火守
米山
火守
私は薪を割っている間に、近くで音を聞いた。それはとても人工的な音だった。人工的な音と言っても、拳銃やマシーンのようにひずみのある音ではない。ザ、ザ、と。人間が立てる音というのは、動物が歩く時のそれとは根本的に違っているのだ。
私は斧を手にしたまま音のした方に耳を傾ける。ここは深い森の奥地であるから、この辺りに人間がやってくることなんてほとんどない。もし、何かの手違いでここへ来てしまった人間がいたとしても、やはりここまで来たのなら迷いなく踵を返すだろう。私の大きな身体は日々の運動で随分とタフな造りをしていたし、無精髭も茫々に生えている。おまけに刃渡り二十センチほどの斧を構えているのだ。古びたホッケーマスクでも持っていれば文句のつけようがない。
しかし、その音は次第に近づいてくる。私がちょうどその方を見ると、木陰からひっそりと顔を出したのは一人の若い女性だった。二十代前半程であろうか。腰をかがめながら私と小屋と燃える炎に視線を回し、火を囲う木製のベンチに腰かけた。
「こんにちは」
その言葉はとても自然で現実的なものであったが、彼女の擦り切れた佇まいや顔つきからは余程非現実的な含みを持って響いた。目は赤く腫れて髪には泥がへばり付いている。私が彼女を観察している間、彼女は物珍しそうに周囲を眺めているだけだった。
「焚火?」彼女は言う。「珍しい」
ここはその辺りにある河原ではなく、足跡もつかないような深い森の奥である。彼女は何故、と思った矢先、自殺志願者か、と腑に落ちる。彼女の持つ様々なミスマッチがここではない何処かを強く望んでいるように見えたのだ。
「焚火……と言えば、そうだ」私は言う。「どうせ死ぬなら、ここじゃないもっと遠くで死んでくれ」
「止めないんだ、よく自殺する人が来るとか」
「珍しくはない」
「そうでしょ?」
「生身の人間は珍しいが」
「生身……」
私は斧を置いて彼女の正面のベンチに座った。灯火の向こうで彼女は身体についた泥を払うように衣服をさする。
「素敵な火ね」と言って、彼女はしばらく何も言わないまま燃える炎を見つめていた。辺りを照らす炎は一瞬として同じ形を保つことなく、徒然と燃え続ける。シュウシュウと赤や黄色に発光した薪が綻びながら芽生え、時々パチリと音を鳴らし火の粉を飛ばす。煙は底の方で渦巻くように滞留し、炎は非連続的に薪の頂点まで及んでいく。そして、そのまま風に揺られるが如く晩秋の夕に立ち上る。辺りはまだ夕景の名残を残していたが、そのほとんどは暗い森の影に覆われてしまっていた。灯火は影が濃くなるほどにその輪郭を揺らつかせ、鮮やかに現れる。
「あなたはここで何をしているの?」
彼女は口を開く。既に辺りには夜の帳が下りていた。
「君は死ぬつもりなんだろ」
「私はもちろんそうだけど、今はあなたに質問してる」彼女は言う。「それとも、何? あなたはここで密かに自殺志願者を待つカウンセラーみたいなものなの? メンタルヘルスマネジメントとか、とてもそういうことが出来る風には思えないけど、もしそういうものだったらごめんなさいね。お断り」
「そんなことにまで気を遣っている余裕はない」と私は言う。彼女は私を恐れている節もないし、やたらと器用に舌が回るらしい。どうせ死ぬならできるだけここから離れて死んでほしいものだと思った。「火を視てる」と私は言う。たまにはこうして人と話すのも悪くない。少しだけ付き合ってやろうと思った。
「どれくらい?」
「分からない。少なくとも、俺が十六の時から二十五年程は燃え続けている」
「二十五年? あなた、ずっとここで火を燃やして暮らしているの? どうして?」
