解
男が語っている間、僧侶はひとことも口にせず、黙って目を
男がすべてを語り終えると、僧侶はゆっくりと目を開け、頷いた。
「なるほど。話の上だけで
人に話したことで、
だが、僧侶はにやりと笑ってこう続けた。
「しかし、その貴殿が出会ったという鬼というのは、
男は僧侶の発した言葉の意味をすぐには理解することができなかった。
男は小さく息を吸う。
「それは、いったいどういう──」
男が
「先ほどの話、
「腑に落ちぬところ?」
「さよう」
僧侶は頬をさすりながら語り始めた。
「まず、貴殿は作法に従い、雷に対し、弓の弦を掻き鳴らしていたとおっしゃいました。弓の弦の音には、
僧侶の言葉を聞いた男は、しばらく考えていたが、やがてゆっくりと首を左右に振り、重々しく口を開いた。
「あの時は、雷の轟音で弦の音も打ち消えておりました。そのため、おそらく鬼の耳に届いていなかったのでしょう。音が届いていたならば女も食われずにすんだのかもしれませぬ」
僧侶は
「はっはっは。聴こえていなければ、
男はきっと僧侶を
「笑い事では」
男は強い口調で云う。
「これは申し訳ない」
毛のない頭を撫で回し、僧侶は謝罪するも、心から反省している様子は
「弓の音の
男は困惑した。僧侶の真意を
男は改めて僧侶を見つめる。飄々としているが、
いったい何者なのだ。
男は探るように僧侶を見ながら答えた。
「着物が残っていたとして、それがなんだというのです。鬼とて、着物まで喰らおうとは思わぬでしょう」
僧侶はうんうんと頷く。
「鬼も着物を食わない。そうですな。では何故、鬼はすべての着物を残していかなかったのでしょうか。何故、一重のみ残したのか」
男は答えなかった。黙っていた。僧侶は続けた。
「他にもありますぞ。何故、女は食われる瞬間に悲鳴を上げなかったのか。何故女が食われるときの物音が貴殿には聴こえなかったのか。いかな轟雷が鳴り響いていたとて、間近で人の悲鳴が聞こえぬはずがない。人が食われる音が聴こえぬはずがない。そのことを、貴殿はいかように考えなさるのかね」
男は、意味がわからぬ問いかけを繰り返してくる僧侶をわずらわしく感じて、思わず強い口調で答えた。
「何を意味の分からない……女は喰われてしまったのです。いまさら何を意味の分からぬことを!」
「貴殿はいかように考えなさる。今は、それを問うております」
僧侶はぴしゃりと言い放った。男は僧侶を睨みつけながらも、自らの考えを述べた。
「私が外に出ていたのは、雷がひと鳴りするその
僧侶の
「では、その鬼の口の大きさはどの程度でしたか」
「鬼の口?」
「さよう。鬼の口の大きさです。貴殿が見た、鬼の口は、
いったい、この僧侶は何なのだ。何を云わんとしているのだ。男はわけがわからなくなって首を振った。僧侶は、男に喋るように促す。男は仕方なく口を開く。
「耳まで裂けておりました。三日月形をして、鋭い牙が並び……」
「知りたいのは口の大きさ。形なぞは訊いておりませぬが」
僧侶の
僧侶は満足そうに頷き、唇の端を吊り上げ笑みを浮かべる。
「ふむ。なるほど。その程度の大きさでしたか。そうなると──」
僧侶の笑みに男の苛立ちは
「鬼の口の大きさがどうしたというのです。先ほどから貴方は何を考えておられるのか! 私を
男は僧侶に言葉を叩きつける。しかし、僧侶はそれを無視して云う。
「そうなると、鬼はたったそれだけの大きさの口で、一瞬にして女の身体を丸のみにしたことになる」
訳がわからなかった。それがどうしたというのであろうか。この僧侶は、何を考えているのか。まったく、わからぬ。わからぬ──。男は、
「御坊よ、先ほどから何なのですか貴方は──」
男の言葉を
「さて、おかしいと思いませぬか。鬼の口がその大きさでは、人間の身体をひと飲み、というわけにはいきますまい。では、鬼は如何にして女の身体を喰らったのか」
