モルグ街補遺 名探偵、刑事、そして殺戮オランウータン。
流布
第一話
「行きますか。先輩」
「待てよ、クロエ。急ぐことはない」
ヨハネスブルク・ポンテタワー。そのエントランスを前に、俺は懐から煙草を取り出して火をつけた。
クロエは呆れたような視線を向けてくる。一大事を前に、のんきに一服しているように見えるかもしれない。
「殺戮オランウータン事件は人類にとっては百数十年越しの追跡だ。緊張しているんだよ」
「あたしにはその気持ちはよくわかりません」
「クロエにはそうだろうよ」
ゆっくりと口から煙を吐く。
かつてモルグ街の殺人と呼ばれた事件は、まだ終わっていない。事件が起きたのは1841年。ポーの著作では犯人が判明したことで幕引きとなっているが、真実は少し違う。下手人であるオランウータンは、未だ捕まっていないという点で未解決事件なのだ。
所詮は猛獣一匹、どこかで野垂れ死んだのだという声があるのは、理解している。だが、我々インターポールはオランウータンが生存していることを確信している。なぜなら、当時から現在に至るまで、凶悪犯罪の影でオランウータンの暗躍が見て取れているからだ。
アメリカで、ソ連で、インドで、オーストラリアで、リビアで、マレーシアで、チュニジアで、南極で。百数十年に渡ってオランウータンは人を殺し続けている。
かつてだったら全てが同一犯だという確信を持つことはできなかった。だが、現代の科学捜査が現場の遺物から同一犯と告げている。
インターポールでつけられた仮称は『ブルーノ』。だが、世間では殺戮オランウータンという呼称のほうが圧倒的に通りがいい。
そして、ようやく俺たちは、殺戮オランウータンを追い詰めることができた。ヨハネスブルク、ポンテタワーに。
「先輩ってー、ホームズに憧れてインターポールに就職したって話でしたよね」
ポンテタワーのエントランス前で、クロエは間延びした声で言った。殺戮オランウータンをこれから相手取るという緊張などまるで見て取れない。相棒の持つその奔放さを、好ましく思う。
「ああ。俺はシャーロキアンだからな。悪いか?」
「いえ、ぜんぜん。その点ではあたしは人のことは言えませんよ。それよりも、憧れから本当に大犯罪者を追い詰めちゃうところがかっこいいなって思ってます。あたしは荒事は得意ですけど、推理や捜査はめっきりダメですからね」
「そうでもないさ。君にはだいぶ助けられた」
クロエは謙遜するが、殺戮オランウータンに関する捜査では彼女に助けられる部分は多かった。俺はホームズになれなかったが、彼女がいればその力は決してホームズに劣るものではないと思う。
「助けられた、って過去形で話すのはまだ早いですよ。相手は殺戮オランウータンですから。先輩一人なら、あっさり首をへし折られちゃいますよ」
「違いないな。その時は、クロエ、よろしく頼むよ」
「任せてください、先輩」
クロエがガッツポーズをとるのを見ながら、携帯灰皿に煙草を押しつけた。
「行こう、クロエ。この長かったモルグ街の事件。その決着をつけに」
殺戮オランウータンが鎮座していたのは、ポンテタワーの最上階の一室だった。
もともとぼろぼろのマンションだが、がれきの上に腰を下ろした老齢のオランウータンは、長い体毛も相まって賢者のような雰囲気がある。顔の周囲には大きく張り出したフランジは、ローマの真実の口を連想させた。
「会いたかったぜ、殺戮オランウータン」
いざ対面すると、声が震えた。あれだけ会いたかった相手なのに。夢に見るほどの相手なのに。
「インターポールか」
驚いたことに、殺戮オランウータンは人語を発した。それも、ネイティブといって差し支えない滑らかな英語だ。いや、それ自体は驚くことでもないか?
「よくここがわかったな。インターポール」
「死ぬ気で追いかけたからな、殺戮オランウータン」
殺戮オランウータンはふん、と鼻を鳴らした。少なくとも、そう見えた。
「殺戮オランウータンというのは、かつてバリで起きた事件の下手人であるオランウータンのことかね」
意外にもその声は落ち着きがあり、知的に響く。
「そうだとしたら、オランウータン違いだ。ぼくは犯人ではない」
「今更、何を……」
「思うに、殺人事件との関連が見て取れたオランウータンというだけで短絡的にぼくを追いかけていたのではないか」
殺戮オランウータンは毛皮からパイプを取り出し、器用にマッチをすって火をつけた。
「賭けてもいいが、かつてパリでの事件のDNAとぼくのDNAの比較検討はしていないと思うね」
ガツンと頭を殴られたように衝撃。だが、誰が高度な知性を持つオランウータンが複数いると予想できる?