「決まり」私は質問に答えるのがじきに面倒になってくる。「もう、質問に答えるの億劫だ」
「じゃああなたが色々と話してくれないかしら? 珈琲でもある?」
「珈琲はない」私は言う。「今から死のうとしてる相手に、俺が身の上話をするのか」
「悪くない体験だと思うけど」
「そうか」と私は言う。中々考えがまとまらず、漸く口にした言葉はひどく魯鈍なものだった。「俺の家は代々、この火を守ってきた。皇室みたいなもんだ。俺が長男で、この火を受け継いだ。俺は一人でここで暮らしている。もし俺が死んだら次男か、三男か、その従弟か、もしくはその子供たちが役目を引き継ぐ」
彼女は私のゆったりとした話し方をじっと見つめたまま言った。「じゃ、この火は私が思ってるよりもうんと長く燃え続けているってこと?」
「俺も詳しくは知らないが、あんたよりも遥かにこの火に詳しい俺が、うんと想像できないくらいには長い」
「大変な役目ね」
「俺はそのために生まれてきた」
「寂しくないの?」
「もともと孤独だ。炎も好きだ。きっと、遺伝子がそういう風に書き換えられている」私はなんとなく手振りで表そうとするが、遺伝子が書き換えられている、ということをどういう風に示せば良いのか分からなかった。
「火は本当にそれだけの間燃え続けているの? 本当にあなたは二十五年の間一度も火を絶やさなかったの? 寝ている時でも、他のことをしている時でも?」
結局、彼女が一方的に質問することになる。
「一度も絶やさなかった。こと火を守るのに関して俺はプロフェッショナルだ。随分前から、技術は書物として継承されている。先々代の爺さんが、全部燃やして書き直したらしいが」私は木の枝を取って薪を転がす。
「長く燃やし続けるのにもそこそこコツが要るってことね」彼女はぶっきらぼうに言う。「あなたはまるで、火の番人と言うよりかは、奴隷みたい。火の奴隷。気を悪くしたのならごめんなさいね」
「あるいは、そうかもな」
私はまた薪を転がして、炎の中に空気の通り道を作ってやる。すると、ふわりと炎が立ち上る。炎に隷属する男。
「薪を入れてみたい」
唐突に彼女は言った。私は頷いて薪棚の方を指差す。彼女は立ち上がり、幾百本もある薪をじっと眺め、真剣に薪を選んでいた。私は黙って、それを不思議なものだと思いながら見つめている。彼女は本質的に正しいことを理解しているのだろうか。炎を燃やすうえで一番大切なことは、その炎が燃えるのに正しい薪を選んでやることなのだ。
しばらくして彼女は二本の薪を持ってくる。「よく燃えそう」と彼女は言った。
火の案配を見ながら、彼女に指示をして薪を投入する。
「どうして薪一つ入れるのにもそれだけ慎重なの?」
「火は薪から構成される」
「人と同じね」
「できるだけ一本の薪を長持ちさせたい」
「ふうん」
彼女は言う。「あなた、食事はどうしてるの?」
「腹が空いたか?」
「ええ、まあ。少し」
私は立ち上がって小屋の中からパンと干し肉とチーズを持ってくる。少し考えて、ウイスキーも手に取った。
「本当、浮世暮らしというか。まるで外国の旅人ね」
「そろそろ街へ出ようとは思っていた」私は言う。「近縁からの差し入れもある」
私は彼女に食料を渡して、ウイスキーを飲んだ。彼女が羨ましそうにこちらを見ていたため少し分けてやった。「珈琲はない、って別にお酒でも良かったのに」と彼女は言う。「意外と不自由してなさそう」
「結構頻繁に甥がやってくる。甥がここを継ぐらしいが、俺は死ぬまでここにいるつもりだからな、どうだか」
「長生きなんて出来ないわよ、こんな所じゃ」
「そうでもない。大叔父は九十までここに居た」
「あなたは長生きなんて到底できそうにない顔の相をしているって言ってるの」
