第4話 ご性癖

「――偉い人は言いました。大衆迎合テンプレに魂をお売りなさい、と」



紅茶を一口飲んだゆかが、静かにそう言った。



「魂を売る? テンプレに?」


「はい。――よいですか、カノンさん。知名度も何もない、無名の人間がお売りになりたいのでしたら、テンプレをお書きになるしかないのです」


「無名が売れたいならテンプレを……」


「一言でまとめるなら、〝テンプレを書いて、人気が出たら自分のお好きな小説を書く〟――ということです」



順番が逆なのです。と、神作家は底辺作家の俺にそう言った。



「ゆかも、最初の作品から人気が出たわけではありません。長いタイトルのテンプレ小説を書いて、売れて、そしてはじめてテンプレを脱却し個性的だなんだと囃されているのですよ」


「そ、そうだったのか……」



テンプレを書かずに売れている作家がいる以上、やってやれないことはないとひたすらテンプレを毛嫌いしていたが……それは、間違いだったのか。



「テンプレが悪いわけではないのですよ。テンプレも存外、書いてみたら楽しいものです。ただ、いちアーティストなら人とはおちがう個性を発揮したいと思うのは当然のことです。けど、まずは」


「みんなに受ける小説を書かなきゃダメってことだな」


「はい。ふふ、カノンさんは素直に受け入れられるお広い心をお持ちなのですね。なかなか、これまでやってきたことを否定できないお方が多いのですが」


「いや、むしろ今の段階で知れてよかったと思う。とはいえ、ホントにギリギリの段階だけど……。もっと早く、ゆかに出会っていればよかったなあ」


「――え」


「ん?」



俺の素直な感想に、ゆかは急にもじもじと指を重ね合わせた。

 


「ゆ、ゆかも……です」


「な、何が?」



顔を赤くして、俺を見遣るゆか。

なんだよ、その表情。

俺まで恥ずかしくなってくるじゃないか。



「ゆかも……もっと早く、カノンさんにお会いしたかったです」


「そ……そっか、あ……ありがとう」



気品ある雰囲気から打って変わり、年相応の女の子らしさを唐突に出してきたゆかに、俺は目線を合わせられなくなって時計に目をやった。


時刻はもう、早いことに十一時半を過ぎていた。

もう少しで昼時だ。

長いこと話し込んでいたらしい。



「えと、よかったら昼食たべていくか?」


「え、え? よろしいのですか?」


「色々、教えてくれたしな。それぐらいご馳走させてくれ。――っていっても、ニートの貧乏飯が口に合うかはわからないけど」


「カノンさん。自分のことを卑下する言い方はあまり褒められたものではないですよ?」


「わ、わかった。すまん」


「ふふ。カノンさん、とてもかわいらしいですね」


 

かわいい……なんて、言われたの初めてだぞ。

男なのに。

しかも、なんで顔赤くなってんだよ、俺。



「つ、作るから! 適当にテレビでもみててくれ!」


「はいっ」



逃げるようにキッチンへ移動した俺は、冷蔵庫から卵と玉ねぎ、焼きそばを取り出した。

リビングでは、テレビをつけたゆかがバラエティ番組をにこにこと眺めている。

 

やっぱり、とてもかわいいよな。


喋っている時は女の子をきわめたような可憐さを、こうして黙っていると深窓の姫君然とした魅力がある。


さらには目元の凛々しさも際立って、ふとした時にエスコートしてくれた時なんかは男装の麗人のようで――



「あ、あのあの、カノンさん……そんなにお見つめになられると、照れてしまいます……っ」


「——え? あ、い、いや、ごめんっ」


「いえ、その……」



テレビではなく、気恥ずかしそうにこちらを向き直ったゆかが、潤んだ瞳で俺を見つめた。



「こうした方が、お見つめになりやすいのではないかと思いまして……。い、いかがでしょう?」


「………」



危うく惚れかけた俺は、好敵手玉ねぎの硫化アリルに助けられた。


じんと、ゆかを見つめることすらできないほどにしみるその成分に、生まれて初めて感謝したのだった。







その日を境に、ゆかはほぼ毎日のように俺の家へ遊びにきた。


朝に来たのは初日の一回だけで、それ以降は夕方から、明らかにプロが作ったであろう夕食と共にやってきた。


 

「カノンさんとお会いするまでに、お仕事を終わらせるようにしているのです」



玖楽蓮くうられんとして出版している小説も大好評で、ほぼ毎日サイン本を書いては送ってを繰り返しているそうだ。


重版も続き、「パラノイアの少女」は全シリーズ含めて五千万部を越えたらしい。

もはや漫画の領域だった。

一向に手が届きそうにない。



そして、俺に関してだが。


今は新作を書いている途中で、ゆかと同じく、彼女が家に来るまでの間に一万文字いじょう書いている。

 

