第10話 取材旅行4/4
「遅いです」
「すまぬ」
ペットボトルふたつを両手に部屋へ戻ってきた俺は、布団の上で待機していたゆかに睨まれる。
凄みもなにもない、そのかわいらしい
「……天然水、ですか?」
「文句ある?」
「……べつに、ありませんけど」
なんで、拗ねてるのだろうか。
遅かったとはいえ、十五分ほどしか待たせてないと思うけど。
「ここにお座りになって、カノンさん」
「いや、ソファの座り心地を気に入っちゃって――」
「お座りになって」
「……わかったから、離れなさい」
ソファへ向かおうとする俺の下半身に抱きつくゆか。
後ろからならよかったけど、正面はまずいです。
渋々布団の上に座る。
抱きついたのが恥ずかしかったのか、ゆかは顔を赤くしたまま女の子座りをして、潤んだ目で俺を睨む。
「なんで睨まれてるんだろう、俺」
「雌の匂いがします」
「雌って」
匂いって。
「そんな匂い……しないけど?」
「正直に申してくらさい」
「ん? いま、なんて?」
「だぁかぁらぁ、正直に申してくらさいっ!」
「……おまえ」
呂律が回っていない。
よくよく見ると、はだけた胸元も赤くなっていた。
それは照れや恥ずかしさから来る赤ではない。
まさかと、テーブルの方へ視線を向けた。
従業員さんに下げられたはずの瓶ビールが、隠されるようにテーブルの下で転がっていた。
しかも、転がっていることから分かる通り、一本まるまるなくなっている。
「どちらをご覧になられてるんですかぁ。こっちでしょ、カノンしゃん」
「うぐ」
熱い手のひらが、俺の顔を無理やり正面へと引き戻した。
顔を赤くしたゆかが、近い距離をさらに詰めていた。
両膝をついて、俺とほぼおなじ視線になったゆか。
若干酒くさい。
けれど、なんだろう。
シャンプーだろうか。ゆかから柑橘系の香りが漂ってくる。
「酒、飲んだのか」
「カノンさんが女と遊んでりゅから」
「女っていってもな……」
あなたのお母様ですよ。
ていうか、なんで知ってるんだよ。
「お母様からお電話がきましたの。カノンさんが女と親しくなされてるって」
なんて母親だ。
お茶目な要素のカケラもなさそうな人だったのに。
なんてことをしてくれているのだろうか、あの人。
「だ、だからって酒を飲む必要はないだろ……?」
「ありましゅ! こうでもしないと寝てくださらないでしょ!?」
「は、はしたないぞゆか……女性がそんなこと言ったら……!」
「だってだってだってだって!」
「だってじゃないから――乗っかるな!」
「ふ、ふふ、ふふ……こ、ここういうの、たたた対面座位とおおおお呼びになるのでしょう?!」
「はな――はなれろ、離れてっ! はなれてください!」
「か、カノンさん、もうお覚悟をお決めになってっ!!」
必死に抵抗する俺。
必死に食らいつくゆか。
少しでも静止すれば意識を保ってはいられないと悟った俺は、ゆかを引き剥がすのに必死で――
「あ」
「ぁ……」
ゆかの浴衣が剥がれる。
露わになる白い肩と、桃色のブラジャー。
華奢なくびれと、そのさらに下で色づく桃色のショーツ。
海で見た水着とはまた違う色香。
もう――限界だった。
どうにでもなればいいと思った。
誘ってきたのはそっちなんだから、とか。
妊娠しないように気をつけないと、とか。
式場押さえるのは早すぎるだろ、とか。
ゆかを押し倒した俺は————とたんに、固まった。
「……気絶、してるな」
「………――」
*
「ず、ずるいです……一人で露天風呂にお入りになるなんて!」
数時間後。
目が覚めたゆかは、布団の中で悲鳴のような声を上げた。
「お。起きたか、ゆか。悪いな、先に使わせてもらったぞ」
「どうして……どうして起こしてくださらなかったのですかぁ! うぅぅ、それに、さっきは女性としてはしたないことを……っ」
