殺戮オランウータン~猩猩兵士、其の誕生~

さすらいのヒモ

殺戮オランウータン~猩猩兵士、其の誕生~

 


 時は大正。

 新しきものが現れ、旧きものが掘り出され、互いが混じりに混じり合って溶け合っていく、激動の時代。

 しかし、激動の時代に取り残された人間もいる。

 例えば、この鼠谷なる若者がそうであった。


「……山? ……ここは、一体どこだ?」


 鼠谷なる男は東北の田舎から夢を抱いて花の帝都へと上京をし、そのまま帝都の闇へと消えていったどこにでもいる若者である。

 なにか商売をして富を築かんとしたが、しかし、実際はたちの悪い金貸しに捕まって、返せもしない借金を背負ってしまった哀れな男だ。


「そうだ……俺は、牛山のやつにボコボコにされて、くすりを呑まされて……チッ、ダメだ、それ以上思い出せねえ」


 鼠谷には考えていることが口に出る癖があり、今回も誰も居ないのにペラペラと舌が回り始めていた。

 みっともないからやめろと親兄弟からは言われていたが、一向に治ることのない悪癖であった。

 鼠谷が覚えている最後の記憶は、借金取りである牛山に殴り、蹴られ、薬を呑まされて昏睡をしてしまった記憶であった。

 睡眠薬なのであろう。

 気づけばこの、どこかもわからない山の中で転がっていたという始末である。


「いてて……こいつは、ムラタか」


 山の中で眠りこけていたために、体の節々が痛む。

 それでもと体を起こして、足元に転がっていた猟銃を拾う。

 十三年式村田銃と呼ばれる、単発式の猟銃であった。

 そして、さらに側には小包もあり、その中には五発の銃弾が転がっていた。

 懐かしい、と鼠谷は思った。


「……まさかまたこいつを握ることになるとはな」


 東北の田舎で、鼠谷はマタギであった。

 正確に言えば、その見習いであった。

 主にやる仕事は勢子、つまりは声や音を鳴らして獲物を追い詰める役割である。

 マタギとして大成をする前に、大家族である鼠谷家の食い扶持を減らすために花の帝都へと向かったという次第だ。

 そんな未熟なマタギ未満の鼠谷であるが、それでも、猟銃を握ってその引き金を絞る経験はある。

 何かわからぬが、これも縁。

 がちゃり、と猟銃を持ち上げて構える。


「ん? ……なんだ、俺、首輪がついてるのか?」


 体を動かすことで、自分の首に違和感があることに気づく。

 鏡がないためにはっきりとわからないが、つるつるとした触感の人差し指の第一関節ほどの幅のなにかが首に巻かれているようであった。

 恐らく、牛山の仕業であろうと鼠谷は決めつける。


「これは、紙か?」


 そして、また、自身のポケットに一枚の紙が入っていることに気づいた。

 その紙を広げると、短い文章が記されていた。

 曰く、『明後日までに山頂へと生きてたどり着くべし』。


「なんのことだ?」


 首をひねり、同時に空を見る。

 どうやら今は昼のようで、太陽は天高く登っている最中であった。

 何をすべきかもわからない、ひとまずと鼠谷は山頂を目指すことに決めた。

 これが自分で物事を決めることができぬ男が取る、選択をしているかのように見えた世の中のなにかに流されてゆくだけの行為であった。


「誰か居ねえかなぁ」


 一人は寂しい。

 鼠谷は、ふとそう思った。

 ある種、それは鼠谷の弱気な心が訴えかける最大の危険信号だった。

 ここに一人で居てはいけない、一人では助からない。

 理性でも本能でもない、人間が当たり前に備えている霊能的な何かの訴えであった。

 しかし、鼠谷はその訴えを確実にキャッチできるほどの能力を持っておらず、ただ歩くのみである。


 ────ここが、すでに狩場であることも知らずに。


「ガッ!?」


 ガツン、と。

 突如、鼠谷の頭蓋に激しい衝撃が走った。

 なにがなんだかわからぬまま、鼠谷は前へと倒れ込む。


「な、なんだ!? なんだ!?」