僧侶は男の目をじっと見据えた。男は僧侶を睨み返す。
「一口で喰らってしまえなかったのならば、首だけを残し、身体は持ち去ったのでしょう」
僧侶は軽く目を瞬いて、
「では、仮に持ち去ったのだとして、鬼はいったいどこから、どこに持ち去ったというのですか。貴殿は、鬼が現れたとき、校倉の戸口に立っていたとおしゃいました。鬼はいったいどこから倉の中に入り、どこから外に出たというのか。持ち去るなど、喰らうよりもよっぽど難しいのではないですかな」
まくしたてる僧侶に、男は口をつぐんだ。
「貴殿は、校倉の奥から、突然にして鬼が現れたとおっしゃいましたな。それは、壁をすり抜けて現れたということですかな? それとも、何もないところから浮かび上がったとおっしゃるのか」
「御坊よ、いったい何を──」
「
僧侶の
「正直な話、昨夜のことは今でも夢のようなのです。覚えているのは、鬼が、薄暗がりに、突然浮かび上がるように現れて──」
男は首を激しく振った。
「──
再び、男の言葉を遮ると、僧侶は云う。
「鬼が現れたとき、どのような音がしましたか」
「そのようなこと、覚えておりませぬ」
「覚えておらぬということは、耳に残るような大きな音ではなかった、ということですな」
男は、大きくため息をついたが、ひとこと、そうかもしれませぬ、と答えた。僧侶は頷いた。
「校倉の底板を外して、出入りすることもできましょうが、音も聞こえず、闇の中から浮き出るように現れたとなると、話は変わってきます」
僧侶は、腕を組みながら、独り言のように続けた。
「闇の中に溶け込むにはいかようにすればよいのか」
「鬼のすることに、人の知が追いつきましょうか」
男は、わずかに
だが、僧侶は気にも留めず続ける。
「──例えば」
僧侶は
「例えば、白い紙にこの用に
僧侶の文字は、美しかった。男も筆には自信があったが、老僧のそれは、比べ物にならないほどの達筆である。
──この僧侶は、いったい何者なのか。
男はもはやわけがわからなくなっていた。
「しかし、このように、黒い法衣に経を記せばどうでしょうか」
僧侶は、筆先を自らの着ている法衣に
「闇の中に、闇と化した者が
男は、首を
「闇と、化す?」
「その鬼は、黒く染め上げた布を
わかるようなわからぬような顔をして、男は疑問を口にした。
「では、鬼は、いつの間に倉の中に入りこんでいたというのです。戸口にはずっと私が立っておりました」
「貴殿が倉に入るよりも以前から、ずっと待っていたのですよ。貴殿と女が睦みおうている間も、とにかく気配を殺してじっとしていた。そして、貴殿が外に出たその刹那の間に、鬼は女に姿を晒し、喋らぬように、動かぬように言いくるめ、自分が被っていた黒布を被せた──」
ここにきて男の混乱は
「否、否、おかしい。御坊の云っていることは何もかもおかしい。あらかじめ、鬼が待ち
僧侶は優しい目で男を見つめた。男は思わず口をつぐんだ。
「貴殿は何故、件の校倉のあるところへと逃げてきたのですか? 女を連れ戻そうとする者達に追い立てられていたからではないですか?」
男は立ち上がり叫び散らす。
「御坊は、御坊は!」
僧侶は男に座るように促す《うなが》。だが男は座ろうとしない。だが、立ち去ろうともしない。しっかりと僧侶の言葉に耳を傾けている。
「追っ手が、貴殿をわざと校倉に逃げ込むように仕向けた、とは考えられませぬか。遅かれ早かれ、貴殿と女は、件の校倉に逃げ込まざるを得なくなるように仕向けられていた──」
「わからぬ! 御坊は一体何を云わんとしているのだ」
「女が、鬼の言葉に従ったのは、その鬼が、女の良く知る人物だったとしたらどうでしょうか。例えば、女の肉親。兄などであったならば。否、むしろ、女はもとより、すべてを知っていたのではないですかな」
