第二章 繋がる絆
7.カスリーン台風
季節は秋になった。幸いあれから
忙しい日々の中、時折「まつり」に訪れる
「昨日は大変だったよ。夜中に突然隣部屋の男が暴れ出してね」
ヤミ市を離れたところで隆が切り出した。隆は墨田川近くの簡易宿所で暮らしている。3畳しかない部屋で、布団を敷けば一杯だからとても人は呼べないと以前語っていたのをかつらは覚えていた。
「お酒でも飲んだんですか」
「いや、どうやらヒロポン中毒だったらしい。軍隊にいた頃に戻ってて、敵に突撃しようとしてた。結局病院に運ばれていったよ」
ヒロポンとは現在の覚醒剤にあたる薬剤で、当時は一般に流通していた。かつらもうなずく。
「お店でも、時々ヒロポンを打ったって話してる人がいるわ。最近本当に流行ってるのね」
「仕事仲間にも疲労回復にいいって薦められたけど、ああいうのを見てしまうととても手は出せないな。横澤さんも毎日大変だろうけど、体には気をつけてくれよ」
「私はこうやって京極さんと話すだけで、十分回復してますから」
かつらははにかむように微笑する。隆はその横顔を見ながら言った。
「それは私もだよ。『まつり』でうまい夕飯を食べて、君の話を聞く。願わくばもっと来たいんだが、先立つものがね」
「でも、私が空襲で焼け出された頃は何もなかったんですよ。それに比べたら」
「空襲か。私はその頃南方にいたから、家族が亡くなったことも知らなかったんだ」
隆は空き地だらけの焼け跡に目をやる。かつらは隆の家族について初めて知った。慌てて話をそらす。
「もうすぐ厩橋ですから、今夜はこの辺で」
「そうだな。ではおやすみ」
二人は軽く手を挙げる。かつらは厩橋を渡り、隆は宿に引き返していった。
昭和22年9月14日。現在では「カスリーン台風」と呼ばれている台風が関東地方に接近した。この台風によって刺激された前線のおかげで、数日間雨が降り続いている。日曜で仕事が休みのかつらは洗濯をしたものの外には干せず、部屋の洗濯ひもに引っかけていた。室内のあちこちで雨漏りがするため、トタンのバケツや洗濯ダライを置いている。お陰で狭いバラックがますます狭くなっていた。
「今日は銭湯は無理ね。濡れて帰ってくるだけだし」
かつらが嘆息しながらちゃぶ台の新聞紙をのけると、梅干し入りのおむすびを載せた皿が現れた。ろくに買い出しにも行けないのでこれが夕食である。
「それじゃ夕飯食べたら早く寝ようよ」
康史郞は一升瓶に入った配給の玄米をついている。こうして白米に仕上げるのは普段家にいる康史郞の仕事だ。
「明日の弁当分でサツマイモも切れちゃうから、帰りにヤミ市で買い出ししないとね。それから遅くなるけど銭湯に行きましょ」
かつらはそう言いながらお茶を湯飲みに注いだ。だが、この夜からカスリーン台風は歴史に残る災害を引き起こすのだった。
翌朝。目覚めたかつらは我が目を疑った。干してある洗濯物から水滴が垂れているのだ。
水滴はそのままかつらの布団に吸い込まれる。天井を見上げると、トタン屋根の隙間から勢いよく雨水が降り注いでいた。
「康ちゃん、起きて!」
かつらの声に驚いた康史郞が目を覚ました。雨漏り受けに使っていたトタンのバケツの上でかつらは洗濯物を必死に絞っている。今までバケツがあったところには昨夜のおむすびの皿が置いてあった。
「康ちゃんのシャツは大丈夫?」
あわてて制服のシャツを確かめる康史郞。幸い湿っていたが雨水はかかっていない。
「ごめん、朝ご飯は間に合わないから、お昼のサツマイモ蒸しといて」
かつらはそれだけ言うのが精一杯だった。
なんとか雨漏りを避けて洗濯物を引っかけたかつらだが、着替えは全滅だ。仕方なく寝間着代わりのもんぺの上に割烹着をつけて出勤した。
「それで今日は割烹着なんだ」
その夜「まつり」に夕食をとりに来た隆は、珍しいかつらの割烹着姿を見つめながら言った。
「こんなボロ服でお店には立てませんから」
かつらは割烹着の下から覗く襟の継ぎ当てを気にしている。
「それより、雨漏りは大丈夫かい」
心配する隆に、かつらは味噌汁を出しながら答えた。
「戦後すぐきょうだいみんなで建てたバラックなんです。でも今は直す材料もないし、建てた兄も亡くなってるので、修繕するにもどうしたらよいか」
「私の職場は印刷工場だから、油紙(油を薄くひいた紙)の端切れくらいなら調達できる。それを天井に貼れば雨漏りは防げると思う。どうかな」
「本当ですか。助かります。そしたら次回の食事代立て替えますね」
かつらは重荷を下ろしたように笑顔を見せた。
しかしその頃、カスリーン台風が引き起こした大雨によって荒川と利根川の上流から洪水が発生し、次第に都内に迫り始めていたのだ。
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