 鼠谷は激しく痛む後頭部を抑えながら転げ回る。

 どろり、と。

 暖かな液体が鼠谷の手のひらに付着をする。

 血液であった、それも鼠谷自身の。


「なぁ、あぁっ!?」


 鼠谷はわけがわからぬまま、しかし、一つだけ理解した。

 襲われている。

 鼠谷は猟銃を構える。

 痛みでうまく思考がまとまらないままだが、それでも猟銃を構えたのだ。


「い、石……!?」


 そして、足元に転がる無数の石片に気づいた。

 投石だ。

 鼠谷はどこからか投石攻撃を受けてしまったのだ。


「ふぅ……ふぅ……!」


 鼠谷は息を荒げる。

 急な斜面を背にして、前面にだけ集中する。

 投石を行ってきたということは、相手は人間だ。

 ならば、この七十度に近い、斜面というよりも崖側からの攻撃はないはずだ。

 いや、実際はそこからの落石も在り得るのだが、曖昧な頭脳ではなぜかその考えが浮かばなかった。

 姿を見えた瞬間、この猟銃をぶっ放してやる。

 鼠谷の頭にあるのはそれだけであった。


「おい、あんた!」


 その時、声が響いた。

 鼠谷は頭から血を流しながら、的確に声の方へと銃口を向ける。

 そこには大柄な男がいた。

 百九十センチに届くであろうほどの巨躯、胸板も厚い。

 しかし、こちらは銃だ。

 勝てる。

 鼠谷はその男が下手人であるとすらわからぬのに、引き金を絞った。


「うぉ!?」


 しかし、その銃弾は巨躯の男を貫くことはなかった。

 しくじった。

 絶望がよぎる、次弾を装填するまでの間、無防備になってしまう。

 そう言えば、父はこのような時にすでに片手に銃弾を持ったまま射撃をしていた。

 そんなことを考えながら、それでもポケットの中から銃弾を取り出す。

 だから、気づかなかった。

 自身の体が影に覆われていることに。

 崖とすら思える斜面を駆け下りてくる、一つの毛むくじゃらの獣のことに。


 ガツンッ、と。


「ガッ……」


 再び、頭蓋に激しい衝撃を受け、鼠谷は意識を失った。

 今度は、その意識が戻ることはなかった。



【チンピラ・鼠谷────死亡】



 ■



 寅川は、目の前の出来事が信じられなかった。

 寅川は漁師である。

 時には百キロを超える巨大な本マグロその太い腕で釣り上げる、力自慢である。

 そんな寅川だが、今は陸にいた。

 ひとえに、金のためである。

 寅川は独り身の四十代だ。

 結婚をすることはなかった、優れた漁師ではあるが気難しい男なのだ。

 そんな彼には何よりも大事にする妹夫婦とその子供たちがいた。

 その家族のために、金がいるのだ。

 なんてことはない、妹とその次女が病にかかったのだ。

 その治療のための金を欲していた。


『……これに参加すれば、金をもらえるのかい』

『そうだよ、茂造なら余裕だって』


 寅川が金に困っていることをどこから嗅ぎつけたのか、ヤクザに落ちぶれた幼馴染の卯月だった。

 怪しいと思った。

 危険だとも思った。

 しかし、金が欲しかった。

 悩みに悩んで、しかし、寅川は金を求めて卯月が持ちかけたその『登山』に参加することにした。


『なんてことはないよ、山頂の小屋にたどり着いて、そこにある札を持って下りてくればいいだけさ。

 札は一枚につき、千円くれてやるよ』


 登山の当日まで、その『儲け話』の内容は知らされなかった。

 だから、卯月の言葉を聞いた時に思わず呻いてしまった。

 当時の千円は現在での四百万円ほどの価値を持つ。

 喉から手が出るほどに欲しい金であった。


『ちなみに、札は十枚ほどあるからうまくいきゃ一万円になるぜ』

『いちま……!?』


 さすがの寅川も言葉を失った。

 逃げ出そうとすら思った。

 死んでは一銭も稼げないからだ。

 卯月にその旨を伝えると、逆に、卯月は嬉しそうに笑った。


『ちなみにちなみに、その首輪……つける時にちくっとしたろ?