男は興奮しながらわめいた。
「……まったくわからぬ。御坊は何なのだ! 何が云いたいのだ! わからぬ! 意味がわからぬ!」
僧侶は軽く嘆息した。
「私が云いたいのは、貴殿に昨夜起こったことは、鬼の仕業ではなく、すべて人の仕業だったのではないか、ということでございますよ」
男が目を
僧侶は大きく息を吸い、断言した。
「鬼の正体は、
男は、はっとした。喜びとも怒りともつかない、なんとも
「──女は、女は生きていると?」
僧侶は頷く。
「い、いや、そんなはずはない。では、あの首は。女の首はどうなのです。私は、確かに生首を見た!」
「その首は偽物」
「いや、あれは作り物などではなかった。あの冷たい肌の心地、紛い物であるはずがない」
「そう、貴殿は、女の首が頬に触れたとき、酷く冷たかった、とおっしゃった。それが女の首を偽物と断じる
男の息が荒くなっている。ぶるぶると体を震わせ、唇を噛みしめている。
「そんな、わたしが、あの女の首を間違えるはずが」
「暗がりの中、首だけのそれを貴殿は、はっきりと判別することができましたかな? 心に一糸の乱れもなく、
「む、むう」
男は
「さらに。もしも、女が喰われたばかりだったとしたならば、立ち込める血の臭いに気づいたはず。貴殿が抱いた首からは、どれほどの血の臭いがいたしましたか。どれほどの血が流れ出ましたか。見たところ、貴殿の着物は泥にまみれておりますが、血は一滴もついておりません。その首、すでに血が乾いていたのではないですかな?」
「た、確かに鬼の腕についていた血も乾いていた……」
男はただただうなり声を上げ、首を振るのみである。
「貴殿が
男はもはや僧侶の言葉に
「なぜです。なぜこのようなことを」
僧侶は男の目をじっと見つめた。
「貴殿に女が喰われた、死んだ、と思い知らせるためでございましょう」
「女が死んだと思い知らせる」
男は
「さよう。本来ならば、校倉には、貴殿が見た生首を残しておきたいところだったでしょうが、昼間に貴殿が戻ってきて明るいところで首を見れば、気が
「手の届かぬところ──それは」
「このように手を
男ははっとして、目を見開いた。
「──では、では、本当に女は生きているというのですか? 生きて帝の妃になろうとしていると?」
僧侶は深く頷いた。男はそれを見て、立ち上がり駆け出そうとする。
「いや、行かぬほうがいい」
僧侶が男の着物の
「何故ですか」
男が
「何故行ってはならぬのです」
怒りのためか
「わからぬのですか。貴殿は、逃げたのです。女を置いて、その目の前から逃げたのですぞ」
男は一瞬ぽかんと口を開けていたが、すぐに「う」と小さく呻いて目を
「女は、鬼に促されて布に隠れていた。当然、貴殿が首に囁きかけた睦言も耳にしていましょう。しかし、貴殿は鬼が口にした『女と共に喰われろ』という言葉に、死にたくない、食われたくないと答え、逃げ出した。貴殿は舌の根も渇かぬうちに、女の前で自分が囁いた睦言は偽りであったと告白したのです」
僧侶は
「そもそも、女が本当に貴殿のことを思っていたのならば、布を飛び出し、自らが生きていることを伝えようとしたでしょう。しかし、女はそれをしようとはしなかった。それはどういうことか? 貴殿は試されていたのです。もともと、女は何が起こるのか、すべてを知っていたのかもしれません。そのうえで貴殿の愛情を試した。そして結局のところ──」
僧侶は、男の顔を見ると、言葉を飲み込んだ。男は黙って、
「──結局のところ、貴殿はその不誠実さから、女に見限られたのです」
そのまま、僧侶は口を閉ざした。
男は僧侶の言葉を聞き終わると、顔に絶望の色を浮かべ、深々と
「それでも、私は」
と小さく呟いた。
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