「そうか」私はウイスキーを口に含む。「境遇が話を裏付けてる」
「そうでしょ」彼女は笑う。
私はパンを一欠けら食べて、包み紙を炎の中に放った。クシャクサと萎むような音を立てながら紙は炎の中に舞った。
「ずっと火を視ているのも、やっぱり退屈じゃないの?」彼女はその様子を見て、私の真似をするように紙を炎の中に放る。
「結構忙しい。灰が溜まったら炉を替えてやらなくちゃならないし、雨が降りそうなら小屋の中に火を移してやる。睡眠も小まめに、いつでも起きられるようにしてるさ」
「それでも、時間を持て余すときはあるでしょ?」
私は頷く。「俺に限った話ではないが。そういう時には本を読む」
「へえ」彼女は言う。「そんな狭い小屋にいったいどれだけの本が入るの? しまいには本の重さで潰れちゃいそう」
「そうならないために、小屋の中にはあまりものを置いていない」
「本は?」
「燃やしてる」
「嘘、かわいそう」
「火が?」
「本が」彼女は真面目に答える。「でも、そう。さぞかし文学的な煙が上がるんでしょうね」
「人間の脂が染みこんでいるのか、古典文学なんかはよく燃える。名著ほど、そうだな。学術書の類はどうしてかあまり燃えない」
「私も燃やしてみたい」
私は読み終わり次第すぐに本を燃やす癖があるので(読んだページから燃やしていくこともある)焚物としての古本は残っていなかった。燃やすとしたらまだ読んでいない本ということになるが、それは困る。しかし、私は彼女を幾分か気に入っていたので、たいして考えもしないで未読の本を渡した。マルセル・プルースト著『失われた時を求めて』。彼女が立ち去った後に、私はこの本が連作だと知る。
彼女は表紙と裏表紙を交互に見やりながら、「昔、父が読んでた」と呟いて、炎の中に放った。一瞬炎がわっとなり、本を底から包んでいく。彼女はその本を木の枝でつついた。ページの切れ端が橙色に輝き、その直後にそれらは真黒な灰へと変貌していく。黒いインクと焼かれた染みが入り混じって、チリチリと空に消えていく。背表紙を中心に残した燃え殻はカーネーションのように渦巻いていた。
「一冊じゃ何も変わらないみたい」彼女は立ち上る煙を見ながら悲しそうに言う。
彼女はパンをかじって、もう要らない、という風に私に手渡した。包み紙はすでに燃えてしまっていたため私は残ったパンを食べきる。代わりに、彼女は私の手元からウイスキーの瓶を奪い取っていった。
「味気ない最後の晩餐だったわ。ありがとう」
「今からでも帰れないことはない」
「冗談やめてよ」彼女は笑う。「私ね、本当に死のうと思っているんだから」
「あんたはどうして死のうと思ったんだ? 俺が話せることなんてもうほとんどない」
「そうね」彼女は短い溜息をつき、側にあった木の枝で薪を転がす。
「もう、来るところまで来たな、って。そんな感じがしたの」彼女は流暢に言う。「ごく普通の生い立ちで。少し変わったところはあったけれど、両親にも世間並みの愛情をもって育てられて。誰にでもあるような素敵な青春を送って。第三希望の企業に就職して。人並みの価値観の中で暮らしてきた」
彼女は立ち上がり、私の隣に腰かけた。火を見つめたまま黙りこくっている。その炎の揺らめきの中に、自身の半生を描いているように見えた。「お祖母ちゃんが好きでね、でも、その家の裏にある海が嫌いだった」
僕は何も言わずにそれを聞いている。