 もう茂造の体には毒が回ってる。解毒剤が欲しけりゃ……わかるよな?』


 茂造は、逃げることも許されなかった。

 どうやら、参加者を推薦すれば卯月に金が入る仕組みになっているようだった。

 ハメられたのだ。

 恐らく、この登山は人死には当たり前に起こり得る、危険な登山なのだろう。

 己の愚かさを呪いながら、それでも僅かな望みを抱いて山へと登り始めた。

 数時間ほど、周囲を伺いながら歩いていた。

 そして、現在に至る。


「な、なんだ……あれは……!?」


 寅川は目にした。

 一人の小柄な若者が銃をこちらに向けて発砲をしてきた。

 頭から血を流した、目が狂乱していた若者だった。

 鼠谷である。

 この怪しい山を安全に踏破するために仲間を求めたがゆえに声をかけてしまったが失敗だった。

 ひとまず逃げなければと思っていた。

 しかし、実際に逃げるよりも早く、鼠谷は死んでしまった。

 殺されたのだ。


「おいっ、何なんだ、お前は!」


 寅川は苛立ったように、その殺人者へと叫んだ。

 妹と姪の病。

 卯月の策謀。

 若者の発砲。

 謎の殺人者。

 様々な理不尽が、寅川の精神を限界へと追い込んだのだ。


「……」


 しかし、その殺人者は何も喋らない。

 いいや、しゃべれないのだろう。

 なぜなら、その殺人者は。


「け、ケダモノじゃねえか……!」


 人ではなかったのだ。

 人でないものは、人語を操ることができない。

 当たり前の理屈である。

 毛むくじゃらの体毛に覆われた二足歩行の獣、能楽などで演じられる猩猩によく似た姿をしていた。

 体躯は百九十センチに届く寅川の半分ほどしかないのに、空恐ろしい威圧感を放っていた。

 猩猩は鼠谷の遺体を踏みつけながら、手に持った手のひら大の石で鼠谷の手を砕く。

 そして、その手に握られていた銃を奪わんとした。


「なにやってんだ、おめえ!」


 寅川からは、その姿に言いようのない嫌悪感に襲われた。

 あるいは、危機感と言っても良い。

 その姿が、どうしようもなく耐えられなかった。


「うおおおおお!!!!」


 寅川は猩猩へと殴りかかる。

 猩猩はビクリと震えて、その拳を避けた。

 そう、避けたのだ。

 接近戦になる。

 寅川はそのまま猩猩に掴みかかろうとして。


「離れろ!」


 どこかから、鋭い叫びが響いた。

 ほとんど反射的に飛び退いた。

 そして、寅川と猩猩の足元に一発の銃弾が打ち込まれた。

 パンッ、パンッ。

 続けて銃声が響く。


「……!」


 猩猩は銃を諦めて、立ち去っていく。

 早い。

 目にも留まらぬ早さで木々を飛び移り、気づけばその影すらも見えぬほど遠ざかってしまった。


「ちっ、仕留められなかったか……だが、銃は渡さなくて済んだ」


 代わりに現れたのは、陸軍の軍服と外套を纏い、目深に軍服を被った一人の青年であった。

 背は高く、細身に見えるがその実、筋肉がよくついている。

 こちらの背筋も伸ばすような、そんな奇妙な雰囲気を持つ青年軍人であった。

 そして、その首にもやはり首輪が巻かれていた。

 この青年軍人もまた、この『登山』に参加させられているようであった。


「私は陸軍第六特務機関所属、乾少尉である。貴殿の名は」

「……寅川」

「寅川……千葉の漁師であったか。確か、クジラを一人で釣り上げたとか」

