第5話 愛しているから…


* * *



寝室に戻り、カイルの隣に身体を滑らせる。そっと、起こさないように。

もうすっかり見慣れた寝顔は、安堵しきった子供のように無防備だ。


同じ枕に頭を沈めれば、いつもは見上げている顔がすぐ目の前にある。

……自分だけが知る、カイルの寝顔。

長い睫毛を伏せて眠るカイルを密やかに眺めるのが、セリーナはとても好きだ。


額に落ちた前髪に触れようと手を伸ばしたが……躊躇って引っ込めた。

もやが立ち込めてしまった胸の中は暗くくすんで、心を突き上げる痛みが喉元を掠めていく。


愛しているから……。

カイルをこれほどに愛しているからこそ辛いのだ。


「カイル…——」


じっと見つめ続けていれば、思わず小さな声が漏れた。カイルの睫毛が少しだけ動いて、うっすらと瞳を覗かせる。


「……セリーナ……どうした?」


言葉を発したけれど、きっと意識は眠りの中にある。僅かに開いた瞳はそのまま閉じて、代わりに伸ばされた腕がセリーナの背中を抱き寄せる。

されるがままに、カイルの肩の窪みに頬を寄せた。


世界で一番、安心できる場所。

きっと、自分だけの——。


政務を卒なくこなしても、セリーナに対してはどこか不器用なカイルが『隠しごと』をしているとは思えない。

けれども着衣に孕ませたあの「香り」は、いったい……。


信じようと頑張る気持ちと、それでも不安な気持ちがせめぎ合い、心の居場所を取り合っている。


(侍女の、フィオナ、さん……)


セリーナは今でも使用人に敬称を付けてしまう癖がある。カイルに時々嗜められるけれど、なかなか治らない。


——会ってみたい。

カイルに直接確かめる前に、フィオナという侍女に会って、一度話をしてみたい。そんな気持ちが湧き上がるのを、


(私が会いに行ったりしたら、驚かせてしまうだけね?)


皇妃が使用人を個人的に訪ねたりしたら。

しかも侍女たちの間で噂になっている張本人だ。


(きっとフィオナさんが、宮廷で働けなくなってしまう)


心の痛みが和らげばと、カイルの胸に縋って身体を丸めた。なのに幸せなぬくもりを感じれば、ますます苦しくなってしまった。


明日は、カイルにとって特別な日——皇太子戴冠十周年の祝宴が開かれる。


料理とは別の、サプライズ。

セリーナが厨房で三日をかけて、密やかに準備してきたこと。

縮む心を押さえ込み、明日の自分を想像して気力を奮い立たせた。


(カイルは、喜んでくれるかしら)



⭐︎

⭐︎



来賓を集めずだけで行われる祝宴だが、朝から宮廷中が色めきだち、大勢の使用人が回廊を右往左往と駆け回っていた。

祝宴のあとは使用人たちにも恩恵が与えられ、盛大な労いの宴が催されるからだ。


セリーナは厨房で、サプライズの『最後の仕上げ』に励んでいた。

料理長の背高い帽子はいつもの白ではなく、コックコートと揃いの、黒に金糸が施された立派なものを乗せている。

厨房にいる料理人たちは皆が同じ装いで、それだけでも今日が普段と違った特別な日だということを知らせていた。


「この三日で随分腕を上げられましたね、妃殿下。をご覧になった時の、皇太子殿下のご様子が目に浮かびます」

「根気良く教えてくださった、料理長様のお陰です……」


作業を終える時間を見越し、セリーナを厨房に迎えに来たマイラが声をかけてきた。


「そろそろお時間でございます。お身体は、平気ですか?」

「有難う、マイラ……何も問題ないわ」


仕上がった『サプライズ』を眺めるセリーナの表情がいつもと違っているのを、マイラは見逃さない。それが『例の噂』によるものだという事も、容易に想像がつく。

マイラは人知れず眼差しを強めた。


「今日はこの者たちにお召し替えを申しつけてあります。では、私は後ほどお迎えに参りますね」


『華蝶の間』に戻ったセリーナを、三人の侍女が待ち構えていた。

いつもなら着替えを手伝ってくれるマイラがそそくさと退室しようとするのには、首を傾げてしまう。


「マイラ……??」





使用人たちが行き交う回廊を、険しい顔付きをしたマイラが足早に渡っていた。

そのまま皇宮を通り抜けて裏庭へと向かえば、回廊の喧騒が嘘のように、ひっそりと静まりかえっている。


皇城の外へと続く階段を数段降りれば——、木々の茂みの向こうに人影があった。

近づけば、結えた髪をシュシュの中におさめた後頭部と、中級侍女が身に着ける薄いグレーのお仕着せの背中が、僅かに震えているようにも見える。


背後の気配に気づいたのか、後ろ姿がサッと振り返った。


「マイラ、さまっ」

「皇妃様付き侍女の私が、あなたを呼び出した理由は……もうわかっていますね?フィオナ」


今朝、湯殿を片付けていた時、椅子の背もたれに掛けられていた皇太子の着衣を取り上げれば、ほのかに甘い香りがした。

風に孕んでマイラの鼻に届くその香りは——確かに目の前にたたずむフィオナのものだ。


言葉こそ穏やかだが、マイラの瞳は『真相』を推し測るべく鋭さに揺れている。フィオナはその視線に怯み、動揺で目を泳がせながら、


「……は、い。承知しております」


フィオナの口から、遠慮がちな言葉が幾つか発せられる。マイラは何度もうなづき、フィオナは何度も首を振り続けた。


「では、あなたの香り——これはどう説明するつもりですか?」


たまりかねたマイラが口調を強めれば、小刻みに肩を震わせながら、フィオナが事情の断片を語り始める。


「……ですから、皇妃様には、どうか……っ。内密に、しておいていただきたいのです……今日の祝宴が、終わるまでは……!」



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