殺戮オランウータンの言葉は図星だった。なにしろ、二百年近く前のDNAなど残っていない。だが、しかし、それでも、ここ数十年に起きた現場のDNAは確実に調査しており、このオランウータンが多くの凶悪犯罪に関わっていたことは間違いないはずだ。
「ぼくの名前はシャーロック・ホームズだよ」
「なに?」
パイプをくわえた老オランウータンは、倦んだような表情で言った。
「ワトスンの著書は今でも親しまれているだろう。あの中にでてきた名探偵、あれがぼくだと言っているんだ」
何を……言っている?
俺の憧れた名探偵が、この醜い大猿だというのか?
「ぼくの得意技は変装だから人間に化けるのはわけがないし、なによりワトスンは僕のことに対して敬意を持って接してくれた唯一の人間だからね。彼の著書からぼくがオランウータンであることを読み取るのは難しいかもしれない。だが、そうだな」
オランウータンは、いやに人間じみた仕草で顎に手をやった。
「そうだ。『まだらの紐』は読んだかい。あの時、ぼくは曲がった火かき棒を腕力で押し戻すシーンがあっただろう。あれはワトスンのミスだ。ぼくがオランウータンであることを覆い隠そうとするなら、ぼくの人間ならざる腕力は描いてはいけなかった。そのまま目の前のことを記してしまったんだ」
「嘘だ……そんな……」
あれほど憧れた名探偵が、オランウータン? その言葉は、強く心を打ちのめしていた。
「まだ信じて貰えないかな? では、シャーロック・ホームズには訃報記事がでていない、というのはどうかな。あれだけ内外に影響を与えた名探偵だというのに、訃報が新聞の片隅にすら載らないというのはいかさま無理がある話だろう。その答えは簡単で、ワトスンが死んでから、ぼくは街を後にして、オランウータンとして生きてきたからさ。人との接点が減れば訃報が出る機会などない」
立ち上がって、ホームズはふん、と鼻を鳴らした。
「これでも信じて貰えないのならば、あとはぼくの推理を披露するしかないな」
「やめろ! いい加減な嘘をつくな! おまえがシャーロック・ホームズだというのならば、どうしておまえの行く先々で事件が起きるんだ!」
「愚問だね」
オランウータンはやれやれと長い手を広げて呆れた、という仕草をとった。
「ここまで到達した以上、もう少し切れ者だと思っていたよ。顧問探偵が事件に立ち会うことになんの疑問がある。ぼくの行く先々に事件が起きるのではない。発生した事件をぼくが解決していたのだよ」
頭の中がぐるぐると回る。
仮に、万が一にも、ホームズを名乗るオランウータンの言っていることが正しいとしたら? 俺は的外れの……いや、違う。
殺戮オランウータンは、別に存在している?
だとしたら、それは誰が……。
「落ち着いてください、先輩」
背後に控えていたクロエが声をかけてきた。
「耳を貸すことはありません。この殺戮オランウータンを殺して、それで事件の幕を引きましょう」
クロエの静かな声が、すっと心の裡にしみこんでくる。そうだ、この自称シャーロック・ホームズの言葉にはなんの根拠もない。こいつはきっと、ただの言語を解するだけのあたまがおかしな大猿だ。
「先輩に一声かけて頂ければ、私が殺戮オランウータンを駆除します。それで全てが終わります」
「なるほど、うまい手だよ、殺戮オランウータン」
突然、ホームズが声を張り上げる。
「貴様、どこに雲隠れしたのかと思っていたら、クロエと名乗ってインターポールに取り入っていたとはな。全く大胆にして不適。恐ろしいまでの度胸よ」
「何?」
「まさかモルグ街の下手人がインターポールに所属しているとはとんだ笑い話じゃないか」
思わず、背後のクロエを振り返る。俺の相棒であるオランウータンは、何も答えずにじっとホームズと対峙している。
俺がインターポールの刑事としてオランウータンを連れているのにはもちろん理由がある。殺戮オランウータンは驚異的な身体能力と高い知能を持った強敵だ。仮に拳銃を持っていたとしても人間が勝てる相手ではない。仮にアサルトライフルで武装していたとして、殺戮オランウータンはやすやすと警察から逃げおおせるだろう。
立ち向かうには、警察もオランウータンで対抗するしかない。警察犬ならぬ警察オランウータン。実験的な導入の中で現れたクロエは人語を解するほどの高い知性を持ち、まさに人類の切り札だった。
だが、そんな彼女こそがモルグ街での下手人だとしたら……?
俺たちは、一体何をしていた? クロエはその猿面の下で、何を考えていたのか?
「君、そのクロエというオランウータンこそが君が追い求めた殺戮オランウータンだ」
「先輩。ご自身の推理を信じてください。そいつは、ただの気の狂った猩々です」
ホームズとクロエ、二頭のオランウータンが対峙する。
二頭のオランウータン。いったいどちらが、本物の殺戮オランウータンなのか?
モルグ街補遺 名探偵、刑事、そして殺戮オランウータン。 流布 @leph
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