「昔の話だ」

「そうか……おっと、ここでは危険だ。あちらの小屋で話そう」


 ついてこい、と。

 乾と名乗った、まだ年若く見えるというのに少尉という高い地位につく青年将校は寅川へと声をかける。

 人に命令することに慣れているようであった。

 その仕草に少し反感を抱いたが、しかし、今は異常な状況だ。

 なにか理由を知っているようだと思い、素直にその後をついていった。


「ここだ、入れ」


 すると、一つの山小屋があった。

 中に入るが、なにもない。

 本当に雨露を凌ぐだけといった様子であった。


「寅川もまたこの作戦に参加しているのだな」

「あんたもか?」

「私は違う」


 乾は周囲を警戒しながら戸を閉めると、単純なことを尋ねた。

 それに対して寅川も同じ質問を返すと、しかし、乾は否定をした。


「この作戦のことについてなんと聞いている?」

「作戦かどうかは知らん。ただ、山頂にある札を持って帰ってくれば金を出す、とだけ」

「……なにも伝えていないのか!」


 乾少尉は怒りのままに床を叩いた。

 そして、寅川を見つめる。


「これは陸軍の軍事作戦であり、その最終訓練である」

「作戦なのかよ、訓練なのかよ」

「ある兵士を鍛えることが作戦であり、それの最終段階として訓練を課されているという意味だ。

 ……いや。正確に言えば、実験だな」


 乾は息を吸い、語り始める。

 これは陸軍の狂気の『実験』であり、その参加者としてお前は集められたのだ、と。

 そして、その経緯もまた説明をしてくれた。


「時代は移り変わる、歩兵の必要性は変わらずとも重要性は低くなる。

 そこに優れた知能を持つ兵隊の投入ではなく、それに置き換わるものを用意して、精鋭を別作戦へと振り分けていく。

 かの二○三高地の愚策ゆえの悲劇を再現してはならぬ。

 そのために創られた小隊が我ら大日本帝国陸軍特務機関であり、私はその副官を勤めていた乾。階級は少尉である」


 青年将校の乾は語る。

 これは実験である、と。

 亜細亜のとある地方より手に入れた猩々の如きケダモノ、英名ではオランウータンと呼ばれる猿を調教して歩兵へと鍛えるための実験なのだ、と。

 馬鹿げていた。


「なるほどな」


 だが、同時に寅川は納得した。

 寅川は海で獲物を狩る漁師だ、山で獲物を狩る猟師ではないために猿について詳しくは知らぬ。

 しかし、それでも獲物であるはずの魚は、時に人よりも深遠なる知恵を見せることがある。

 我々人間が畜生と蔑む獣であっても、しかし、思いもよらぬ知恵を持っている。

 中でも人に近しい猿の種とあれば、単純な歩兵のマネごとは可能なのだろう。


「投石でも出来れば上々といったところだった。

 さらに、獣は人よりも心の臓が強く、単純な思考をしている。

 銃弾で脳を打ち破られても心臓が動く限りは単純な動作を繰り返す。

 爆弾でも持たせて突進させればそれだけで十分。

 捨て駒の作成のための作戦であった」


 本気で言っているのか、と寅川は思った。

 しかし、乾少尉の目は本気であった。

 かの青年将校は日本人は特殊な人種であると本気で思っており、その尊い命が失われぬようになにかを作るべきだと、それもまた本気で思っているようであった。


「しかし、猩々兵士は……市之進は想像を超えた進化を見せた」

「市之進?」

