第3話 信じる心と溺愛と




「マイラ……」


宝石のような瞳が、次第に色を失って行く——わけでもなく。


「約束の時間に遅れてしまうわ。早く行きましょう!」


いつも通りの微笑みを浮かべて目配せをし、セリーナは先ほど侍女達が立ち話をしていた方向に歩みを進めた。マイラの方が戸惑ってしまうほどに、あっけらかんとしている。


——あのような『噂』には耳を傾けられずに、殿下のことを信じていらっしゃるのだ。


仲睦まじい二人の深い絆を思えば、灰色の霧が立ち込めていたマイラの心がスッと晴れていく……良かった。そしてはきっと、不快極まりないただの『噂』に違いない。



皇宮の厨房の入り口はすぐそばにあって、さほど広くはないが繊細なモールディングが施された柱に囲まれ、重厚な様相を見せている。


左右の扉は大きく開かれていた。

遠慮がちに中を覗けば、これから昼食の準備が始まるというので、十名ほどの料理人達が調理台の周辺を忙しなく歩き回りっている。


食材を刻む者、湯を沸かす者、魚の下拵えをする者……それぞれにきちんと持ち場があり、少しの迷いもなく凛前と移動を繰り返す様子は見ていて気持ちが良い。


マイラが料理人の一人に目配せをすれば慌てて奥へ引っ込み、連れて来たのは灰色の髭を精悍に湛えた初老の男性で、彼は厨房にいる者達の中で一番背の高い帽子を戴く、帝国一の料理長に違いなかった。





「……そこをもう少し切って……そうです!とてもお上手です」


黙々と料理長の指導を受けながら、セリーナは調理場に立ち込めるに気分が悪くなるのではないかと案じたが、今のところその様子はない。


明日は、カイルが皇太子として戴冠を迎えてから十年目に当たる時別な記念日だ。


「りょ、料理長様っ。こんな調子で私……明日までに仕上げられるでしょうか?!」


慣れない事とは言え、自分の手際の悪さには辟易してしまう。


「妃殿下。料理は何よりも食する相手を想う『心』が大事。きっと上手く行きますから、お気持ちを穏やかに」


相手を想う『心』。

料理長の指示に従って指先を動かしながら、先ほどの侍女達の会話が頭をよぎった。


セリーナだって、気にしていない訳じゃない。

だって——気にならない筈がないじゃないか。愛する人が自分とは別の女性と、逢瀬を重ねているかも知れないなんて——!


(きっと、何かの間違いに決まっている)


今朝のカイルの優しさを思い起こし、じわりと立ち込めてくる黒い霧のようなものを、必死になって心の奥底に畳み込んだ。



「そして、次は……」


調理台を移動して、先ほどとは別の取り掛かる。

素人に難しい作業は、セリーナが到着した頃にはすでに終えてあった。忙しいであろう彼らが早朝から張り切ってくれたお陰だと、心があたたかさに包まれる。


(今日のは、これ……っ)


厨房には、甘やかで香ばしい香りが立ち込めていた。

二枚の皿の上にが仕上がった頃、厨房の壁に掛けられた時計がちょうど正午を知らせる音を鳴らした。


「素晴らしい出来映えです、妃殿下」

「あのっ……お料理の名前って、これであっていますか?」


メモを見ながら声に出して慎重に確認して行く、料理を提供するときに、くれぐれも言い間違えないように。



一皿目『冷製フェデリーニ・ランギク・ジャンヌソース』 *** カイルの好物 ***


二皿目『牛頬肉のトルティーヌ・アザレムッシュ・ベリーソース』 *** 人嫌いなお義父様の好物 ***



「……陛下は、召し上がってくださるかしら」


皇后が崩御してからというもの、すっかり食が細くなってしまった皇帝に、セリーナとティアローズは二人で時々菓子を作って届けていた。

かろうじて受けとってもらえても、食べてもらえたかどうかまではわからない。結局三人でのピクニックもまだ叶ってはいないのだ。


セリーナはずっと考えていた。

自分が心を込めて作った食事を、陛下に食べてもらいたい。


食べるという行為はとても幸せで、口に運ぶ料理は美味しいのだという事…… 陛下の好物の味を、思い出してもらいたいと……(なので、カイルのはおまけである)。



ドタバタと人が駆ける足音がして、厨房の入り口付近がにわかに騒がしくなった。何やら侍女の荒がった声が途切れながら耳に届いて——。


いったい何の騒ぎ?!


セリーナは勿論、厨房にいた者達が揃って見遣れば、髪を振り乱したカイルが怒りを湛えた表情で入り口に立つのが見えた。眉は吊り上がり、氷のような瞳が凍てつく様は凄まじい。

肩で息をしながら拳を扉に押し当てたかと思えば、苛立ったようにドン!と大きな音を立てて叩いた。


明らかに取り乱すカイルの剣幕に皆が息を呑む……唖然とする料理人たち全員が手を止め、厨房内はしんと静まりかえり、場の空気を読まない煮鍋だけがコトコトと静かな音を立てていた。


「——これは一体どういう事だ!?」


セリーナを一瞥し、その存在を確認したカイルは更に剣幕を強める。

一体どうしたは彼である、何をそんなに怒っているのだろう——?


「カイル……っ、」


静けさの中でセリーナが、こほっ、と小さく咳き込めば、すさまじい勢いですっ飛んで来て、ひどく慌てた様子で彼の妃の肩を抱え寄せた。


「お、お前達……セリーナにこんなっ……させて……。があったら……どうするつもりだ……!!」



そこに、しばしの沈黙があった。


——— もしもの事? 労働……?? へっ???


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