目元まで布団を被って隠れるゆか。
しっかりと意識を失う前の記憶はあるようだ。
窓から差し込む月明かりだけを頼りに布団の元まで移動し、横になる。
すぐ隣で、ゆかが犬のように唸り声をあげた。
「うぅぅ……」
「明日の朝にでも入ればいいじゃんか。一人で」
「……カノンさんとご一緒したかったのです」
「一人の露天風呂は気持ちよかったぞ」
「いけず」
横向きになって、目元だけ布団からさらすゆか。
布団に入った俺も、ゆかの方に体を向けた。
「もう、お眠りになられるのですか?」
「ああ……もう眠たい。明日もあるしさ、きょうは寝ようぜ」
「明日しか、ないのですよ?」
「そうだな……あっという間に終わるんだろうな」
修学旅行を思い出す。
楽しい時間はあっという間に過ぎていって、記憶の中からも消えていく。
そのくせ嫌なことはずっと頭の中にこびりついていて。
どうして人間の脳は、この素敵な時間を永遠のものにしてくれないのだろう。
「楽しい時間って、どうしてこうも早く終わっちまうのかね」
「何度でも、繰り返すためですよ」
「繰り返すため?」
「何度も、何度も。幸せになりたい生き物だから、忘れていくのです。この気持ちを、大好きなお方と何度も味わえるように。逆に嫌なことは、繰り返さないように刻み込まれるのです」
「なんか……小説家っぽいな」
「小説家ですから」
笑って、ゆかが布団の外に手を出した。
俺へと向けて、手が伸びる。
「握って……いただけませんか?」
言葉は返さず、俺はゆかの手を握った。
ちいさな手だ。
すぐに折れてしまいそうな、細くてあったかい指。手のひら。
指を絡ませるとゆかはとても嬉しそうに声を漏らして、瞼を閉じた。
俺も、瞼を閉じる。
視界がなくとも、手のひらから伝わる熱を通して、ゆかの微笑がみえた。
俺に手を差し伸べて、はしゃいだり、美味しそうに飯を食ったり、会話したり、笑ったり――。
彼女の紡ぐ言葉と気配と彩るすべてが俺の中へ、無防備に這入ってくる。
*
取材と称した旅行を終えてからも、その残り香は鮮明に俺の中に留まっていた。
頭の中に小兎姫ゆかという少女が住み着いたかのように。
悪い気分はしなかった。
ただ。
彼女のことを想うたびに、胸が締め付けられたり、彼女が家に来るのを待ち遠しく想う時間が、増えた。
俺を蝕む彼女から逃げるようにして、小説と向き合う時間も長くなった。
飯と風呂とトイレと、それ以外はパソコンの前に座っている時間がほとんどで。
そんな俺を、ゆかは楽しそうにベットの上で眺めていた。
「……いい加減、付き合ったら? アンタたち」
その様子を、奈々は呆れた風に言った。
奈々は、タバコを吸う回数が増えていた。
少し前までは、俺が風呂や部屋にこもった隙にベランダでタバコを吸っていたのだが、今じゃ一時間に一回のペースでベランダに向かっていた。
「今は小説に集中したいから」
「カノンさんをお待ちしておりますから」
「ふーん」
ただ、ひたすら文字を削って、書いて、キャラクターに息を吹き込んでいく。
まるで画面の向こう側へ己自身を落とし込んでいくかのように。
さながら、空白に現れた文字列は己の分身体。
完成は、目前だった。
俺が筆を折るか、続けるかの瀬戸際。
ターニングポイント。
願っても、泣いても、祈っても。
結果だけは、誰にも操れないから。
俺は、信じる。
過去、これほどまでに愛を込めて、感情移入して、自信作だと言える作品はなかった。
確信があった。
これなら、いけると。
そして――七月二日、金曜日。
俺は、『小説王』に最高傑作を投稿した。
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