「実験体である猩々兵士の名前である。単体での運用ではなく隊での運用を求める以上、個体名は必要だと進言して私が名付けた。

 話を続けよう。

 市之進は……銃を扱えるのだ」

「馬鹿な!」


 思わず、叫んでしまった。

 猿が銃を扱う、信じられぬ話だ。

 賢いとは言っても道具を扱うことは人間だけに許された特権だ。


「市之進は人ではない、人ではない以上は人の仲間にならぬ。

 敵に銃火器を与えることは危険だ、処分すべきだと私はこの作戦の責任者である猿渡大尉殿に進言をした。

 だが、猿渡大尉殿は銃を扱えることを喜んだ。

 より強い兵士が誕生することを望んでいたのだ。

 猿渡大尉殿は日露戦争の英雄で……同時に、あの惨劇を体験した御方だった。

 人ではない兵士を求めていたのだ。

 それでも、私はそれに強く反対をした」


 そのザマがこれだ、と乾少尉は首輪をとんとんと叩いて自虐げに笑った。

 つまり、切り捨てられたのであろう。

 この青年将校もまた、生き残るためには猩々兵士を振り切って山頂の小屋を目指すほかないのだ。


「私が生き残っても賞金は出ぬだろう。

 しかし、私は生き残ってなお反対を唱え続けなければならない。

 猩々兵士は危険である、人ならざるモノが人の敵となり得る可能性は排除せねばならぬ。

 それが長い歴史を経て、他種族をケダモノへと貶めて、我らを霊長へと上り詰めさせた父祖たちの努力を汚すこととなるのだから」

「難儀なことだな」

「難儀なことだ。しかし、やらねばならぬ。人の尊厳のためだ」


 乾は真面目な顔で頷いた。

 寅川に必要なものは金であるが、乾はそうではないようであった。

 大真面目に猩猩が人間の驚異になると信じ切っていた。


「今は銃を持っておらぬはずだ。殺すならば今がチャンスだ」

「そうだな、頼んだぞ」


 寅川は猩猩を乾に任せることにした。

 自分はさっさと山頂にたどり着いて札を取り、それを持ってかえるだけだ。


「……む、待て。ひょっとして、俺やあの若い男以外にも参加しているやつがいるのか?」

「うむ。参加者の名簿には目を通していた。

 あくまでその段階では恐らく参加するだろうという程度の名簿だが、全部で十人ほどはいるのではないか?」

「まずいな、敵は猩猩だけじゃないのか」


 頭を抱えてしまう。

 猩猩を倒しても、参加者同士で殺し合いに発展する可能性もあるということだ。

 なにせ、一万円だ。

 人を殺すには十分すぎる金だ。

 人間は追い詰められればなんでもすることぐらい、寅川はよく知っている。


「まあ、いい。俺はさっさと山頂を目指す。面倒なことは、後から考え─────」


 その時であった。

 ガシャン、と。

 窓を壊して、一つの物体が投げ込まれてきた。


「なんだっ!? って、な、生首!?」

「来るぞっ!」


 それは、先程死んだ鼠谷の生首であった。

 無残なものであった。

 岩を使って首を潰したのか、それともまた別の方法か。

 どんなふうにねじ切ったのかさっぱりわからぬが、生首としか認識できずに鼠谷とは認識できぬほどであった。


「小屋をでろっ!」

「おお、うおぉ!?」


 乾の声が響くが、それよりも早く猩猩が小屋の中へと入ってきた。

 猩猩はまず寅川へと襲いかかる。


「なっ、くぅ、い、いかん!」


