露と答えて 壱
日はすでに落ちていた。
本来ならば、
暗闇の中を男がひた走っていた。
男の背には女が負われている。色白で愛らしい顔つきの女である。
二人は恋仲であった。それは身分違いの恋であった。男の位は
「自分の手の届かぬところに、見ることすらあたわぬところに行ってしまうのならば、
男は闇に乗じて、女を
女は、これが屋敷から出た初めての経験であった。
そのため、見飽きた屋内の風景とは違って、いろいろと物珍しかったのであろう。周囲を見回しては、興味深げに溜息を
男はそのような態度をとる女をより一層愛らしく感じ、声を掛けようとした。しかし、今は逃れている最中である。余計なことを考えずに歩を進めることが先決なのではないか。男は開けた口を一文字に引き締め、足に力を込めた。
「
ふいに、男の背で女が
男はちらと、視線を
それは、
雲間から
女は
「あの白く輝く玉はいったい何なので
男は黙っていた。走って息を切らせていたので、草葉の露です、とたったひとこと言うことが
男が答えてくれなかったからであろう。女は悲しそうに目を
「お疲れで御座いましょう。私を下ろしてお休みになっては」
男の身を案じたのであろう。女が尋ねた。だが男は、息を
「いや。疲れてはおりませぬ。案ずる事はございません」
男は
女も多少は安心したらしく、
「そう」
と、男の背にもたれた。しかし、走りながら喋ったことが触ったのか、男は激しく咳き込むと、苦痛に顔を歪めた。女が再び心配して云った。
「
男はしばし黙っていたが、小さく「わかりました」と呟いた。
「この荒れ野を抜け出ることが出来たならば、そのときは貴方を下ろして私も休むといたしましょう」
男は女に笑いかけた。男が笑いかけてくれたことが嬉かったのだろう。女は「笑った」と小さく呟くと、男の肩口に頬を寄せ深く息を吐いた。
男は、女の
「では」
そのときである。
一滴の雨粒が、男の腕を打った。
男が空を見上げると、月を黒雲が
「いかん、降り出すぞ」
男は呟くと、今まで以上の速さで駆け出した。それと同時に、大粒の雨が、
「冷たい」
女が、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。女は口の中で呟いたつもりだったのだろうが、その声は男の耳に届いていた。背負った女が雨に濡れ、その小さな身体を縮めるようにしている。それだけで、男に
男はとにかくがむしゃらに走り、雨をしのげる場所を探した。
いよいよ風雨が強まってきた。
「大丈夫でございますか?」
男は女に問うた。返事はない。雨音で聞こえなかったのだろうか。それとも、寒さに声も出ないのであろうか。
「どうなされました」
やはり女は黙っている。
「いかがなさいましたか」
男が少々声の調子を強くして尋ねる。
女は、はっとすると、
「いえ、何でもございません。少し
女の顔色は悪かった。これはまずい。男がそう思ったときであった。
男の視界の端に、
男は
校倉は、長らく
男は、女を倉の中に連れ込み、戸を閉めた。もともと暗かった校倉は、それで完全に暗黒と化した。
「
女が不安そうに云った。
それに対して男は、いとおしげに女の頬を
「せっかく落ち着きましたのに、美しい貴方の顔が見えぬのは、
男の本気とも冗談ともつかぬような
「灯りを。どこかに火をつけるものが──」
立ち上がろうとする女を、男はそっと抱き寄せ、唇を重ねた。
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