

「そうか、あの兄さんが怪我してまで助けてくれたのか。それにしても、ヤミ市でヒロポンを売っていたことが警察にばれたとなると厄介だな」

 店の片付けをする戸祭は、かつらの話を聞きながら難しい表情をした。

「今東京のあちこちでヤミ市の取り締まりが始まってるだろ。ここもいつまでもつか分からん。駅の近くに店を建てられればいいんだが、この住宅難ではな」

「ってことは、ヤマさんの雑貨店もなくなっちゃうってこと?」

 康史郞が話に割り込んできた。

「康ちゃんはあの二人が心配なのね」

 かつらの言葉に康史郞はうなずく。

「まだ捕まったヤマさんたちがどうなるか分からないわ。もし助けが必要ならその時考えましょ」

 かつらはそう言うと味噌汁を飲み干した。


 10月12日、日曜日。かつらはいつものように洗濯や布団干しを済ませ、部屋で繕い物をしていた。康史郞は珍しく外には行かず米つきをしている。戸口を叩く音がしたのでかつらは立ち上がった。

横澤よこざわさん、いますか」

 かつらは慌てて戸を開けた。軍服姿に風呂敷包みを抱えたたかしが立っている。

「昨日はすみませんでした」

「いいえ、こちらこそ。お怪我は大丈夫ですか」

「京極さん、上がってよ」

 康史郞がかつらの後ろからのぞき込む。

「では失礼します」

 隆は靴を脱ぐと室内に上がった。


「病院で手当てしてもらったんですが、傷口がふさがるまで2週間ほどかかるそうです。さすがにその間仕事を休んでるわけにも行かないので、傷薬とガーゼをもらってきました。ですが、なにぶん背中の傷なので自分では手当てが難しくて。そこで、申し訳ないのですが横澤さんに助けていただきたいと思って来たんです」

 隆は頭を下げる。かつらは隆の背中に視線を落とした。軍服の下がかすかに膨らんでいる。この下に傷口があるのだろう。

「私でできることなら喜んで」

 かつらは隆を安心させようと笑顔で答えた。

「ありがとうございます。明日『まつり』から帰る時、私の部屋に寄って手当てしていただけませんか。それと」

 隆は風呂敷包みからかつらの手ぬぐいを取りだす。

「洗ったんですけどあまり血の跡が落ちなくて。すみません」

「大丈夫ですよ」

 かつらは大事そうに手ぬぐいを受け取った。

「後、作業服の繕いもお願いしたいんです。自分でやってみようとしたんですがうまくいかなくて」

「そういうの、姉さんは得意だよ」

 康史郞は胸を張る。

「甘えてしまってすみません。お礼はまた改めて」

 頭を下げる隆にかつらは少し考えると言った。

「それじゃ、今度上野に一緒に行ってくれませんか。康史郞のセーターを買いたいんです」

「分かりました。それなら私はかつらさんの下駄の代わりになる靴を贈りましょう」

「本当ですか」

 かつらの顔に戸惑いと喜びが広がる。

「私も切られた代わりの下着が欲しかったんでちょうど良かったですよ」

 隆は風呂敷包みに入った作業服を取りだそうとした。その顔が少し歪む。

「まだ傷が痛むんですか。無理しないでくださいね」

 心配そうなかつらを励ますように隆は答えた。

「大丈夫ですよ。君たちのお陰で、私は廣本ひろもとさんと向き合うことができました。この痛みもきっといつかなくなります」

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