第15話 大好き

「——お嬢様。何かありましたら、すぐにご連絡を」



夜之奏音よるのかのんが住むマンション前で、黒塗りの高級車から降りたゆかへ、飛鳥が声をかけた。



「問題ありませんわ」


「………」



飛鳥に視線すら投げず、ただマンションの上階を見上げるゆか。

ギプスも外れ、長いリハビリを終えたゆかは松葉杖を必要とせずとも歩けるようになっていた。

見た目だけなら、健常者のそれとなんら変わらない。


ただ、彼女にとって生き甲斐ともいえた執筆を、普段通りにこなせないだけで。



「こんなの、カノンさんの痛みに比べれば……」



エレベーターに乗り込み、奏音の住む十階へ——けれど、押し慣れたはずのボタンを、押すのをためらった。


もしかしたら、彼は会いたがらないかもしれない。

この一ヶ月間、何度メッセージを送っても返信は帰ってこなかった。


心待ちにしていた小説も、更新されていない。



「ゆかが、悪いのです」



焚き付けたのは、ゆかだ——舞い上がらせて、期待させて、希望を見させた。


そう簡単にいくはずないとは、わかっていた。

小手先のテクニックでどうにかなるほど甘い世界ではない。

そんなの、わかりきってたことなのに。


しかし、大好きな人の作品を、夢を、今にも消えかけていた灯火を、ゆか自身が消してしまわないようにするのが精一杯で。


少し、考えればわかる結末だったのに。



「ですが、カノンさんにはゆかしかいないから」



甘い自惚れだと思う。

いや、それでいい。


傷心中の彼を慰めるのも、女の務めと心得ているから。

結果、堕落しようとも構わない。


愛する彼が、己だけを見ていてくれるなら。



「すぅ……っ」



大きく息を吸って、ゆかはボタンを押した。


首元にぶら下がった合鍵を握る。

照れながら渡されたその鍵を、ゆかは宝物として扱っていた。

本当は自室に飾っておきたかったが、これがないと奏音の部屋には入れない。


だからネックレス状にして、肌身離さず持っていた。

その自身の命よりも大事な合鍵を、鍵穴に差し込む。



「………?」



部屋の様相は、想像していたものとはだいぶ異なった。

開かれたカーテン。

綺麗に片付けられた部屋。食器。

ゴミも溜まっている様子はなく、異臭もしない。


あの頃とおなじ……ゆかと奏音が過ごしたあの頃と、おなじ空気が漂っていた。



「よかったですわ……もしものことを考えていましたが……」



ほっと胸を撫で下ろし、奏音の自室へ目を向ける。

閉められたドア。


あの向こうに、彼はいる。


ということは、まだ小説を書くことを、諦めていない。


奏音は言っていた。

自室に篭るときは、小説を書くか寝ている時だけだって。


現時刻十三時四十分。

起きている確率の方が高かった。



よかった。よかった。本当に、よかった。まだ、諦めないでいてくれた。



高鳴る胸を押さえて、もう一度深呼吸。

一旦洗面所で前髪の位置を整え、おかしなところがないかを念入りにチェックする。



「……よし」



きょうもゆかはかわいい。お母様に似て、かわいらしい。

そう言い聞かせて、ゆかは、約二ヶ月ぶりにそのドアをノックした。



「うえ——!?」



驚いたような声。

その声を聞いて、居ても立っても居られなかったゆかは、返事を聞く前にドアを開けた。



「カノンさん、ゆかですよ——っ!」


「ゆ、ゆか……!?」



カノンは、椅子に座っていた。

窓が開かれ、清涼な空気が部屋を満たしている。



「逢いとうございました……ゆか、カノンさんに——……そ、れは?」



勢い余って奏音の元へ駆けたゆかは、それを目にした。

驚愕に目を剥く奏音の手。


アルバイト情報誌と書かれたそれが、奏音の手にあった。



「ひ、久しぶり……だな。悪かった……その、お見舞いに行ってやれなくて」


「いえ……それは、いいのです。カノンさん……お手にお持ちになられているのは……」


「あ? あ、ああ……踏ん切りもついたし、そろそろバイトを始めようかなって」


「それは……それは、もちろん……生活費をお稼ぎになるためで……小説は」



小説は、もちろんお書きになられるのですよね?


一抹の不安と、期待と。

しかし、困ったように笑う奏音の目を見て、予想は的中してしまった。



「小説はもう、書かない」


「———どう、して」



声が震えた。



「どうして、そんな……」


「もう辞めたんだ。これからはまっとうに働くよ。みんなとおなじように」



みんなと、おなじように。

まっとうに、働く。



ゆかは、知っている。



奏音は、多数決を好まない。

つまり、人とは違う生き方を選んできた人間だ。


それは本棚を見れば一目瞭然だった。

ラノベの数よりも自己啓発本の方が多い。



習慣化、モチベーション、思考法、効率、マインドフルネス——



何も考えず、日々を惰性で過ごしている人間にはなりたくはないと。

他人とおなじ行動をしていては成功を掴めないのだと。



一種の反骨精神……それらの表れではないのか?



