第31話 インターハイと進路
平成2年の6月下旬の23日(土)、24日(日)の2日間、神奈川県の高校総体水泳部門が開催されるのだが、いよいよ本番が来週に迫ってきた。
もちろん由美もS高校からエントリーしている。
競技には色々な種目があるので、由美は得意としている50メートル自由形と、女子の200メートルメドレーリレーにエントリーしたそうだ。部内でも、他の部員が得意な泳ぎ方に応じてエントリーしたそうだが、由美はこれが高校最後の大会、そしてインターハイへ繋がる入り口とあって、高島屋で水着を買って一騒動起こして以来、由美は慎重に行動するようになっていた。
例えば俺と買い物に行く時も、たまに甘えて腕を組んだりしてきたのが、一切なくなった。
そんな県大会直前の日曜日に、由美は色々俺に話したいことがあるのか、珍しく朝から積極的に話し掛けてきた。
「だってさ、いつ写真週刊誌に狙われるか分かんないじゃん?」
「それはもっと有名な…シンクロの小谷実可子さんとか、水泳なら長崎宏子さんとか、それくらいのトップスイマーになったら気にすればいいんじゃないか?神奈川のイチ高校生までフォーカスが狙うわけないだろ」
「そうかな~。これでも2年連続県大会は突破して、関東大会には進んでる実績はあるのよ。注目選手くらいに挙げられてもいいんじゃないかと、アタシは思ってるんだけど、取材とか来ないかな~」
由美はちょっとだけ誇らし気に俺を見て言った。
「はいはい、由美の実績は凄いよ。俺は遂に県大会は突破出来なかったからな…。でも取材って…。せいぜい高校の新聞部くらいだろ、今の段階なら」
「えーっ、全国紙とは言わないから、せめて地元の神奈川新聞くらい、来ないかな?今年こその決意を込めて!S高校女子水泳部、伊藤由美主将が決意表明とか。キャー、照れる〜」
由美は勝手に照れていた。
「ま、妄想するのは勝手だけどな」
「妄想って酷い〜。妹の活躍を少しくらい祈ってよね、お兄ちゃん!」
「とにかく、俺は料理面でサポートしてやるくらいしか出来ないから、由美は練習頑張れよ。この前もいいタイム出たんだろ?」
「そうなの!50m流し気味に泳いだんだけど、それでも28秒切るくらいだったんだよ。全力で泳いだら上位突破もあるかも!」
「そこまで言われると、やっぱり会場に見に行きたくなるけど…ダメなのか?」
「うん、ダメ」
「いつ競技に出ている由美を見れるのやら、だなぁ」
「あっ、じゃあアタシが関東大会突破して、インターハイに出れたら、インターハイは見に来ていいよ。サキ姉ちゃんと一緒に」
「さ、サキちゃんと?」
「うん。アタシの応援と、お兄ちゃんのデートを兼ねて。インターハイならいいよ!」
「とは言っても、インターハイは何処であるんだ、今年は?」
「今年はね…宮城県だって。丁度いいじゃない、日帰りも可能だよ?」
「日帰りもいいけど、父さんと母さんを呼んでやったらどうだ?」
「えっ、金沢から?宮城県なんて、遠すぎない?」
「由美の最後の舞台なら、呼ぶ価値はあると思うがなぁ。もし出れたら、連絡してみなよ」
「うーん…。ま、そうする。あとね、お兄ちゃん。アタシ、高校で水泳を辞めるかどうか、迷ってるんだよね…」
「え?続けるんじゃないのか?進路について悩んでるのか?」
「うん。もし、もしだよ?インターハイに出て、いい成績が出たら、スカウトっていうの?ああいう方々が声掛けに来られるんでしょ?アタシ、絶対に迷うと思うんだ」
「まあそりゃそうだ」
「その時、アタシはちゃんと判断出来る自信がないから、お兄ちゃんを窓口にしていい?」
「ああ、いいよ」
