ペリカン

 影が落ちた。刹那、ペリカンが舞い降り、男が攫われた。


 髪をきついピンクに染めた珍妙な男が、蝶ネクタイをしたこれまた珍妙なペリカンに咥えられ、連れ去られたのだ。


 ペリカンが羽ばき、風が起こって三秋の前髪が巻き上げられる。男は何やら叫んでじたばたとしていたが、やがて抵抗をやめた。ペリカンは、浮かぶように飛び上がった。

 三秋は、何が何やら、夢を見ているような、眠気が覚めたような、不思議な心地であった。朝からショッキングなものを見てしまった。人を攫うペリカンも、攫われる人間も、前代未聞だ。誘拐ということになるのだろうかと、困り果ててしまった。

 困ったので、忘れることにした。関東上空を飛ぶペリカンなんて、魑魅魍魎か神仏の類に決まっているのだ。触れぬが吉に決まっている。ピンク髪の男が一人消えたところで、あるいは消えたのが私であろうと社会的には大した問題ではない。そう自分に言い聞かせると、三秋は歩き出した。仕事に行くのである。ペリカンはまだ頭上を飛んでいる。



 春先のことだ。八垣が髪をピンクに染めた。

 彼が仕事に行かなくなったのはその少し前で、視界が白黒になった直後のことである。元々楽しい仕事ではなかったのだが、視界が白黒だと更に気が滅入る。気が滅入っていたから視界が白黒になったのだったのか、今となっては思い出すことができない。白と黒しか色がないものだから、自分とそれ以外の世界との境界が分かりにくくなる。いつか極限まで薄められて消えてしまうと、いやに強く自覚するようになった八垣は、自分の輪郭を保つために髪を染めることにした。



 八垣のようなやつれた中年男性に髪を、それもきついピンクに染めたいと言われれば、どんな人間であろうと戸惑いを隠すことはできないだろう。美容師の九里も例外ではなかった。九里の金髪も三十代の妻子持ちにしては珍しい方だろうが、目の前の男は自分より一回りも年上であり、ピンク髪をご所望であるというのだ。変わった客だが、外見は普通のサラリーマンにしか見えないのが余計に不気味である。男は終始無言だった。ただ、髪が変色するごとに、その双眸に妙な光が宿っていくのだった。



 美容室を出た八垣は、白黒の歓楽街の明かりと白黒の人波の中で自分の頭だけが煌々と輝いているのを感じた。自分はまだ存在しているのだと、自分に言い聞かせながら帰路についた。既に溶け出している人たちの中で、彼は浮いていた。それだけのことが、やたらと嬉しいのだった。


 晴れて無職のピンク髪になった八垣は、河川敷に座り込み、一人呆けていた。土手の上の桜の木が、花びらを振り撒いている。その一片が八垣の頭に積もるが、桜の薄いピンクは八垣の髪色にすっかり打ち消されてしまっている。八垣はそんなことにも気づかずに、真っ直ぐに川の方を見つめている。時折食事をしたり用を足したりする以外にはそこから動くことはなかった。どこに向かえばよいのか、見当がつかなかったのだ。

 そんな日々が、桜がほとんど散ってしまう頃まで続いた。文無しに近くなり、どこかに行くことも何か食べることも難しくなった。誰かに頼るということも考えられなかった。人と会うのに疲れていたのだ。不安はないが拠り所もない。自由なはずが、限りなく不自由に近い。そんなことをゆるゆると自覚していく間に、その日も暮れた。


 その夜はなかなか寝付くことが出来なかった。八垣の頭から発せられた光が辺りをぼんやりと照らす。は俺の行く末を照らしてはくれないのかもしれないと、彼の脳裏を嫌な考えがよぎる。その考えは首筋を伝って全身に回り、纏わりついたまま離れなくなった。耐えかねた八垣はじたばたと転げまわり、その不安を引きはがそうとする。髪をかきむしり引っ張ると、ピンクの毛髪が驚くほど易々と抜けた。それは月あかりを反射し微細な光を放ち、やがて川面に降り立ったものを照らし出した。八垣もそれに気づき、動きを止める。張り詰めるような静寂が広がった。

 ぎらぎらとした眼だった。動かず、ただ八垣の方を見つめるばかりである。八垣も眼を逸らすことができなかった。眼を逸らしたら、いや、逸らさなかったとしてもこのままではあれに吞まれてしまうと、確信していた。そして、刹那の間だが、それを受け入れた。自らの運命を手放した。彼を見つめていた存在にはそれだけで十分だった。

 それは浮かび上がるように飛び立ち、夜空に吸い込まれていった。八垣はそれの姿が消えてからも、空を見上げたままでいた。絶望し、憔悴しきった姿である。こうなってしまった人間の末路は明白だ。

 月は、淡々とそこにあるばかりである。



 九里は幸せな男だ。今も、妻と五歳になる愛娘と散歩をしている。ささやかだが、平和なひとときである。

 土手の上の桜は見頃をとうに過ぎ、花びらが僅かに残るばかりだ。残りも今日のうちに散ってしまうだろう。

 九里は、少し前から芽生えた不安を拭えずにいた。自分の幸せな日常が、ひどく脆いような気がしてならないのである。桜を見ると不安は増した。それがあっけなく散ってしまうからだろうか、あるいはそれがピンク色だからだろうか。無論、桜のピンクは、九里の脳裏に焼き付いているきついピンクとは似ても似つかないのだが。

 娘が笑いかけてきて、少し安心する。脆くとも、幸せはあるのだと、九里は確信した。



 職場に向かおうとした三秋の足がふと止まる。空を見上げると、ペリカンの影がちらつく。男は食われたのだろうか。とっくに消化されているかもしれない。早くあんなもののことは忘れて仕事に行かなければならないのに、頭から離れない。

 大丈夫だと、自分に言い聞かせる。私とあのピンク髪は違うのだと。私は攫われないと。

 少しだが、気が楽になった。さあ、仕事に向かおう。立ち止まっている暇は無いのだ。と、降ってきた災難、ペリカンにピンク色の液体を引っかけられた。


 

 

 


 


 

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動物図鑑 五木林 @hotohoto

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