 銃を向けるが、この狭所では猩猩に銃撃すれば寅川へも当たってしまう。

 乾は代わりに軍刀を手に掛ける。


「うおおぉぉぉぉぉ!!!!」


 一方で寅川は腹を据えた。

 寅川もまた地元の漁村では怪力無双で名の通った超人。

 猿の一匹や二匹、縊り殺してやる。

 ガッ、と。

 その毛深い肩に手をかけ、猩猩もまた寅川の肩に手をかけた。

 柔道で言うケンカ四つの体勢である。

 このまま、投げ殺してみせると寅川は意気込んだ。


「あっ……?」


 だが、ゴキリ、と。

 凄まじい音が響いた。

 そして、激痛が走る。

 肩が砕けたのだ。


「なっ、あぁ……!」


 オランウータンの握力は人間の数倍。

 さらにこの猩猩兵士は特殊性、普通のオランウータンよりも強靭な肉体を持っている。

 いかに太い寅川の骨といえども簡単にへし折ってしまったのだ。

 ぶらん、と。

 虎川の右手から力が抜ける。


「────ひぐぅ」


 虚をつかれていた寅川の体が、宙に浮く。

 オランウータンの膂力もまた、人間の数倍。

 百九十センチで百キロを超える巨漢の漁師の体が、まるで赤ん坊のように宙を舞う。

 そして、頭から床に叩きつけられる。

 その百キロを超える体重がそのまま頭蓋に押し付けられ、寅川はたやすく絶命した。




【漁師・寅川────死亡】



 ■



 猩猩が寅川を殺している隙に、乾は小屋を転がり出る。

 そして、銃を構える。

 ここで殺す。

 猩猩兵士は存在してはいけない。

 銃とは人間の英知であり、それは人間のためのものだ。

 間違っても異なる種が人に向けることがあってはならない。


「……出てこない?」


 しかし、小屋から猩猩が出てくる様子はない。

 じわり、じわり、と。

 乾は小屋へと近づいていく。

 瞬間、横から激しい衝撃が襲いかかった。


「ぐぅう!?」


 猩猩である。

 木々の隙間から乾へと飛びかかってきたのだ。

 おかしい。

 小屋に入り口は一つしかない。


「そう、かっ……! 窓かっ!」


 人が通るには小さな窓ではあるが、オランウータンの体長は一メートルほど。

 無理をすれば通ることが出来る。

 猩猩に抑えつけられる乾。

 猩猩の腕が振りかぶる姿が見える。

 もはやこれまでか。

 そう、観念した時。


「ぐぎゃぁっ!」


 猩猩の情けない叫び声が響いた。

 そして、乾の頭にべったりと生暖かい液体が降り掛かった。

 なにが起こった。


「しぃぃっ!」


 乾でも猩猩でもない声が響く。

 猩猩の体が、乾の上から外れる。

 そして、ポタポタと液体を落としながらどこかへと立ち去っていった。


「うぅん、のがしたか」

「……な、なにが」


 ゆっくりと、体を落とす。

 そこには、一人の老人が居た。

 赤く濡れた日本刀を紙で拭っている、一人の老人が。


「ご無事かい、兵隊さん」

「……あなたは、猪原か?」


 その老人に心当たりがあった。

 天才剣士と呼ばれ、現代の大剣豪と謳われる達人であった。

 しわくちゃの顔を、よりしわくちゃに歪めて、猪原老人は笑った。


「おうおう、その猪原さんよ。

 ほれ、立てるかな」


 乾は立ち上がりながら、周囲を見渡す。

 そこには、手が落ちていた。

 猩猩の左手だ。


「斬り落としたのか!」

「手だけな……まっ、仇討ちには不十分だが許してくれってところだな」

