第16話 手紙
「酷い有様だね」
ゆかが去ってから、どれくらい経ったのかはわからない。
ただ、外は明るかったのに。
もう、部屋の中は暗かった。
「なんでこう、うまくいかないんだろうね」
視界が、さらに暗くなる。
顔全体に押しつけられる奈々の胸。
頭を優しく抱かれ、俺の髪の毛に奈々が擦り寄る。
「よくがんばったね。アンタは偉いよ。だって、挑戦することを諦めなかったんだから。よく十一年も続けられたね。尊敬するよ」
奈々の胸に埋もれながら、奈々に抱かれながら、俺は声を上げて泣いた。
もう涙は出ないと思ってたのに。
惨めったらしく声を上げて泣く俺を、奈々は抱きしめて、優しく声をかけてくれた。
ゆかの右手首に、痛ましく残された傷跡をみて、俺は己の惨めさを突きつけられた気がした。
ゆかはもう、以前のように小説を書けない。
あの素晴らしい才能が、死んだ。
ゆかがこれから作り出そうとしていた世界が、死んだのだ。
それなのに、なんの負傷もしていない俺が、小説を書くことを諦めた。
ゆかは、まだ諦めていないと言ったのに。
「どんなアンタでも、私は受け入れるよ。いいじゃん、勝敗なんてさ。これからどうするかが大事だと思うよ。私がサポートしてあげるから。
——いつも、そうだったでしょ? 私とアンタは、いつだってペアだった。アンタにできないことは、いつも私がやってきた。
変わらないよ、あの頃から。何も。私たちは、変わらない」
優しい声音。
奈々の腰に手を回して、近くに引き寄せた。
顔を上げると、奈々の唇が俺の口に吸い付いた。
これで、いい。
これで、よかったんだ。
もっと、早くこうしていれば。
このキスも、こんなにも苦くなかったのに。
ゆかとの、キスを思い出さなくて済んだのに。
*
「いらっしゃいませー……って、おまえかよ」
「案外、似合ってんじゃん。ちょーウケる。同期に写メおくろーっと」
「おいばか、やめろってからかいに来るだろ絶対!?」
ゆかと決別してから、一ヶ月が経った。
すぐに俺は近くのコンビニでバイトを始め、きょうは初めての夕方勤務。
学生が一人、熱で倒れたようなので俺が代わりに出たのだ。
仕事終わりでスーツ姿の奈々が、初めてみる俺の制服姿に堪えきれず、腹を抱えて写真を連写していた。
相変わらず、性格の悪い女だった。
それでもこの一ヶ月、奈々はまいにち俺の家に寄ってくれていた。
「オススメはなんですかぁ?」
「居酒屋じゃねえんだぞ、ここ」
「とりあえず141番ちょーだい」
「店員に敬語使えない奴はモテないぞ」
「店員が客に文句言ってんじゃないわよ」
ごもっともで。
「今日は何時までだっけ?」
「そんなに遅くないぞ。十時までだし」
「あと四時間、私はどこで何をしてればいいの?」
「帰って風呂でも入ってろよ。あと飯も」
「ええー、一人で?」
「子どもかよ」
「女の子よ」
よくわからない返しだった。
そのあと、奈々は適当に弁当を買っていき、帰ると思いきやイートインスペースで食事を始めた。
「すみませーん、生お願いしまーす」
「だからここ居酒屋じゃないんですよね」
それからずっと、奈々は家に帰ることなくイートインスペースに居座り続けた。
缶ビールを十缶も開け、スマホをいじりながらたまに俺の接客を見てニヤついて。
相当暇な奴だった。
一緒に入っていたバイトの子は、奈々に興味津々だったようだが。
「——あの学生、ずっと私のこと見てたけど……もしかして気が合うのかしら?」
「いや、相手女の子だぞ……?」
「ほら、そういう趣味なのかもしれないし。私は全然イケるわよ」
「イケたとしても、犯罪だからな」
バイトが終わり、奈々と帰路に着く。
バイト先のコンビニは、俺の家から歩いて五分のところにある。
その短い時間を、酔っ払った奈々に腕を抱かれながら歩く。
一キロ向こうで、並木道が見えた。
「——………」
「奏音。酷い顔してるわよ」
ベッドの上で、俺を抱いた奈々がそういった。
帰り道に見えたあの並木道が、頭から離れなかった。
主婦のおばさんたちに囲まれて、忙しい昼間のシフトをこなす日々。
忙しければ忙しいほど、何も考えずに済む。
小説や、あの笑顔や、泣き顔を、思い出さずに済む。
シフトの時間ももっと増やしてほしいと店長に頼み、朝七時から奈々の仕事が終わる時間まで働かせてもらう。
夜は、奈々と過ごした。
学生の頃に戻ったように。
そんな生活にも慣れてきた時だった。
「——じゃ、今夜のディナー楽しみにしてるから。現地集合でよろしく」
「おう。いってらっしゃい」
「忘れるんじゃないわよ?」
「忘れるわけないだろ。俺の初給料なんだし」
「それもそっか。んじゃ、行ってきます」
バイトが休みの朝。
仕事に向かった奈々を見送ったあと、郵便受けから何かが落ちる音が聞こえて玄関に向かった。
「……手紙?」
こんなご時世に、手紙?
差出人を見て、息が詰まった。
相手は、ゆかだった。
『お久しぶりです。ゆかです。まだ、おぼえていてくれてますか?』
そんな言葉を冒頭に、その手紙は綴られていた。
丸みを帯びた丁寧な文字。
いつも使っていたお嬢様のような口調ではなく、素の、
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