そんな彼が今、その有象無象とおなじになると発言した。

そんなの、ゆかの知っている奏音ではない。


あごに、雫が伝う。



「嘘、ですよね……っ」


「嘘じゃないよ」


「嘘です。嘘ですわだって、奏音さんが小説を捨て切れるなんて……そんなことあるはずありませんわっ!」


「嘘じゃない。もう捨てたんだ」


「———」



後退る。

奏音の机の上に、あるはずの物がない。

パソコンが。

プロットを印刷した紙が。

執筆する上で参考にしていた本が。



机の上にあったはずのそれらが、どこにも見当たらなかった。



後退る。

顔から、血の気が引いていく。



「ゆかは……諦めて、欲しくない……」


「………」


「ゆかは、カノンさんの小説が、大好きで……」


「……ゆか」


「カノンさんの言葉が好きで、書籍化をお目指しになられるお姿勢に尊敬していて」


「ゆか」


「カノンさんの小説が、ゆかは大好きなのに——」


「ごめんな」


「———」


「俺はもう、書かないし読まないし、それらを思い出すようなこともしたくない」



だから?



「だから」



やめて。

言わないで。

それ以上、言ってしまったら。



もう——



「ゆかとは、会えないよ」


「———ぁ」







それから、たぶん。

よく覚えていないけれど。



ゆかは、たくさん酷いことをカノンさんに言った。



涙で視界を濡らしながら、カノンさんに掴みかかって、揺さぶって、たくさん酷いことを言っていた。


お淑やかな女性像。男性が好きそうな、ラノベの中のお嬢様像を壊して、醜く言葉を発した。


あえて怒らせるようなことも言ったと思う。


言葉を選んで、胸が痛むままに、自分の発した言葉で自分を殺せるように、カノンさんを罵倒した。


カノンさんは、当然、そんなゆかの言葉に怒って、初めて口論になった。



「———」


「———」



気がつくと、涙を流したカノンさんに押し倒されていた。

両腕を地面に押し付けられて、硬いフローリングの冷たさで冷静になる。


カノンさんは、ゆかにまたがって泣いていた。


落ちてくる涙が、ゆかの頬を流れていく。



「——そういえば、おまえ……こうやって無理やり押し倒されるの好きだったよな」



自嘲気味に言って。

あれだけ逃げていたゆかの唇へ、カノンさんが近づいてくる。



怖かった。

小説の中では、好きで、若干の憧れがあったシチュエーション。



それなのに、どうして体の震えが止まらないの。



「俺に抱かれたかったんだろ。抱いてやるから、もう二度と俺の前に現れんなよ。小兎姫ことひめ


「———」



脳を、ハンマーで殴られたかのような衝撃に襲われた。


止まっていた涙が、また溢れてくる。


もう会えないの?

会っちゃ、いけないの?

もう、ゆかって呼んでくれないの?


そんなの、やだ。

そんなの、やだよ。


あなたに会えないのなら、抱かれたくなんて——




「……いいですよ。あなたがそうしたいのなら、ゆかをどうぞお使いください」




嫌がる体を押さえつけて、精一杯の強がりを言った。


抱かれれば、もう二度とカノンさんはゆかに会ってくれない。

抱かれなくとも、多分……これまでのような関係には、なれないから。



それならば、互いに傷を負えばいい。



一生忘れらないように。

触れられなくとも、胸を抉る痛みに苛まれればいい。


そうやって、今後の人生を消化する。

もう、彼以外の運命なんて、ないから。



ゆかの右腕を押し付けていた手が離れ、乱暴に胸元をつかんで——


瞬間、カノンさんの動きが固まった。

視線は、ゆかの右上。

ちょうど、ゆかの右手があるところだった。



「……っ」



カーディガンで隠していた傷跡を、見られてしまったようだ。

後遺症を如実に意識させてしまう、一本の線。

この傷はもう、二度と癒えないと言われた。


見様によっては、リストカットにも見えるその傷をみて、カノンさんは不快がるわけでもなく、ただただ、申し訳なさそうに顔を歪めた。



「……ごめん。帰ってくれないか」


「………」



ゆかの上から退いて、ゆかに背を向けるカノンさん。

その背中に指を伸ばしかけて、やめた。


これ以上、ここにいれば。

これ以上、彼のそばにいれば。


ゆかという存在が、彼を傷つけてしまうから。



「お世話に……なりました」



最後にそれだけを告げて、ゆかの私物をまとめてマンションを出る。



「……お嬢様……」



彼のマンションが、遠くなっていく姿を車の窓から見つめて——。


ゆかの初恋が終わったのだと、知った。



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