「仇……?」

「色々と殺されちまったからなぁ……オイラと一緒に着てた、この登山遊戯の参加者」


 猩猩の左手を斬り落とした男、猪原は語る。

 これまでにも仲間と出会った、と。

 それぞれが特徴的な男たちだった、と。


『俺は龍宮。秋田でマタギをしていた、ヒグマを一人で何匹も仕留めた。

 ここに来れば面白い獲物と死闘できると聞いてやってきた』


 龍宮。

 東北では伝説的なマタギである。

 その毛皮の上着は死闘の末に勝利したヒグマの毛で作られたものである。


『蛇原じゃ、オヤジの命でここにきた。

 親子盃交わした以上……逆らえん、金だけ取って死んでこい言われた』


 蛇原。

 不死身の蛇原と言われる全身に火傷を負った男。

 銃弾を七発腹部に打ち込まれても、ドスを持って敵対組織を皆殺しにした逸話を持つ。


『私は馬越です、柔道をやっていまして……その、人を殺して逃げている最中です。

 匿うからこれに参加しろ、と言われまして』


 馬越。

 野試合で人を投げ殺して警察に追われているところをヤクザに拾われた。

 身重は百八十に届かないが体重は百キロを軽く超える柔道の天才。


『羊山、日露戦争帰り。やることもなくて生きてたら、気づいたらここに居た』


 羊山。

 旅順攻囲戦、俗に言うニ○三高地に参加して生き残った。

 そこで人の死に触れすぎて精神を病んでおり、記憶能力が曖昧となっている。


「みんな死んだわ」


 カカッ、と。

 猪原翁は笑いながら言った。



【マタギ・龍宮────死亡】

【ヤクザ・蛇原────死亡】

【柔道家・馬越────死亡】

【元軍人・羊山────死亡】



 乾少尉は呆然とした。

 この青年将校でもいくつか知った名があったからである。

 それが、ただ一匹の猩猩に殺戮されてしまったのだ。


「さすがに樹の上を動き回れて石を投げつけられたら、敵わんな。

 いや、それだけで負けるとは情けないことだがな。

 なんとも、やっこさんは頭が良い」


 ポリポリ、と。

 猪原は頭をかきながらまいったまいったと笑う。

 手には一本の日本刀。

 猪原は剣士であった。

 人は斬ったし斬り方もわかったから、次は妖怪を斬りたいと友人の鳥越にポツリと漏らしたら、この『登山』に招待された。

 ちなみに、友人の鳥越もまたこの『登山』に参加したが、すでに猩猩に殺された。


【空手家・鳥越────死亡】


「しかし、手は斬り落とした。次第に出血で死ぬ。儂の勝ちじゃな」

「いや、やつは死なん」


 乾は否定した。

 負傷した猩猩兵士は回収されるはずだ。

 兵士としての価値は失ったが、実験経過のサンプルとしての価値はある。

 特務兵団によって治療をされるはずだ。

 ひょっとすると、今この瞬間に治療を行われて、そのまま戻ってくるかもしれない。


「殺さねばならぬ。息の根が止まる瞬間を、この目で見ねばならぬ」

「難しいのぉ」


 猪原はひげを撫でる。

 猪原は人殺しには長けているが、索敵に対してはめっぽう素人だ。

 殺意には敏感なため奇襲には備えられるが、逃げる相手を追う術は身につけていない。

 血をたどれば良いと簡単に言っても、この山道ではそう簡単に追えるものではない。


「これで終わりと実験を打ち切られて回収される方が早いんじゃないのかの?

