露と答えて 壱

 日はすでに落ちていた。


 本来ならば、上天じょうてんで月が輝いている時分じぶんであるが、今宵こよいは厚い雲が立ち込めており、ひどく暗い。足元を照らすのは、時折ときおり雲間からこぼれ落ちてくる月明かりだけである。


 暗闇の中を男がひた走っていた。


 男の背には女が負われている。色白で愛らしい顔つきの女である。


 二人は恋仲であった。それは身分違いの恋であった。男の位は従四位上じゅうしいのじょう殿上人てんじょうびととしてはそれほど高い地位とはいえない。一方、女の方は、いずれ天皇のきさきになるようにと深窓しんそうにて育てられた令嬢れいじょうである。


 うことも、文をおくることもままならず、ただただ、女がみかどのものになるのを指をくわえて眺めていなければならないなど、この熱情家の男には耐えがたいことであった。


 高嶺たかねに咲く花であった。


「自分の手の届かぬところに、見ることすらあたわぬところに行ってしまうのならば、手折たおって持ち去るのみだ」


 男は闇に乗じて、女をさらって逃げた。



 女は、これが屋敷から出た初めての経験であった。


 そのため、見飽きた屋内の風景とは違って、いろいろと物珍しかったのであろう。周囲を見回しては、興味深げに溜息をいていた。


 男はそのような態度をとる女をより一層愛らしく感じ、声を掛けようとした。しかし、今は逃れている最中である。余計なことを考えずに歩を進めることが先決なのではないか。男は開けた口を一文字に引き締め、足に力を込めた。


綺麗きれい


 ふいに、男の背で女がった。


 男はちらと、視線をわきへと向けた。小さく白く光るものが目に飛び込んだ。


 それは、草葉くさばつゆであった。


 雲間から時折ときおりのぞく月の光を映しだして、露が一瞬だけ白く輝くのである。


 女は感嘆かんたんの声をらしながらたずねた。


「あの白く輝く玉はいったい何なので御座ございますか? 真珠でございますか?」


 男は黙っていた。走って息を切らせていたので、草葉の露です、とたったひとこと言うことが億劫おっくうに感じられた。結局、男は答えなかった。


 男が答えてくれなかったからであろう。女は悲しそうに目をせ、だまった。名残惜なごりおしそうに、後方こうほうの草葉の上を見つめていたが、距離が開いて、露が見えなくなってしまうと、あきらめたのか、前を向いて男の方を強く抱きしめた。


 半刻はんこくほどもったであろうか。いつしか男は肩で息をするようになっていた。その足取りは、ひどく覚束おぼつかないものとなった。


「お疲れで御座いましょう。私を下ろしてお休みになっては」


 男の身を案じたのであろう。女が尋ねた。だが男は、息をはずませながら振り返ると云う。


「いや。疲れてはおりませぬ。案ずる事はございません」


 男は気丈きじょうに微笑んだ。


 女も多少は安心したらしく、


「そう」


 と、男の背にもたれた。しかし、走りながら喋ったことが触ったのか、男は激しく咳き込むと、苦痛に顔を歪めた。女が再び心配して云った。


方便ほうべんなので御座いましょう? 辛そうでございます。どうか私を下ろして、お休みになって……」


 男はしばし黙っていたが、小さく「わかりました」と呟いた。


「この荒れ野を抜け出ることが出来たならば、そのときは貴方を下ろして私も休むといたしましょう」


 男は女に笑いかけた。男が笑いかけてくれたことが嬉かったのだろう。女は「笑った」と小さく呟くと、男の肩口に頬を寄せ深く息を吐いた。


 男は、女の心遣こころづかいに存分ぞんぶんに力づけられた。


「では」


 け出した。


 そのときである。


 一滴の雨粒が、男の腕を打った。


 男が空を見上げると、月を黒雲がおおおうとしている。


「いかん、降り出すぞ」


 男は呟くと、今まで以上の速さで駆け出した。それと同時に、大粒の雨が、容赦ようしゃなく男と女に降りかかった。男は雨宿りできそうな場所を求めて右往左往うおうさおうしたが、河原沿かわらぞいの荒れ野である。なかなか都合のよい建物は見つからない。


「冷たい」


 女が、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。女は口の中で呟いたつもりだったのだろうが、その声は男の耳に届いていた。背負った女が雨に濡れ、その小さな身体を縮めるようにしている。それだけで、男に一刻いっこく猶予ゆうよもならないと思わせるのには十分であった。


 男はとにかくがむしゃらに走り、雨をしのげる場所を探した。


 いよいよ風雨が強まってきた。


「大丈夫でございますか?」


 男は女に問うた。返事はない。雨音で聞こえなかったのだろうか。それとも、寒さに声も出ないのであろうか。


「どうなされました」


 やはり女は黙っている。


「いかがなさいましたか」


 男が少々声の調子を強くして尋ねる。


 女は、はっとすると、


「いえ、何でもございません。少しぼうとしていたのでございます」


 女の顔色は悪かった。これはまずい。男がそう思ったときであった。


 男の視界の端に、校倉あぜくらが映った。


 男は安堵あんどすると、校倉に向かって歩を進めた。


 校倉は、長らく野晒のざらしにされていたようで、酷く荒れていた。だが、贅沢ぜいたくなど云ってはいられない。今は何より、雨風あめかぜの当たらぬ場所に女を連れ行くことが先決であった。


 男は、女を倉の中に連れ込み、戸を閉めた。もともと暗かった校倉は、それで完全に暗黒と化した。


くろうございますね」


 女が不安そうに云った。


 それに対して男は、いとおしげに女の頬をで、その耳元に口を寄せる。


「せっかく落ち着きましたのに、美しい貴方の顔が見えぬのは、至極しごく残念でございます」


 男の本気とも冗談ともつかぬような睦言むつごとに、女は小さく笑い、頬を染めた。


「灯りを。どこかに火をつけるものが──」


 立ち上がろうとする女を、男はそっと抱き寄せ、唇を重ねた。

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