まだ実際にインターハイに出れるかどうかも分からないのに、由美は別の所で妄想が肥大化している。こんな時は何でも素直に聞いておくに限る。
「でも前、先生が言ってたよね…。インカレに出るような強い大学は、全寮制だって。そしたらアタシ、お兄ちゃんと別々に暮らすことになっちゃう」
「それぐらいやらなきゃ、強さや団結を維持出来ないってことじゃないのかな?知らんけど」
「お兄ちゃんの大学の水泳部は、全寮制なの?」
「いや、俺の大学の寮は、誰でも入れる寮だから、何部じゃないと…って縛りはないよ。逆に、どの部も強制寮生活ってのは、ないってことだね」
「そうなんだ…。お兄ちゃんの大学に進学しようかなぁ」
「なっ?」
「アタシは水泳を続けたい気持ちもあるけど、インカレ目指すからって全寮制みたいな厳しいのは嫌なの。そしたらお兄ちゃんの大学なんて、いいなって思うんだけど。このままこのアパートに住んでもいいし、お兄ちゃんと一緒に大学に近いアパートに移ってもいいし…」
由美は何となく本音に近い言葉を滲ませた。ずっと正樹と一緒にいたいのだ。この先、由美が進学、正樹が就職しても…。
「まあ由美の進路は、俺は相談には乗れるけど、決めるのは由美だからな。もし俺が通ってる大学も検討してるなら、担任の先生にも言っておかなきゃ、だろ」
「うん…。4月に出した進路希望表には、お兄ちゃんの大学は書かなかったんだ。何となく学費が安そうな私立と、お母さんが勧めてきた金沢大学を書いてみたの。先生は、これに書いたからって、もうこれで決定って訳じゃないから、って言ってたよ」
家庭訪問の時に、市村先生が極秘で見せてくれた由美の進路希望調査を思い出していた。
先生は金沢大学については、偏差値的には由美は合格可能圏内にはいるが、本当に入りたいなら、今のままではダメだ、国立は遊びで受ける大学ではない、と言っていた。
その辺りを思い出しつつ、由美に金沢大学へは入る気はあるのか?と聞いてみた。
「金沢大学はね…。模試でも合格可能性が、BだったりCだったり。でも国立でしょ?センター試験とかいうのと、2次試験も受けなきゃいけないから、労力が持つかな…。お兄ちゃんと離れちゃうし」
「俺よりももっと味方になってくれる、父さんと母さんがいるじゃないか」
「あ、アタシは…」
そこまで言って、いや、なんでもないの、と由美は口を噤んだ。
正樹は不思議な顔をしながら、一旦この話は打ち切った方が良さそうだと思い、とりあえず昼飯でも作るか!と、台所に向かった。
「あっ、お兄ちゃん、今夜はバイトでしょ?昼はアタシが作るよ」
「まあいいよ。俺、もう昼飯スイッチ入ってるから。じゃあ由美は、洗濯してくれるか?」
「うん、分かった…」
「ところで今日は部活は無いのか?来週県大会だってのに」
「あぁーっ!忘れてた!」
「おいおいキャプテン、しっかりしてくれよ」
苦笑いで由美に声を掛けると、由美は猛然と部活の準備を始めた。
「部活、行ってくるね、お兄ちゃん。帰りは居酒屋に寄ってもいい?」
「ああ、いいよ。気を付けてな」
しかしインターハイの第1関門、県大会のための臨時日曜部活があるのをウッカリ忘れていたとは、由美らしくない。
俺が声を掛けなかったら、このまま家にいたのだろうか?
黙っててもプールに泳ぎに行ってた由美に、何か気になる事でも起きたのだろうか?
俺は由美から引き継いだ洗濯もしながら、昼ご飯兼由美の夕飯を作り始めた。
(精神的に迷いが起きてるのか?)
<次回へ続く>
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