第33話 緊張からの解放

 由美の組、8人が泳ぎ終わった。

 俺が見ている限りは、由美がダントツで1位だったと思うが…。


 8人分のタイムが、一斉に電光掲示板に表示される。


《1位 伊藤由美 26.59》


 どっと場内が沸きあがった。

 2位以下を引き離して、ダントツのトップスピードだ。


(スゲェな、由美は。どんな顔してるかな?)


 由美は満面の笑みで、ガッツポーズを繰り返していた。

 滅多に見ることのない、高校の公式競泳水着が、輝いて見えた。


 その後、3組目、4組目が行われたが、由美の記録を抜かすスイマーはいなかった。


 最後に表彰式が行われたが、堂々と1位の台に上がる由美が、カッコ良かった。


(良かったな、由美)


 そう思って眺めていると、なんと好記録での1位突破だからか、マスコミが由美に声を掛け、取材をし始めていた。

 由美が元気な時に心配していたマスコミからの取材だ。

 だがテンションが高いのか、堂々と受け答えしている。

 その声までは聞こえなかったが、由美が頼もしく見えた。


 だが取材の途中で、由美は表情を一転させると、マスコミの人達に謝る仕草をしながら、一目散に控室の方へと猛然と走っていった。


(なんだ、なんだ?ただごとじゃなさそうだな…)


 俺も自然と椅子から立ち上がり、一階の選手控室へと向かった。

 途中で係員に制止されたが、S高校水泳部の者です!と嘘を付き、制止を振り切り、控室へと向かった。


 すると何処からかまだ分からなかったが、由美が怒鳴っている声が聞こえた。


「テメェ、もう二度とこの子に近付くなって言っただろうが!」


(今の、由美か?)


 急いでその声がする方へと向かうと、由美と男子高校生、そして由美と同じ競泳用水着を着た女子の3人がいた。その由美に匿われている女の子は、明らかに男子高校生に対して怯えていた。


「そんな怒んないで下さいよ、キャプテンさーん。俺、反省してますからぁ。だから宮田さんとやり直させて下さい」


「そんな誠意の欠片もない言葉で、この子をまた傷付けるのか?」


 俺は何となく見えてきた。

 あの男が、由美の後輩の子を襲った奴で、由美に匿われている女の子が、襲われた子だろう。


「今から宮田さんが大事なレースに出るって時に、何でテメエみたいなヤツがニヤニヤと声掛け出来るの?テメエだって水泳部だろうが!試合前にどれだけ緊張してるか分かるだろ?」


「だから俺、宮田さんの緊張を解してあげようと思ってさ。ね、キャプテン、宮田さんと話させてよ」


 俺はちょっと離れた所からこのやり取りを聞いていたが、俺も瞬間湯沸かし器な方だ。

 こんな誠意のない男に襲われて、大事な初めてを奪われた由美の後輩、宮田さんと言うらしいが、その子が可哀想でならなかった。


「おい、お前か。俺の妹を傷付けただらしない元カレってのは」


 そこにいた3人が、一斉に俺を見た。由美は一番ビックリしていた。


「えっ…なんで?」


「まあ、キャプテンさんはもう出るまでもないですから」


 俺は由美に目で合図し、芝居を始めた。宮田さんという、由美が後継者にしようと考えている女の子の兄を演じようとしたのだ。由美も軽く頷き、了解したと正樹に伝えた。


「あ、アンタ、誰だよ」


「この子の兄だよ。この前、泣きながら帰って来た日があってな。詳しくは話さなかったけど」


「だ、だから何だよ」


「二度と俺の妹に近付くな」


「ちょっと、お兄さんは関係なくないですか?」


「なんでだ?お前が傷付けた、俺の大切な妹に、お前はまた手を出そうとしている。妹はもうお前に会いたくないと言っている。それはキャプテンから聞いた。顧問の先生同士で情報も交換したそうじゃないか」


 俺はこの1週間、由美とまともに話せていなかったから、詳しい現状は知らなかった。だから顧問の先生同士で話をしたとかいうのは虚勢を張ってしまったのだが、明らかに相手はその言葉を聞き怯んでいた。