 なんせ、向こうは────おほっ!」


 だが、その言葉を言い終わる前に、猪原は笑みを深めた。

 殺気だ。

 自分を殺さんと、活きの良い殺気が向けられている。

 猪原は瞬時に刀を翻す。

 狙うは、胴。

 真っ二つにしてくれる、と老剣士は暴虐の笑みを浮かべたのだ。


「おっ、おおっ?」


 だが、その刃は止まった。

 なにかに、絡め取られた。

 毛だ。

 いや、毛だけではない。

 無数の固い蔦が猩猩の体に巻き取られて、それは無残に切り捨てられたが、しかし、同時に猩猩の分厚い筋肉で止まってしまったのだ。


「むっ、むぅ!」


 そして、同時に毛むくじゃらの体毛に絡め取られた。

 刀が抜けない。

 一瞬だけ戸惑い、しかし、猪原はその手を離す。

 だが、それでは遅すぎた。


「ぎぃぷぅ!?」


 重ねてになるが、猩猩の握力は人間の数倍。

 首を片手で掴まれて、力を入れるだけで老人の軟らかな骨は砕けた。

 即死であった。



【剣士・猪原────死亡】




 ■



 猪原が殺された。

 あれほどの剣士が、ただの畜生に殺された。

 人が長い歴史を持って磨き上げた剣術において達人とまで称された男が、人語も操れぬケダモノの腕力で殺されてしまった。

 それはなんとも虚しい、誇りを凌辱されてしまったような想いを抱いてしまう出来事であった。

 だが、これは好機であった。


「獣のまま殺さなければならぬ! 人類の敵が存在し得る可能性を、一瞬でも許してはならぬ!」


 乾はそのまま猩猩に詰め寄る。

 至近距離で、銃弾を放った。


「っぐぎゃぁ!」


 猩猩の叫びが響く。

 だが、獣はそれだけでは終わらない。

 獣は、窮地においては泣いて許しを請うことをしない。

 猩猩は逃げることを諦めた。

 生きることを諦めた。

 だが、殺すことを決めた。

 固く握りしめた猩猩の、残った右拳が、乾少尉の脇腹に突き刺さる。


「がぁっ!?」


 肋骨が折れた。

 一本や二本では効かぬ数だ。

 それでも、重い体を動かして引き金を絞る。

 猩猩の眼球を抉り、脳に届く。

 破損した脳はやがて機能を失う。

 そう、やがて、だ。


「おぉぉぉぉお!!!」


 猩猩の拳が、再び乾少尉の脇腹に刺さる。

 いや、一度や二度ではない。

 何度も何度も、まるでそれしか出来ないように。

 そう仕組まれた機械じかけの人形のように。

 しかし、それもやがては終わる。


「ぐ、ぎぃ……」


 ばたん、と。

 猩猩の体が倒れる。

 乾もまた、倒れる。

 そして、その憎き人類の敵を、同時に故郷から無理矢理にこの日本に連れてこられた哀れな殺戮者の顔を見た。


「なっ………なんだ、これは!!!」


 だが、そこにあったものは乾にとって予期せぬものであった。

 信じられない。

 何が起こっているのか、わからない。


「その段階ではないはずだ……な、なにが……!」


 乾は、驚いた。

 その猩猩の顔には、目の下に小さな傷があった。

 乾がつけた銃弾の傷ではない、特徴的な古傷だ。

 あるべきではないものであった。



 ────それは、完成形としてこの実験に投入されるはずの市之進の顔にはないはずのものだった。



「じ、治郎!!!」


 そう、猩猩兵士は十数匹存在する。

 それをこの山で育てていたのだ。

 そして、目の前にいるのはまだ未熟な猩猩兵士として今回の最終訓練には投入されないはずの猩猩であった。

 なにか、乾の知らぬことが起こっている。

 カタ、カタ、と。

 その時、背後から足音が響いた。

 衣擦れも聞こえる。

 外套の衣擦れだ。


「さ、猿渡大尉殿か……!?」


 ゆっくりと、乾は振り返る。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。


「そ、ば、ばかな……」


 乾は呻く。

 銃が構えられる。

 銃口が、乾をあざ笑うかのように向けられていた。


「い、市之、進……」


 にちゃぁ、と。

 その日露戦争での活躍を示した腕章と、乾いた血がついた軍服を身にまとった猩猩は、その引き金を絞った。

 パン、と。

 乾いた音が響いた。

 ききぃ、と。

 無数の鳴き声が響いた。

 かけ離れた音ではあるが、本質は同じ音であった。

 殺戮の音であった。


【青年将校・乾少尉────死亡】

【特務機関代表・猿渡大尉────死亡】

【市之進一兵卒及び猩猩兵士、殺戮オランウータン────生存】

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殺戮オランウータン~猩猩兵士、其の誕生~ さすらいのヒモ @sasurainohimo

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