悪夢

気がつくと外は日が落ち、家の中が暗くなっていた。


「父さん、ありがとう。もう落ち着いた。」


ゲンはそう言うとシドからそっと離れる。

初めてだった。あんなに泣いたのは。

ゲンは嬉しかった。

最後に父に抱きついたのはいつだっただろう。随分と前のことのように感じる。だから逆に新鮮に感じた。

シドの体はゴツゴツとし岩のように堅くどこか不器用だったが、大きくて包容力があり安心感で満たされた。


「ちょっと顔洗いに外行ってくる。」


そう言うと、二人から逃げるようにして家から少し離れた川に行こうとした。

少し恥ずかしくなったゲンは涙でクシャクシャになった顔を洗いたかった。

しかし今まで溜め込んでいたものを吐き出してすっきりしたのか、その足取りはとても軽やかだった。




川へ向かう途中、何か違和感を感じた。何かはわからないが、とてつもない違和感。

何かがおかしい

しかし、いくら考えても答えは見つからず、考えることをやめた。



川に着き、顔を洗うために川辺に近寄る。

そして水を汲むためにしゃがみこんだ。


川に手を突っ込む。


暖かい時期にも関わらず、何故か川の水が少しぬるく感じた。


両手いっぱいに水を汲み、顔にかける。

その瞬間、異変に気づく。


「……うっ、臭い……。」


顔にかけた川の水は錆びた鉄のような腐った魚のような、生理的に受け付けない不快な臭いがした。

その臭いが鼻の奥を刺激する。それと同時に吐き気が襲ってきた。

胃の中の物を全て戻しそうになる。


もしやと思い、恐る恐る目を凝らして川面を見てみた。

先程は外が暗く気分が浮かれていたのもあってよく見えていなかったが、満月の光に照らされた川は赤黒い液体で満たされていた。

嫌な予感が的中した。


「ひっ……!」


腰が抜け尻餅をつく。

先程水を汲んだ両手を見てみると、ぬるりとした生温い血のような液体がべったりと付着していた。


慌てて立ち上がり家に帰ろうと走り出した。

帰り際、視界の端の方で見慣れない小さな山が見えたような気がした。


勢いよく家のドアを開ける。


「父さん!母さん!外がおかしい!早く逃げ……よ……う……?」


家に入って言葉に詰まる。

家の壁は、川と同じように赤黒い液体がべったりとついている。

そして、シドとチトセは確かにそこにいた。

ちゃんとそこにいたのだが、ゲンが家を出る前と立ち位置が全く変わっていない。それどころか微動だにしておらず、まるで本物そっくりに作られた人形のようだった。


言葉を失い立ち尽くしていると、急に二人の体がガクガクと音を立てて震え出した。

驚いたが体が金縛りにあったかのようにピクリも動かなかった。

二人の首から上がゆっくりとゲンの方を向いていく。そして、口角が大きく上がると、不気味な笑みを浮かべながら赤黒く染まった歯をニッと見せていた。


まるで悪夢でも見ているかのようだった。

何があったのか頭が全く追いつかない。

それでも村全体に異変が起きているということだけはわかった。

恐ろしくなったゲンは、棒のように動かない足をなんとか動かし、出口へ向かおうとする。


その時だった。


耳を塞ぎたくなるような金切り声がゲンを襲う。


思わず声の方向に顔を向ける。

声の正体はシドとチトセからだった。

二人は顎が外れそうなほど狂ったように大きく口を開けて叫んでいた。


ゲンは一刻も早く逃げたかった。目を瞑りたかった。

しかし、全身がコンクリートで固められたかのように全く言うことをきかない。


ようやく悲鳴が落ち着いたと思ったのも束の間、二人の手足が皮膚、筋肉、骨と順にドロドロと溶けていく。

崩れていく二人の身体。二人だったものの足元にはどんどんと赤い液体が広がっていく。

ゲンは何も出来ず、ただその光景を見せられていた。


そして最後に頭が溶けていくとき、二人が優しく微笑んでいるかのような気がした。


脳の処理が追いつかない。ゲンは今の出来事に呆然としていた。目の前の大きな赤い水溜りはゲンの足元まで届いていた。


我に帰ると体が動くようになっていることに気がつく。

一刻も早くここから立ち去りたかったゲンは、家の外へ出ようと竦んだ足を運ぶ。


外の地面を踏む。手足が熱くなるのを感じた。先程溶けて崩れていった両親の姿が脳内をよぎる。全身から嫌な汗が出てくる。


「い、嫌だ!やめてくれ!」


指先からは骨が見え始めていた。


「嘘だ嘘だ!夢なら醒めろ!」


ゲンの叫びも虚しく、次第に肘、膝から先が無くなっていった。

空を見上げる形で倒れ込む。

もう声すら上げることも、泣くことも、臭いを感じることもできなくなっていた。

段々と視界が赤に支配されていく。

無抵抗のまま、ゲンはドロドロとした真っ赤な液体へと変わっていった。




――最後に目にしたのは、不気味な光を放つ真っ赤に染め上がった満月の姿だった。

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