第8話 取材旅行2/4

海に逃亡した俺は、追いかけてきたゆかと一緒に、子どものように遊んだ。


大人になると、海での遊び方がわからなくなる。

俺がまだ働いていた時代、同期と海に一度だけ遊びに行ったことがある。


けれどそのほとんどの時間を、肉を焼いて食べるという時間に費やした。


子どもの頃は無邪気に遊んでいられたのに。

そう思いながら、家族連れを見遣っていたのだが……



「カノンさんっ! お待ちくださいっ! ゆかを追いて行かないでっ――きゃっ!? ちょっと、水がつめたっ!? ――もうっ! お返しですっ」



めちゃくちゃ楽しいぞ、これ。

めちゃくちゃ楽しいぞ、これ!


相手がゆかだからだろうか。

追いかけてくるゆかから逃げて、追いつかれそうになったら塩水を跳ねさせて。

どこから持ってきたのか、ゆかがビーチボールを俺に投げてきて。


童心に帰って、はしゃぐ。



「カノンさん――お捕まえになりましたわっ」


「……っ!?」



とうとう俺に追いつき、上半身に抱きついてきたゆかが無邪気な笑顔を浮かべた。

密着するゆかの胸。肢体。

その柔らかな感触に硬直して、



「わっ――!?」


「ゆ、ゆか……!?」



瞬間、俺たちを襲う少し高めの波。

反射的に抱きしめて、ゆかの顔に塩水がかからないようにする。

さらに密着するゆかの体。

俺の腕の中で、ゆかが幸せそうに蕩けていた。



「こうしてカノンさんのお腕に抱かれると……胸が高鳴ってしまいます」


「っ」



俺の胸あたりに顔を埋め、キツく抱きしめるゆか。

さらに波が俺たちを襲う。


このまま離すと、背の低いゆかは溺れてしまいそうだったから。


俺は、仕方なく、彼女の体を抱いた。



「お慕い申しております……カノンさん」


「………俺も」



好きだ、と口を開きかけて、



「カノンさん……っ」


「俺も、こんなビーチほしいな……。どこで買えるんだ?」


「………」



期待にきらめかせていた瞳が、一気に細まった。

ぷくりと頬をリスのように膨らませたゆかは、



「えい」


「ぬぁっ!?」



俺の足にゆかの足が絡まり、瞬間うしろへ押し倒された。

飛沫を上げて水中へ――

しかし、すぐさま俺の腕をゆかが引き上げて、



「楽しいですね、カノンさん」



なんて、笑ってみせたから、俺も仕返しをしようとなんて思わず。



「ふふ。髪型、お崩れになってしまいましたね。男性らしく、とても素敵におぐしに整えていらっしゃったのに」


「後でまたセットするよ。だらしない髪でゆかのそばにはいられないからな」


「まあ、そんなことをまた平然と……」



万が一があると、恐ろしからな。

遠くの護衛たちに視線を向けながら、目元を覆う長い前髪をかき揚げ――



「――んっ」


「―――」



一瞬、目を瞑ったその隙だった。

唇に、やわらかな水滴。

遅れてやってくる、柔らかさ。



「……ゆ、か」


「謝礼、受け取ってくださいませんでしたから」



俺の肩から手を離して、顔を赤くしながら舌を出すゆか。

呆然とする俺をよそに、ゆかは俺の手を引っ張った。



「あちらにジェットスキーがありますの。飛鳥に運転させてお遊びになられましょう?」


「……ああ」



湧き上がる、噴火のごとき激流。

ああ、好きだ。

めちゃくちゃ好きだ、ゆか。

今すぐに好きだと伝えて抱きしめたい。

もう一度、キスをしたい。


そんなはち切れんばかりの想いを、必死に抑え込んだ。







ジェットスキーの運転から小型船の運転、ダイビングのインストラクターまでと、多岐にわたってスキルを発動する護衛の飛鳥さんによって、俺とゆかはマリンスポーツを遊び尽くした。


昼食には護衛の皆さんが用意したかき氷や焼きそば、カレーライスなど、海の家定番の料理を楽しみ。


午後は二人、パラソルの下で砂に埋まり、海を眺めながら他愛もない話をした。



ゆかは生まれてから一度も、父親と会ったことがないこと。


お母さんは、ゆかの曽祖父に当たる人物が残した莫大な遺産を使って、海外の企業に投資しさらに莫大な遺産を築いたこと。


なかなか友達ができず、そのことを母に相談すると、家系だから仕方がないと言われたこと。


代々、小兎姫ことひめ家は一途なこと。等々。



主にゆかに関してのさまざまなことを訊いた。



「――それで、その後同期さんはどうなったのですか? 気になって居ても立っても居られないです」



場所は変わって、きょうと明日、宿泊予定のホテルに備わっている岩盤浴場。


大理石に敷いたタオルの上で、橙色の灯に照らされたバスローブ姿のゆかが、両腕に頬を乗っけて俺を見つめる。



「……? どうかなさいましたか? そんなに見つめられますと、少々照れてしまいます」


「あ、ああ。ごめん……ぼうっとしてたかも」


「ふふ。ここの岩盤浴、とても気持ちいいでしょう? ゆかのお気に入りなのです。きょう明日は貸し切っていますから、他のどなたにもゆかたちを邪魔できません。お好きなだけおくつぎになられてください」


「そ、そうなんだ……ホテルまで貸し切っちゃったんだ……」


「ここはお母様が経営しているホテルの一つですから」



じんわりと滲む汗が、ゆかの額からあごにかけて落ちる。

なんでだろう。

たったそれだけのことなのに、とてもいやらしいぞ。

これが岩盤浴効果か。



「ちなみに、きょうお泊まりになるお部屋には露天風呂がお付きになられておりますの」


「へ、部屋に……それは」


「ふふ。もちろん——混浴……でございますよ?」



挑発するように、ゆかが唇に舌を這わせた。




ゆかの言うとおり、五十階に位置するこの和室に、露天風呂があった。


ルーフバルコニーのように広いそこには、長方形のひのき風呂が湯気を漂わせて入浴者を待ち侘びていた。


さらにその向こう側には海が広がっていて、太陽が深海へと沈んでいく様子を眺められた。



「どうでしょう? お気に召しましたか?」


「ああ……すげえ。こんな綺麗な景色、初めてみた」


「ふふっ。お母様もきっと御喜びになりますわ」


「……ところで、さっきの岩盤浴の時から気になってたんだけどさ」


「はい? いかがなさいましたか?」


「まさかとは思うけど、この部屋に泊まったりしないよね? 俺ら」


「そのまさかですけど……この期に及んで、まさかカノンさん。ゆかを一人で寝かせるおつもりで?」



そのまさかだったんですけど。

おかしいとは思ったんだよね。混浴とか言ってた時点で。



「いやでもさ、さすがにマズイだろ」


「申し訳ありませんが、お部屋はおひとつしか取っておりません」



平然と、浴衣をはためかせたゆかが嘘をつく。

俺じゃなければきっと彼女の笑みに呑み込まれ、その言葉を信じていたかもしれない。



「このホテルの娘だろ。ていうか、さっき貸切って言ってたよな? 従業員以外だれもいないだろこのホテル」 


「実は、このお部屋以外の備品はすべて買い替えている途中でして。このご機会にシーツからベッド、畳まで張り替えるご予定なのです」


「物音ひとつしないけど」


「ご休憩中なのです」


「………」


「………」


「………」



結局、俺は折れることにした。


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