第9話 取材旅行3/4
懐石料理というものを、この日、俺ははじめて口にした。
十八時ごろ。
部屋に運ばれてきた懐石料理がテーブルに並んでいくさまを見て、俺は子どものようにワクワクしていた。
「本来、懐石料理とは、お茶をいただく前に食べるもの、ということをカノンさんはご存知でしたか?」
「いや……知らなかった。お茶って、あのお茶?」
「どのお茶かは存じませんが……千利休をお聞きになられたことはありますか?」
「あ、ああ、社会か国語のどっちだったかは知らないけど出てくるよな」
「おそらく両方に出ていたかと」
刺身や豆腐、茶碗蒸しなど、華やかな和を感じさせる料理たち。
見たこともない、名も知らぬ料理。
けれども食欲を誘う彩りに、遊び疲れて空腹を感じていた胃がうめき声を上げる。
「カノンさんはもちろん、お酒をお飲みになられますよね?」
にっこりと、慣れた手つきで瓶ビールの蓋を外すゆか。
「あ、あれ、懐石料理ってお茶をいただくための料理じゃ……」
「ちなみに、お酒をおいしくいただくための料理を、会席料理とお呼びになるそうですよ」
「へ、へえ。知らなかった、ありがとう。でもお酒は要らないぞ。懐石料理だからな」
「……遠慮なさらないでください」
「遠慮します」
包み隠さず言おう。
いま酔っ払うと、ゆかを襲わずに朝を迎えられる自信なんてない。
ただでさえ、浴衣姿のゆかは刺激が強く、きょう一日で色々あったのだ。
むしろ、これまでの試練を耐え抜いた俺の理性にノーベル賞を授与したい。
「わかりました。ですが、お飲みになる場合は遠慮なくお申し付けくださいね?」
「おう」
そして、初めて食べる懐石料理の味に感動する俺を、ゆかはとてもおかしそうに笑っていた。
やはり食べ慣れているのだろうか。
上品に口へ箸を運ぶゆかに欠点なんて見当たらず、こんな女性とおなじ時間を過ごせていることを、心の底から幸せに思った。
気がつけばテーブルの上から懐石料理が消え、従業員さんが手際よく後片付けをして去っていく。
ついでにお布団まで敷いてくれて、なんとなく布団から離れて窓際のチェアに座った俺を、ゆかが恨めしそうに見つめてきた。
「カノンさん、お布団か露天風呂かゆか、どちらになさいますか?」
「まともな選択肢ひとつもないじゃん」
「オススメはゆかです」
「それ選んだら俺どうなるの」
「素敵な未来をお約束させていただきます」
なにそれすごい魅力的なんだけど。
「どうなさいます?」
「どうって……」
布団の上で、俗に女の子座りをして手を広げるゆか。
ほのかに顔を赤くして、俺が飛び込んでくるのを待っていた。
「……飲み物でも買ってくるかな」
「むぅ?」
唇をすぼめるゆか。
そんな彼女の横を通って、俺は下駄を履いた。
「何飲む?」
「ゆかも行きます!」
「いや、いいよ。すぐそこだし」
「……すぐに、帰ってきてくださいます?」
「おう。心配すんなって。どこにも逃げる場所なんてないし」
四方を海に囲まれた島だ。
ヘリコプターを奪取しなければ俺は彼女から逃げられない。
そもそも、逃げるつもりはないし。
恭しく俺を見送るゆか。片時も離れたくなさそうな顔をしていた。
そんな顔をされると、行きたくなくなってしまうが……心を鬼にする。
この雰囲気のままゆかと一緒にいると、流されてしまう可能性がある。
それはお互いのためにもよくない。
「さて、自販機は……っと」
本当に無人なんだな。物音ひとつしないぞ。
橙色の灯が照らす静かな廊下を進み、自販機を探す。
三分ほど歩いて、ここに自販機がないことを知った。
となれば、一階の売店だが……まだやっているだろうか。
すこし時間がかかってしまうが、売店まで行こう。
エレベーターのボタンを押すと、程なくして扉が開いた。
「……ゆか?」
「……れん?」
開かれた扉の先には、ゆかがいた。
瞬間移動か?
いやいや、まさか。
え?
「ああ――なるほど。あなた、ゆかの彼氏?」
「え?」
「乗らないの?」
「の、乗ります……」
目の前のゆか……に瓜二つの少女に促され、俺はエレベーター内に入る。
扉が静かに閉まった。
俺は、恐るおそる隣の少女を一瞥する。
身長から髪型、着ている浴衣までおなじゆか二号。
異なる点といえば、今にも眠ってしまいそうな瞳と、なぜか首からぶら下げているヘッドホン。
双子の姉妹……か?
いやそんな話は聞いていないぞ。
確か兄妹はいなかったとも聞いているし。
唯一の家族といえば、母親だけだと――
「――もしかして、ゆかのお母様?」
「正解。びっくりした? あたしと娘、クローンってぐらい似てるから」
俺のたどり着いた答えは、どうやら正解だったようで、ゆかのお母様はこくりと頷いた。
声音まで似ている。が、お母様の方が大人っぽさがある。
当然か。
「ごめんね。嫌だよね、彼女の親とふたりっきりで密室って」
「い、いえ。そんなことは……――って、待ってください。僕たち、まだ付き合ってませんよ?」
「ふぅん? あの子はもう式場まで押さえているようだけれど」
それは、いくらなんでも早すぎるだろ。
「まあ、どのみち将来はくっつくことになるんだし。今からでもあたしのことはお義母さんとでも呼んでくれよ。あたしも、キミのことは息子として扱うから」
有無も言わさず、決定事項と言わんばかりに彼女は言った。
「戸惑ってるね。まあ最初はそんなもんだよ。
「は……はあ」
お母様のいう通り、少しばかり強引で、頼めばなんでもやってくれそうだし、あの様子だと浮気の心配もないだろう。神作家として成功もしているし、口頭で伝えた俺の住所をすぐに覚えてしまえるほどだ。
けれど、それを母親であるあなたが言いますか。
「あたしが言うのもあれだけど、小兎姫の女に目をつけられたなら抜け出すのは厳しいよ。もし娘がお気に召さないなら、それでもいいんだけど。でも、相応の覚悟と愛がないと逃げられないよ。
――うちの旦那みたいにね」
一階に到着し、扉が開く。
先に外へ出たゆかのお母様がわずかに振り返って、眠た気な瞳を俺へ向けた。
容姿、声音のすべてがゆかとほぼ瓜二つ。
けれど、ゆかとは異なるどこか達観した目が、とてもきれいだと感じた。
「キミ、名前は」
「……
名を聞いて、お母様は――
「夜之……皮肉かな。ふふ。でも、うん。あたしの夢は、娘が叶えてくれるんだね」
無邪気な、微笑。
ゆかとも違う、けれど彼女以上に神聖で、きれいで、魅力的な笑顔の中に光る涙を、俺は――昔だけ――
「じゃあ、奏音くん。楽しんでくれたまえよ。娘をよろしく」
「―――」
呆然とする俺を置いて、そのままゆかのお母様はどこかへ消えていった。
静寂の中に、響く足音。
売店に向かう最中、俺は瞼に焼き付いて離れないお母様の笑顔をずっと——。
繰り返し、反芻していた。
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