「いやっ…。そ、それは勘違いで、だからまず謝って…」


「妹は、お前の謝罪すら嫌がってるんだよ。さっきお前が妹に声を掛けてから、一度でも目が合ったか?ないだろうが。キャプテンさんがマスコミのインタビューを打ち切ってまで飛んできただろうが。大体お前、兄貴の俺に名前も名乗らないって、どんな失礼な奴なんだよ」


 俺はこの男の名前を知らなかったので、それを逆手にとって名前を聞き出そうとした。


「あ、俺は稲垣圭介といいます」


「稲垣か。最初はウチの妹もな、他校の人だけど彼氏が出来た!って、幸せそうだったんだよ。そんな妹を弄びやがって」


「ち、違います!俺は宮田さんのことが本当に好きだから、その、体の関係を持ちたかったんです」


「妹は嫌だって言った筈だぞ?」


「あっ、はい…」


「なのに襲ったんだな?」


「…は、い」


「俺は妹の代理人として、お前を刑事告発することが出来る。県の青少年保護育成条例違反としてな。18歳未満の青少年とセックスすると、例え合意していても犯罪になるんだ。てめえ、そのことを知らなかったとは言わせないぞ」


 俺はここぞとばかりに、法学部で学んだ知識を全開させて稲垣という男を威嚇した。


「ヒィッ…」


「どうする?あとは俺が近くの交番に、俺の妹が稲垣という男に襲われて、みだらな行為を要求されたと届け出をするだけだ。てめえは16歳以上だから、逮捕される。あとはまあ初犯だから少年院へ2~3年ってとこだろうな。高校はもちろん退学か除名だよ」


「かっ、勘弁してください…、お兄さん…」


 稲垣は、さっきまでの舐めた態度から一転、憔悴しきった表情になっていた。


「どうする?コイツのこと、やっぱり警察に言う?」


 俺は由美に匿われている宮田さんという女の子の顔を見て、軽くウインクして見せた。

 それに安心したのか、宮田さんは軽く手を横に振り、そこまではいいです、と意思を示してくれた。


「じゃあ稲垣よ、今から言うことを守れるんなら、お前を警察に突き出すことは我慢してやる。二度とウチの妹に近付くな。復縁を迫るな。S高校の女子自体に近付くな。あと、こんな水泳大会でナンパなんかするんじゃねぇ。分かったか」


「わっ、分かりました。すいません。もう二度とこんなことしませんから、許して下さい…」


 涙目になって必死に許しを請う稲垣に、少し俺はやりすぎたかなとも思ったが、こんな軽薄な男はそこまで絞ってやらないと、再犯を繰り返すだろう。


「じゃあ、今すぐこの場から消えてくれ。妹はこの後、大切な試合が控えてるんだ。帰れ!」


「すっ、すいません、失礼します」


 稲垣は少しでも早くこの場から逃げたかったようで、荷物を持つと全速力で逃げて行った。途中で足が絡まり、転倒するほど、焦っていたようだ。


 その稲垣の姿が完全に視界から消えたところで、やっと由美が話し始めた。


「お兄ちゃん…。ま、まずはありがとう。この子が、アタシが目を掛けてる宮田さんって2年生の子なの」


「いや、お前に黙って観戦に来たのは悪かった。それは謝っておくよ。やっぱり妹の晴れ舞台、見たいじゃんか。だからS高校の応援団席からも離れた所にいたんだけどさ…」


「アタシが思わぬ取材を受けて戸惑ってたら、突然取材を打ち切ってダッシュしたから、何事かと思って来てくれたんでしょ?」


「ま、まあ、そういうこと」


「宮田さんが他校の男子から声掛けられてるのが見えたんだけど、宮田さんは物凄く嫌がってるのに、男子は馴れ馴れしく迫ってたから、ひょっとしたらアイツか!と思ってさ。お兄ちゃんに言われたじゃん、いつも付き添ってあげることって。だから宮田さんを守らなきゃ!って思って…」


 そこで由美の陰に隠れていた宮田さんが、ヒョコッと顔を出した。まだ一連の流れが影響しているのだろう、小さな声で俺に対して、お兄さんになってもらって、ありがとうございました…と言ってくれた。