最近は一日に書ける文字数が飛躍的に上がっていた。

書き始めは苦労しないのだが、一万、二万と文字を重ねていくとモチベが下がり、書くのが辛くなってくる。


けれど、身近に俺の目指すべき背中があって、しかもまいにちのように会いに来てくれる。

過去最高潮に、俺の筆は乗っていた。



「――調子はいかがですか、カノンさん」



きょうもきょうとて、ゆかは夕方ごろに俺の家へやってきた。


毎回インターホンを鳴らさなくてもいいように、かなりためらったし恥ずかしかったが、合鍵を渡してある。

 

もし断られたらどうしよう、などと勘繰ってしまったが、ゆかはとてもうれしそうに受け取ってくれた。



「ゆかのおかげではかどってるよ。順調に文字を重ねていってる。もう少しで十万文字に届きそうだから、校閲した後に投稿しようと思う」


「楽しみです、カノンさんの作品。カノンさんの小説、とっってもおもしろいですから。過去作も全部拝見しましたの。必ずといっていいほどヤンデレヒロインが出てくるのは、カノンさんのご性癖なのでしょうか?」


「ご……ご性癖です」



性癖に接頭語をつける女の子なんて初めてみたぞ。

しかし、それを言うのならば、



「ゆかだって、よく男キャラに押し倒されてるじゃんか。好きなのか、そうやって無理やり迫られるの」


「―――なぁっ!!?」


「……ゆか?」



いつものように、持参してきた重箱を食卓に並べている最中だったゆかが、突然トマトのように顔を真っ赤にして固まった。

だらしなく目と口を開けて、いつものお嬢様らしい気品さのカケラもなく、慌てふためくゆか。



「ち――ちちちが、違います! そ、そそそそんなはしたな――はしたないことは何も思って……ッ」


「お、おい落ち着けよ、別に悪いことじゃ――」


「断じてありませんそんな男性に殿方に押し倒されて喜ぶ性癖なんてゆかには――」


「ちょ、ちょっと落ち着けって……っ」



尋常ではない取り乱しようだった。

確かに、性癖の暴露は恥ずかしいけれど、そこまで大袈裟にならなくてもいい気が……。


とりあえず、ぶつぶつと顔を真っ赤にして呟くゆかへ、コップいっぱいの水を持っていった。

落ち着かせるためにコップを差し出すと、ゆかはそれを一気に飲み干して、



「か、カノンさんゆかはそんなはしたない女じゃ――」



どうやら水一杯じゃ収まらなかったらしい。



「わ、わかったからそんな近寄んなってぶつか――」


「ぁ―――」



迫られた拍子に、自分の足に引っかかるというドジをやらかす俺。

そこへ、体勢を崩したゆかも飛び込んできて――



「っ、………!」


「……っ」



見事、俺が押し倒される形になってしまった。



「う、うぅぅ……も、申し訳ございません……っ」



視界いっぱいに広がるゆかのかわいらしい顔。


目元に涙を溜めて、毛穴まで見えてるってのに、やっぱりその可憐さは損なわれることなどなかった。

 

ちくしょう。美少女だ。美少女に押し倒されている。

女の子に迫られるのが好きな俺には、完璧にどハマりなシチュエーションだった。


上半身にかかる重くもなく軽すぎもしない体重が、ゆかの熱い体温が、とても心地よくて。


裏腹に心臓が爆発してしまうんじゃないかってぐらい、を刻んでいる。



ニートが親を呼び出すためではない、俗にいう〝床ドン〟をめられた俺は、さすがに下半身が危なかったのでゆかを引き剥がそうと、



「……ゆかは、どちらかというと……こういうシチュエーションの方が、お好きですよ」


「……っ!?」



 そ――それって、つまり……



「お、おそ……襲う側がいいって、……こと?」


「お……お望みなら、今からでも」



お互いに、生唾を飲み込む。

ゆかの表情が、恥じらいを見せる乙女の顔ではなく、凛々しい顔つきへと変わっていった。

 

すごい演技力だな――なんて感心している場合ではなかった。

このままでは、本当に一線を越えてしまう。

 


「じょ……女性が、はしたないと思われるかもしれませんが……申し訳ございません。こんなにも素敵なお方を前にして、理性を保っていられる方が無理なお話というもの」


「ゆ、ゆか……待つんだ」


「お笑いになって、カノンさん。ゆかは、恋愛小説で稼がせていただいているというのに……ゆかは、これまで一度も、そういう経験がないのです」



ゆかの垂れた茶髪が俺のうなじを撫でる。

くすぐったい感触と、脳が痺れそうになる香水の匂い。


ねっとりとした熱い視線に射抜かれて、俺は初恋以上のモノを今、この瞬間に体感していた。


もはや、どうなっても構わないと。

筆を折って、彼女のために生きる――そこまで想像して。

 


――案外、悪くないなと思った。



「カノン、さん……」


「ゆ……か」



彼女の唇が、薄く開いた。


そして――俺たちは、一線を越え……




「かのーん? 久々に来てやったわよー。夕飯まだだろうから、適当に買ってきたんだけど………………なにやってんの?」



一線を——越えることはなかった。


ゆかに押し倒され、満更にでもなさそうな表情を浮かべているであろう俺をみて、彼女――丹代奈々にしろななの視線が鋭く尖った。

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