「父は私に優しくなかった。大学で何か植物の研究をしている人でね、いつも忙しそうにしてた。お母さんは私に優しかったけど、なんだか、温かくはなかった。嘘にまみれてた。それで、毎年夏になるといつもお祖母ちゃんの家に行くんだけど、私はずっとおばあちゃんにつきっきりなの。でも、裏にある海がやっぱり怖かった。深い海って、なんだかとても遠くにあるように見えるの。知ってた? 学校ではいつも一人で勉強をしててね、どうして周りの人たちと私がこんなに違うんだろう、ってずっと思ってた。そりゃ、友達なんかもいたけど、なんだろうね。皆、私と何処か違うところを見ていた気がする。でも、私は皆と同じ普通の女の子だから、そんなことどうでも良かったんだ。皆そうだったし、皆違ってた。普通よね。それで、初めてセックスをしたのが十六歳。一つ年上の男の子がいたんだけど、なんだか、好きになれなかった。ただただ、痛いだけだったな。早くこんな時間が終わればいいのに、って。早く、早く、って。私はいつかどこかで私が報われるというか、私の想像のつかないような私になる、私が途切れてしまうことを願っていたんだろうな」
彼女は言う。「違うかな」。私の腕のあたりに彼女は寄りかかる。「分からない」と私は言う。「死ぬ理由か」
「分からない」彼女は言う。「いつも通り会社に行って、帰って来て。帰ってくるときに私はいつもアパートの階段を右足から昇り始めて、部屋の前で必ず左足が前に来るようになっているの。いつもそう。それで、何かが変わると思って、階段を左足から昇り始めたんだけど、そしたら、階段の上で小さな虫を踏みつぶした。その死骸を見た時にやっぱりダメなんだな、って。死のうと思った」
彼女は言う。「ありきたりな話なのよ。それ以外なかったの。同じような毎日に飽き飽きした普通の女の子が、どこか虚しそうな顔をして意味ありげに自殺するの。それもよくあることだけど、でも、こんな気持ちがずっと川底の石みたいに変わらないままでいるよりかは、死んだほうがまし」
「そんな人生もある」
彼女は火の煙を追って空を見上げる。「生きていく才能なんて、端からなかったのよ。私にあったのは、自殺する勇気と才能だけ」
私は彼女が話している最中に転がしていた薪を、炎が正しく燃えるための場所に戻してやる。すると突然、彼女は私の襤褸なモッズコートに頭を沈めた。「古い煙のしみ込んだ、汚らしい匂いがする」
彼女はそのままの体勢で火を見つめ、ここに訪れた時のようにしばらく何も言わなかった。パチリと火が織り爆ぜる音と虫の音。遠くでコノハズクやヨタカの高い鳴き声が響く。辺りにはやはりブナの燃える匂いが充満していた。
「ここは怖いところね」彼女はだしぬけに言う。「火に守られているのはあなたなのね」
「そうとも」
「ねえ」
彼女は言った。「私が死んだら、ここで私を燃やしてくれないかしら」
「嫌だ、そんなの」
「お願い」
「これは人を燃やすための火じゃない」
漸く身を起こして頑なに求め続ける彼女は、妥協案として、自らの髪を斧で断ちその束を炎の前に置いた。
「私がもう死んだな、って思ったら、この髪を燃やして」
その程度なら、と私は渋々彼女の申し入れを受け入れた。「ありがとう」と彼女は言って、隣のベンチで横になった。「ひと眠りしてから行くわ」
私は彼女が眠る様子を目に留めて、少しの間浅い眠りをとることにした。薪をくべて、浅く長く燃え続けるよう形を整えてやる。そして、座ったままの体勢で、いつでも起きられるように薄らと目を閉じる。
彼女の立ち去る気配で目を覚ます。ゆっくりと目を開くが、既に彼女の姿はなかった。
私はひっそりと燃え続ける炎を見て溜息をつき、残りのウイスキーの飲み干した。彼女の髪を炎の中に放りこむと、それはみるまにちりちりと空に消えていく。晩秋の闇夜に、薄い煙がひとすじ昇って行った。
火守 米山 @yoneyama
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