「大丈夫?宮田さんの試合まで、時間はあるかな?」


「えっとね、宮田さんはバタフライの100mだから、時間的には大丈夫。どう?それまでに心を落ち着かせること、出来そう?」


 由美が声を掛ける。宮田さんは、はい、心強いお兄さんが出来たので、安心して精神集中出来ます…と答えていた。


「そっか、それならよかった」


「あっ、あの…。キャプテンのお兄さん!」


「おっ、声もハリが戻ってきたみたいだね」


「今回は本当にありがとうございました!アタシがあの男に見付かって、迫られているのを見て、キャプテンが飛んできてくれたんですけど、やっぱり女子ですから、2人でいても男子って怖いんです。キャプテンが立ちはだかって下さって下さいましたけど、正直どうしようと思ってました。そこへキャプテンのお兄さんが、アタシのお兄さんとして現れて下さって…。感謝してもしきれないです」


 宮田さんが、思いの丈を一気に話してくれた。


「いやいや、とんでもない。由美の大切な後輩を守るのも、俺の役だよ。偽物の兄になるのは、その場で咄嗟に思い付いたんだけどね。一応由美の目を見て、偽兄貴として演技するよって伝えたつもりだったんだけど、由美に通じたかな?」


「うん。そこは兄妹としてやってきたから、目を見ればお兄ちゃんが何をしようとしてるのかはすぐ分かったよ」


「でも途中まであの男、俺のことも舐めてただろ?」


「うん、アタシも直接見たのは初めてだったけど、気持ち悪かった…。お兄ちゃんのことも、俺が上手いこと騙してやるって態度だったね」


「だから伝家の宝刀を抜いて、県の条例を持ち出して警察に突き出してやることが出来るって言ってやったんだ」


「そしたら途端に顔色が変わったね。見てても分かるほどだったもん」


 ここで宮田さんが由美に、ウォーミングアップしに行っていいか?と尋ねてきた。


「あ、ごめんね。そろそろ行かなきゃね。気を付けて行って来てね!」


「はい!キャプテンとキャプテンのお兄さん、ありがとうございました!」


 宮田さんは深々とお辞儀をすると、荷物を持ってサブプールへと向かった。


「…なあ由美」


「ん?なに、お兄ちゃん」


「この一週間さ、お前全然俺と喋ってくれなかったじゃんか」


「…うん」


 由美も自覚はしていたんだな。


「大会前の緊張のせいかなと思ってたんだけど、それ以上にあの宮田さんのこととか、色々大会に集中出来ないこともあったりして、そのせいでアパートに帰っても俺と話す余力は無かった…。って思っていいのか?」


「…う、うん。お兄ちゃんには分かっちゃうね。この一週間は、アタシのキャパをオーバーする毎日だったの。自分の練習もあるけど、それ以外のことも多くて。でも、今日一位で関東大会に行けることになったし、宮田さんの件もお兄ちゃんに解決してもらえたようなもんだし、物凄い安堵感よ、今は」


「じゃあまた喋ってくれるか?」


「そ、そりゃあ、もちろん」


 何故か由美は照れていた。


「よし、関東大会も1位で突破しちゃえ!インターハイはもう目の前だ!」


「でも最初はお兄ちゃんには来てほしくないとか言ってたけど、お兄ちゃんがいてくれることのありがたさ?嬉しさ?安心感が分かったから…。関東大会も見に来てね」


「いいのか?じゃあ堂々と見に行かせてもらうよ」


「サキ姉ちゃんと一緒でもいいよ」


「サキちゃんと?うーん、まあそれはまたサキちゃんに聞いてみるよ」


「とにかくありがと、お兄ちゃん!アタシ、キャプテンの仕事があるから、行くね。お兄ちゃんはまだ見ていく?」


「ああ。宮田さんの泳ぎを確認してから帰るよ」


「分かったよ。じゃあまた、ね」


 由美は軽く照れつつ、手を振って控室の方へと向かっていった。


(元の席へと戻るとするか…)


 俺は何か大仕事をやった後のような充実感に包まれていた。


<次回へ続く>

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