ウシ

 もー。


 アヨさんはため息交じりにそう放つとタクシーの後部座席でごろりと寝転がろうとした。


「邪魔なのでやめてください。あなたは牛ですか」


「でもさあ、時間には間に合いそうにないよ」


 道はひどく混雑している。おそらくは事故でもあったのだろう。タクシーは5分前と大して変わらない場所にいる。車窓から見える景色は、早足で歩く社会から取り残されたことを自覚しているようだった。青白い顔のタクシードライバーもそうだ。きっと皆が苛立っている。

 

 そんな気鬱な道路の上でも、僕の悩みは際立っていた。片思いしていた人の結婚式に向かっているのだ。いい気分でいられるはずもなく、逡巡して思いを伝えなかった後悔だけが重くのしかかっている。それなのに隣に座るアヨさんは僕の暗い表情から何も感じとってはくれないらしい。



「そういえば、君ってあの子のこと好きでしょ」


「なんで知っているんですか」


「いや知らなかったけど。図星なのね。で、いまどんな気持ちなの」



 もちろん悔しい。あの人に置いていかれてしまったことも、別に恋人がいるわけでもないアヨさんに偉そうに聞かれることも。


「最悪ですよ。食前に飲む薬があったことを歯を磨いた後に思い出すより数倍は悪いです」


 アヨさんは自分で聞いたくせに興味なさげに、比喩が病的だね、と言った。車内に、何か言いたげな沈黙が流れる。


  長い渋滞と気まずい沈黙にあてられたのか、元々不健康そうだった運転手の顔は更に青白くなっていた。結婚式に行くならもっとおめでたそうにしやがれ、と言いたげな視線をバックミラー越しにこちらに投げかけてくる。

 

 アヨさんが気だるげに口を開いた。


「嫌な渋滞だね。全然進まないし、もう歩いて行こう。スニーカー履いてきて正解だった」



 外に出てみると混雑具合がよくわかった。車道の上でだけ、時間がゆっくりと進んでいるようだ。春の日の麗らかさと相まって、牧歌的ですらある。


「結婚日和だねぇ」

 アヨさんが笑った。


 道を進むにつれ、クラクションの音が聞こえるようになった。渋滞の先頭がすぐそこに見える。違和感に先に気づいたアヨさんが不思議がるような、面白がるような声を上げた。ざわざわと落ち着かない様子の他の車を気にも留めずに、のそのそとそれはいた。



「……牛車?」


 黒い牛に牽かれて進むそれは、過去から飛んできたか、どこか東南アジアの国から海を渡ってきたとしか思えない、紛れもない牛車だった。

 ぽかんとしている周りをよそに、荷台にのったひょろ長い男が唄いだした。




 牛歩    踏みしめれば

 幾千万人の  人の足跡


 牛歩    踏みしめれば

 幾億年分の  時の歩み



 一歩ずつ  進むのは泥道


 幾度なく  夢に見たあの街



 見上げれば  移り行く  星々


 泥はねた   照らされる  足元



 どす黒い  泥をかき分け


 一歩ずつ  愛すべき牛歩


 進むのは  星々と私 




 

 長い沈黙を破ったのは牛だった。重いが、優しい声で話し出す。


「いい歌だろ。こいつは喋ることも、歌以外で表現することもできないが、それで十分だと思えてくる」


 と、荷台の上で歌った男を尻尾で指して言うのであった。


「うん、私はああいう歌好きかも」


「嬢ちゃんはわかってるじゃねえか。兄ちゃんはどうだい。あれはあんたの歌だよ」


 気安く嬢ちゃんだなんて呼ぶな、と態度を一変させて毒づくアヨさんを制止し、僕の歌とはどういうことかと尋ねる。


「俺達には人が抱えているものがわかるんだ。野生の勘ってやつかもな」


「飼いならされてるじゃないの」


「あなたは口答えしなきゃ気が済まないんですね」


 嬢ちゃん呼びが余程気に入らなかったのか、アヨさんは牛の言うことにいちいち盾突く。だが牛は気にした様子もなく話し続ける。


「嬢ちゃんみたいな、なんの悩みもない人間を歌ってもあまり意味がねえからな。兄ちゃんみたいなやつのことを歌うんだ。意味わからないかもしれないが、まあ、歌の意味なんて大抵わからないもんだ。意味を付け加えるのは聞く側の仕事だよ。ゆっくり考えるといいさ」


 それじゃあ、と別れを告げると、牛はまたのそのそと歩き出した。どうせ私は歌っても意味のない人間ですよとぼやくアヨさんを急かして僕たちは結婚式に向かう。



 結局20分の遅刻だった。悪びれずにいるスニーカーの女とびくびくした小男を見て彼女は昔を懐かしんだだろうか。あるいは、僕のことなどは視界に入っていないだろうか。パートナーと過ごした年月は、僕と過ごした日々より長く重いものだろう。とっくに忘れ去られているかもしれない。そんな嫌な想像ばかりが僕の喉元から胃にかけてぐるぐるとまわっているので、もちろん食事が喉を通るわけがない。


 お肉食べないならもらうよ、とアヨさんが僕の皿を横からとっていく。勿体ないから肉は少し食べるつもりだったのに。アヨさんは肉をとっていった代わりにトマトを僕の皿に置いた。

 牛肉を食べながらアヨさんは話し始める。


「普段は一方的に食べたり食べられたりしている関係なのに余裕綽々としているとむかつくね。あんな生意気な牛ははじめてだよ」


 僕は話を聞きながらトマトと、あの歌の意味を咀嚼する。

 歌の意味を考えてみたんだけど、とアヨさんは続ける。


「君は君なりに愛したんだよ。人より遅くったって構わないんだ。あの歌にどんな意味があろうと、君は君のままでいいんだ。そうだろう?」


 甘いな。僕に告げられる言葉としては。トマトを飲み込むと、次はしょっぱいものがこみ上げてきそうになって、慌てて顔をしかめる。



 え、泣いてんの。怖。


 泣いてないですよ。


 ……やっぱ帰りにあの牛探してとっちめようよ。


 嫌ですけど。



 …………でも、


 牛が見つかったら、帰りは牛車に乗っていきませんか。




 いいねそれ。

 アヨさんが笑った。



















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