露と答えて 弐


 しばらくして、暗闇に目が慣れ始めると、お互いの顔を間近でならば確認できるようになった。そうなって、改めて二人は、互いに見詰め合い、恥らった。


 どれほどかようにして二人身を寄せ合っていたであろう。


 突如とつじょ、かっとばかりに戸口とぐち隙間すきまが光った。突然のことに二人は身をこわばらせ、より一層、強く抱き締めあった。間を置いて、地もらさんばかりの轟音ごうおんが響き渡り、校倉が大きく震えた。男はぎくりと女の肩から手を放し、背後の戸口を振り返ると、呟くように云った。


「大丈夫であろうか」


 女はおろおろとうろたえる男の声を聞いて、可笑おかしそうに笑った。


臆病おくびょうなので御座いますね。雷が恐ろしゅうございますか」


 男は暗闇の中で輝く女の目を見据みすえると、


「そのようなこと。私はこの音に紛れて、貴方を取り戻しに来るやからはしまいかと、そのことを心配したのです」


 と言い訳をした。


 再び雷鳴らいめいとどろいた。男は身をすくめ、再び戸口の方を見やる。


「大丈夫であろうか」


 女はあきれたように笑うと、


「そんなに気になるのでしたら、見ていらっしゃればよろしいではないですか」


 女に試すように云われ、男は少々腹立たしく思い「そのようにおっしゃるのであれば」と、立ち上がった。男の腕に掛かっていた女の手を、男はぞんざいに振りほどく。


「あ」


 女は小さく声を出した。男を引きとめようとしたのであろう。だが、男はそのまま、何も言わず戸口へと歩いた。女はそれ以上何も口にはしなかった。


 外に出ようと、戸に手をかけた男の目に、壁に立てかけてある弓と胡簶やなぐい(矢を差し入れて背に負う武具)が映った。男はそれらを手に取ると、ゆっくりと戸を開けた。


 風にあおられた雨が激しく吹き込んでくる。男は顔をしかめたが、そのまま、校倉の外へと踏み出していった。


 突如、激しい閃光せんこうが瞬き、男の目をおそう。稲光いなびかりがまるで巨大な蛇のように、暗い空をのたうち、駆け巡っている。


 男は思わずたたらを踏み、校倉の中に戻ろうとした。だが、女に臆病者と思われたくない一心で、何とかその場に踏み止まり、後ろ手に戸を閉めると、雷に対する作法さほうどおりに、弓の弦をき鳴らした。


 光の余韻よいんが眼球から徐々に消えうせ、視界が明瞭めいりょうになり始めた。直後、つんざくような轟音が彼の耳を襲う。先程の稲光の音が遅れて届いたのである。


 突然の光には踏みとどまることが出来た男も、この轟音ごうおんには思わず「ひ」と小さく悲鳴を上げ、その場にしゃがみこんでしまった。


 男は自分が震えているように感じた。それとも大地が揺らいでいるだけなのか。よくわからぬまま、しばらく男は頭を抱え、うずくまっていた。


 再び落ち着きを取り戻すと、男は不意に先程悲鳴をあげてしまったことを恥ずかしく思い始めた。もしあの悲鳴が女に聞かれていたら、と心配になった。


 男はそっと戸を開けて、校倉の中の様子をうかがった。


 女は疲れたのか、横になっていた。どうやら、男の悲鳴は聞こえなかったようである。男は胸を撫で下ろし、再び戸口の前に立とうとした。が、その前に、何とはなしに、女に声をかけていこうと思った。


「お疲れでございますか」


 返事はない。


 はて、なぜ答えぬのだ。男は不思議に思い、再び校倉の中に目を向けた。女はまったく動く気配がない。


如何いかがなさいましたか」


 男は問うた。しかし、女は反応しない。


 一体、どうしたというのであろう。


 男は奇妙に思いながらも、女の近くに寄った。暗がりの中、横たわっている女の顔を覗き込む。女は、目を見開いて口を開けている。


 驚いて男は近寄った。


「如何なさいました」


 女は黙っている。


「黙っていてはわかりませぬ」


 男の声に焦りの色が見え始める。


 女はやはり何も言葉を発しない。


「もしや、一人にしたことを怒っておられるのか」


 その言葉を口にしたとき、男には、女の口が動いたように見えた。


 ああやはりそうだ。女は、ひとりきりにしたことをとがめているのだ。男はそう思った。


「やはりそうでありましたか」


 男はほっとした。女が口を聞かぬ理由がわかったからである。黙っている理由がわからなければ、どのように声をかければよいのか検討けんとうもつかないが、怒っているのだとわかってしまえば、云うべき言葉はいくらでも思い浮かぶ。


