第6話 皇帝の義娘
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「……何故だ?!」
執務室で足止めを喰らったカイルが、アドルフを睨む。
「広間の準備が整うまで、と言っているのです。今しばらくお待ち下さい」
日は落ちかけ、執務室から見える空は群青色とオレンジ色の絵の具を溢したように、鮮やかなコントラストを描いていた。
「準備とは何だ。楽隊の演奏が始まってからもう随分経つ。なのにまだ待てとは、まさか下手なサプライズの画策でもしているのではあるまいな?!扉を開けたら女装した皇帝がいるとか」
サプライズ——。君主のこの洞察力には、アドルフも妙に瞠目してしまう。
「ははっ!いくら何でも悪趣味な。ご安心ください……そんなものはいません」
正装を整え、祝宴の用意を済ませたカイルはそわそわと落ち着かないそぶりを見せている。
「殿下の
そんなアドルフの言葉を遮るように、ノックの音が響いた。
「——皇太子殿下、会場の準備が整いました」
*
*
正装は、婚姻の日以来だ。
きっとセリーナも煌びやかなドレスに身を包み、美しく着飾っているに違いない。
普段はほどんと化粧も施さず、慎み深く清楚な彼女だから……こういった場で見るセリーナの『正装』は、より一層カイルの心を掻き立てる。
同じく正装を整えたアドルフも、カイルと共に祝宴の会場となる広間へと急いだ。
道中、思い出したように、
「広間に、陛下がお見えだそうですよ」
「何だと?」
「大切なひとり息子の戴冠記念日ですからね。当然でしょう」
「そんなものはいないと、言っていたではないか」
「それは別の話です。皇妃様のお声掛けが効いたのではと、皆が噂を」
それは余計な邪魔が入ってしまうなと、カイルは眉を顰める。
「皇妃様は、普段から何かと陛下を気遣っていますからね。早々に子を身籠った事も、陛下の皇妃様への評価に繋がったようです」
「知るものか……」
皇帝との父息子の確執は、すぐにどうこうなるものではない。
けれどセリーナが皇妃として、皇帝を義父だと慕うのを謝絶する理由はない。
広間の扉を前にした二人は、お待ち下さい!と扉番の侍従たちに止められた。
両開きの扉がゆっくりと開かれれば、広間から出てきた人物に息を呑む。まさに話題にのぼっていた皇帝が、唐突に現れたからだ。
「………っ」
痩せ細っていた頃と比べれば、頬の膨らみが少し戻ったような気がする。
皇帝とカイルは互いに目を合わせたが、皇帝の方からすぐに視線を逸らせた。
一歩下がり、アドルフとともに身を低くする。
数名の侍従を従え、二人の前を通り過ぎようとした時、
「——
皇帝が腰をかがめ、カイルの耳元に一言、残した。
何かにつけて否定的なこの男から、「励め」などと前向きな言葉を受けたのは初めてだ。
祝宴は、まだ始まってもいない。
なのに——
(あの男は、ここに一体、何をしに来たのだ?!)
*
*
——心臓が、壊れてしまうかと思った。
『準備』が整った広間に、突然に皇帝が現れた。
空気が張り詰め、あれほどに騒がしかった場が一瞬にして静寂に包まれる。
沈黙と……食器を運ぶ手を止めた給仕たちの、恐怖心を孕んだ視線を一身に浴びながら、四人の侍従を従えた皇帝は無遠慮に広間を進んだ。
痩せてはいても、彼の凄まじい威厳は周囲の人間を縮こませる。
気まぐれな殺戮に、殺戮を重ねてきたのが——この男だ。
静けさの中でカツカツと靴音を響かせながら、歩みを進める皇帝が視線を向ける先には——。
飾り付けのためのリボンを手に持ったまま、目を丸くしてたたずむ皇妃……セリーナの姿があった。
「——立派なものだな」
セリーナの隣で立ち止まり、目前に
「陛下……っ」
「お前が皇太子のために準備を進めたというのは、『これ』か?」
薄いブルーの双眸の刺すような眼差しは、セリーナだって怖い。
意図せず肩が震えてしまいそうになるのを、必死で
「は……はい」
「これを、見に来たのだ」
「……ぇ?」
「お前が作ったのだろう?」
作ったと、言っても——。
はいそうです!と答えるのには少し違っている。
「いいえ……。私が手を加えたのは、ほんの一部分だけなんです。他は……料理長様と、シェフの方々が手伝ってくださって」
「それでも、素晴らしいではないか」
セリーナのこわばっていた身体が脈を打ち始め、心臓にドッと熱い血が流れた。
(陛下に、褒めて……もらえた……?)
周囲の者たちが固唾を飲んで見守るなか、皇帝は僅かに頬を緩め、目を細めた。
セリーナに視線を移し、
「身体の具合はどうだ、子は順調か?」
「は、い」
「大事にせよ」
「……有難う、ございます」
こちらからも、何かお話した方がいいかしら?!
でもっ……それって陛下に対して、無礼な事なのかしら。
迷いのうちに、沈黙がやや続く。
侍従のひとりが近寄り、皇帝に耳打ちをした。
「陛下、皇太子殿下が」
うむ、と小さく頷いて、セリーナに背を向けようとするのを——思わず呼び止めていた。
「あの……陛下っ!」
皇帝が肩越しに振り返る。
無礼者だと叱られてもいい。どうしても、言葉で直接、伝えておきたかった。
「陛下と、ピクニックに……ご一緒できる事っ。ティアローズ様も、私も……楽しみにしていますから」
肩越しにチラリと覗く皇帝の顔は、それだけでは窺い知れない。
だけど——少しだけ、大きな背中が笑ったような気がした。
「昨日の
再び歩み始めた皇帝が残した言葉に、絶句してしまう。
頬が熱くなり、嬉しさに心が震えた。
——食べて、くださったんだ。
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