第32話 県大会突破へ向けて

 何となく落ち着かない毎日を過ごした後、『神奈川県高等学校水泳競技大会兼関東大会予選会』の本番を迎えた。


 由美は緊張がピークに達しているようだ。

 前日の土曜日の帰宅後から、溜息ばかりついては俺の言葉なんかまるで聞こえないようで、夕飯も上の空、風呂も入ったのかどうか分からないほど速攻で上がってきた。


 この1週間、由美はずっとそんな状態だったのだが、これまでどんな大きな大会でも、こんな状態になったことは無かったので、俺は由美の心中を推し量ることしか出来なかった。


「じゃあお兄ちゃん、県大会行ってくるね」


「由美、この一週間、ほとんど俺は由美と喋ってないけど…。大丈夫か?」


「あっ…うん。ごめんね、なんか…」


「体調は?問題なしかい?」


「うん」


「あの…俺が聞くのもなんだが、その…毎月の女子のお客さんで辛いとか、ないか?」


「うん。もう2週間前に終わった」


「…まあ、悔いのないように、な。俺が言えるのはこれだけだ。行ってらっしゃい」


「うん。行ってきます」


「あっ、由美!念の為、会場くらい教えてくれ」


「藤沢の県立体育センターだよ。一応ね」


 最後は笑顔を見せてはくれたが、俺とはチグハグな関係なまま、由美は県大会会場へと向かった。


「さて、準備するか」


 俺は出掛ける準備をした。何処へかと言えば、最後に由美から聞き出した藤沢にある『県立体育センター』だ。


 由美は県大会、関東大会へ正樹が来ることを嫌がっていたが、この一週間の様子を見ていたら、無事に県大会を突破出来るのか心配でならなかった。


 そうなってしまう前には、後輩のトラブル解決にも頑張り、取材が来たらどうしようとか、色んな事を話していたのだが、突然のようにアパートでは俺と喋らない…最低限の挨拶はしていたが、何も喋らなくなってしまったので、心配だったのだ。


 由美にはバレないように、20分ほど時間を潰してから、俺も出発した。


 このいずみ野駅から西へは相鉄の延伸工事が行われていて、いつかは小田急の湘南台に繋がるらしいが、俺がいずみ野にいる内には完成しないだろうな。


 なので藤沢の県立体育センターへは、一旦二俣川で海老名行きに乗り換え、更に大和で小田急に乗り換える必要があった。横浜へ出て東海道線に乗る方法もあるが、結局最後は小田急の善行駅まで行かないといけないので、大和経由の方が安く済むはずだ。


 俺自身、高校のバレー部にいた時、何度か県立体育センターへは行ったことがあるので道も分かっていた。


 この時間は10分毎に列車が走っているので、多分由美は俺が乗ろうとしている列車の20分前の列車で会場へ向かっているはずだ。


 自分が大会に出るわけでもないのに、心臓がドキドキしている。


 由美が最近の情緒不安定を跳ね返すような泳ぎを披露して県大会を突破し、関東大会へ進めるか?が心配なのと、微妙に気になるのが由美の後輩の女の子だ。

 名前も俺は聞いていないので、今回の大会に出るのか出ないのかすら知らないが、出ているのなら無事を祈るしかなかった。


 俺は二俣川と大和で乗り換え、善行駅に着いた。


 会場は駅から近いのだが、高台にあるので近いはずなのに疲れる。


(懐かしいな…3年ぶりかな?)


 俺は高3の時のインターハイ予選の県大会…今日の由美と同じ立ち位置の時に、この会場へバレーボールの試合に来たのを思い出していた。


(あの時はバレー部のみんなとワイワイ言いながらこの坂を上がったよな)


 今朝の由美はどうだったんだろうか。

 女子水泳部のみんなを引っ張って、楽しく会場に行けたのだろうか。

 それとも水泳部のみんなの前でも、何処か精神的な弱さをさらけ出したりしていないだろうか。


 心配は尽きなかったが、とりあえず会場に着き、華やかな雰囲気を眺めていると、由美も頑張れとしか思えなかった。


 とりあえず入場無料なのが助かるが、指定された範囲でしか観戦出来ないので、俺は2階の観客席の一般客の範囲の中に空席を見付け、座った。


 由美の試合を観に来たのは初めてなので、何となくどう過ごせばよいのか分からなかったが、よく見ると各高校の保護者会らしき方達が、横断幕をセッティングしているのが見える。

 俺は由美の女子水泳部の保護者会は、そこまで入ると大変過ぎるからという理由で、免除させてもらっているがこんな大会時に保護者会が活躍するのを初めて知った。

 俺のバレーボール部には、親の応援組織などなかったからだ。


 勿論、S高校男子水泳部、女子水泳部への応援横断幕も設置されていた。


(あの辺りがS高の保護者会席なんだな)


 挨拶した方がいいのかなと思ったが、変に動いて由美から見えるのも良くないので、それは止めておいた。


 プログラムを見ると、最初はひたすら男子、男子の部が終わったら女子の部へ移る方式だった。

 そのため他校の女子もだが、由美や他の女子は、男子の応援をしたり、トレーニングルームでウォーミングアップをすることが出来る。


 だが他校を見ていても、女子が男子を応援しにプールサイドへ来ている姿は見えなかった。

 大半はウォーミングアップしているのだろう。


 俺も男子の競技は注目していなかったので、ボーッと眺めるだけだった。


(しかし男子の海パンって、なんであんなに小さいんだろうな…。あれでよく下半身を隠せるな)


 俺が水泳部だったら、あんな海パンはとても無理だろう。恥ずかしい上にあの短さで俺のアレが収まるとは思えなかった…。


 そんな変な感情と共に男子の部を観戦していたら、やっぱり由美と同じS高校の男子は、自然と応援する気持ちになった。


 全種目ではないが、何競技かで次の関東大会へと勝ち進んだようだ。


 その後休憩を挟み、女子の部が午後から行われる。女子の部は午後1時半からで、トップが由美も出場する、50m自由形だった。


(いよいよ由美の出番だな…。いい表情してれば良いんだけど)


 女子選手が続々と入場してくる。が、最初の組には由美はいなかった。

 プログラムを見ていたら、32人の選手がいるので、4回に分けて予選を行い、その4回のタイムで1位〜32位を決め、上位4人が関東大会へ出られるようだ。


 由美は第2組の集団にいるのが見えた。

 第1組のトップタイムが27.56秒と、やや遅目だったので、由美も勝ち目はあると踏んでいた。


 選手コールが行われ、S高校3年、伊藤由美さん〜と呼ばれるとスタート台で一例し、スイムキャップを微調整していた。


 同時にS高校保護者会付近から、キャプテン頑張れー!由美ちゃーん!という声援が起きたのに、俺は驚いた。


(由美は俺が思っている以上に、信頼されてるんだなぁ)


 その声に応えるように、由美は軽く手を上げた。その時に見えた表情は、この1週間の情緒不安定な表情ではなく、自信に満ちた表情だった。

 その表情を見て、俺はホッとした。


(この県大会のプレッシャーと戦っていたんだろうな、由美は)


 スタート台に8人の選手が並び、スターティングポジションを取った。


 審判が掛け声をかけ、電子ピストルを鳴らした。


 由美も、水面目指して勢い良く飛び込んだ。


(頑張れ、由美!)


<次回へ続く>

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