「──しばしの間であろうと、ひとりになるのは不安でございましたね。もう二度と、貴方をひとりにはいたしませぬよ。この命尽いのちつきようとも、かたわらにいましょう」


 男はゆっくりと女の首に手を回した。


 彼女はやはり無言で男の腕に抱かれる。


「いいかげん、口をきいてくださいませんか」


 目一杯優しげな微笑びしょうを浮かべながら、男は女を抱き上げた。抱き上げてみると、女の身体は妙に軽く、まるで霞を抱き上げるがごとき感触である。


 はて、女の身体というものはかくも軽いものであったろうか。


 男が不思議に思った瞬間、女の首がごとりと床に落ち、まりのように転がった。


 男が腕に抱いているのは、女ではなく、その着物のみであった。


「な、な、なんだ、これは!」


 男は思わず叫んだ。両の眼を見開き、転がった女の首をじつと見詰め、手の中の着物をくしゃくしゃに掻き抱いた。


 首だけになった女の表情は暗がりではっきりと見ることはできなかったが、その白い双眸そうぼうは大きく見開かれていた。


 男は口を閉じることもせず、亡羊ぼうようとした面持おももちで、「ああ」とも「うう」ともつかぬようなうめき声をらした。


 何が起こったのか、まったく理解できなかった。


 と、視界の端で何かがうごめいた。同時に校倉の奥から、くぐもった笑い声が聞こえてくる。


呵々かか。首に睦言をささやいても答えまい」


 男は声のした薄暗がりを見た。灯りの向こう側にいるため、

眼がふたつ闇の中に浮かんでいる。


「何者」


 男は闇に呼びかけた。輪郭りんかくおぼろげながら見て取れた。再び稲光が校倉の中を照らすと、ようやく其処そこにいる者の姿形をはっきりと目にすることが出来た。


 耳まで裂けた口。あさのように白く乱れた髪。牛のような角。おぞましい外見をした者が、そこに立っていた。


「な、なんと──鬼──では、では、お前が──」


 男は口を開けたまま、放心したように呟いた。


 鬼が嫌らしい笑い声をあげた。笑い声を上げながらも、まるで笑っているように見えないその顔が、酷く不気味であった。


 鬼は囁くように云った。


「いかにも。我が喰ろうた。柔らかで香りよい肉であった。まことに美味であった」


 鬼は可笑しそうに肩を揺らしながら、血に染まった手を男に突き出した。その血はすでに固まっているのであろう、鬼の手に無数のひび割れを作る。その血が女の血であると思うと、男はいてもたってもいられなくなった。


「なんと、なんと──」


 男は怒りで震えだした。顔面は蒼白そうはくである。そんな男をあざけりながら鬼は笑う。腹の底から響いているような低い声が、夜気やきを震わせる。鬼はその声でうたうように云う。


「お前は、この女を好いておったのであろう。さらば、この女が黄泉路よみじで寂しくならぬよう、お前も我の腹の中におさまるがよかろう」


男は呻いてその場にくずおれた。


 鬼が男のもとに歩み寄る。鬼の口から、しゅうしゅうと呼気こきの洩れる音が聞こえる。男はたまらず後退あとじさる。


「さあ、お前はどこから喰われたい。頭からか、腕からか。それとも、女と同じく、頭ひとつ残して身体ごとか?」


 鬼が両腕を前に突き出しながら、近づいてくる。


 男は後退さりながら、ぶるぶると首を振り、力ない言葉を発した。


「い、嫌だ、死にたくない! 嫌だ……」


 それでも鬼は無言で近づいてくる。男は目をつむった。


 鬼の腕が触れるか触れぬかといったところで、男はカッと目を見開き、転がるように戸口に走った。そのまま引き戸から外に飛び出そうとするが、雨水を吸ったためか、戸は簡単には開かない。


「呵々、喰われるのは嫌か、そうか」


 焦る男の背に向けて、鬼は嘲笑ちょうしょうした。そして、その腕を伸ばして、男の首筋をつかむ。


「ひいっ」


 男は悲鳴を上げて、地べたにへたり込んだ。鬼はそれを見てさらに笑う。


いた女よりも、おのが命のほうが大事か」


 身を震わせながら、ぶつぶつと命乞いを繰り返す男を尻目に、鬼は淡々と語り続ける。


「は! なんとも哀れ。なんともあさましき男。お前はその程度のじょうで『二度とひとりにせぬ』なぞと睦言を云い『命尽きようとも傍らにいる』なぞとちかったのか。……滑稽こっけいはなはだしい」


 一括いっかつすると、鬼は落ちていた女の首を拾い上げ、それを男の頬に当てがった。


「どうだ。愛した女の肌は柔らかいか?」


 女の首は氷のように冷たく、男の背筋は凍った。男は思わず女の首を振り払った。


「愛した女も、死んでしまえば気味の悪いしかばね、というわけか。フン、勝手なものよな」


 不愉快そうに呟くと鬼は男の首筋から手を離した。


「お前のような男を食うては腹を下すというもの。どこへなと好きなように立ち去るがいい」


 ようやく人がひとり通れる程度に戸が開いた。男は鬼の言葉を最後まで聞かずに、校倉を飛び出した。そのまま、よろけながらも荒れ野を無我夢中むがむちゅうで走った。逃げた。


 喉の奥から声にならぬ叫び声が沸き上がった。


 哀れな男だ、あさましき男だ。


 耳元で、再び鬼のわらう声が聞こえたように思えた。


 男は、鬼の嘲笑の残滓ざんしを振り払おうと叫び続けた。


 雨の中を叫びながら、走った。


 ただただ、逃げた。

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