第2話 小兎姫ゆか

「昨日のあれは、なんだったんだ……夢か?」



朝七時。

いつも通りの時間に目覚めた俺は、彼女とつないでいた右手を眺めながら記憶を反芻はんすうする。



真夜中の並木道で出会った小兎姫ことひめゆかという美少女。

ちっちゃくて、中学生みたいななりだが十九歳だった。



あのあとすぐに、国保の保険証をみせてもらい、しっかり年齢を確認した。

間違いなく十九歳だった。

だから犯罪チックなことは何もない。

この物語に登場する人物は、みんな十八歳以上だ。


……そういえば、なんで国保なんだろう。



「まあ……いいか。とりあえず起きよう」



眠たい目をこすって、俺はベッドからおりた。



両親が世界一周旅行に行ったっきり、三年が経っていた。

いったい何周しているのかはわからないが、都合が良かった。


実質一人暮らし。

家賃を払う必要はなく、4LDKの広いマンションの一室を好き放題に使える。



多少、裕福な家の息子とはいえ、両親は――というか、母さんは俺を甘やかさない。

母の稼いだ莫大な金はすべて、親父が働かなくていいよう、かつふたりっきりの時間を作れるようにと貯めた金だ。



就職してからは、一円すらも俺に与えてくれたことはない。

いや、まあ。

それが当然なんだけど。

むしろ、こうして家に住まわせてもらっている分、ありがたい。


 

長年愛用しているタンブラーにお湯を入れて、一気に飲み干してから顔を洗い、歯磨きを終えた後、俺はパソコンの前に腰をおろす。


 

『小説王』のユーザーページを確認して、次に投稿小説を確認して、特に変化がないことを確認して、げんなりする。


 

感想はもちろん、増えないお気に入り登録数に朝からダメージを喰らいながら、ページを閉じた。

 


諦めて新作を書こう。

完結させるだけの気力なんてない。


そして、次の作品がランキングに載ることなく、書籍化もしなかったら。

俺は、夢を諦める。

昨夜の決意を思い返して、俺は再び固く誓った。


 

「さて、新作だけど……どうするかなあ。前作のリメイクが手っ取り早いけど、伸びなかった小説を書いてもモチベ上がんないし……」



キーボードの上に指を置いたまま、空白を前に固まる。

ジャンルはファンタジーだ。

俺はそれしか書けない。

ちがうな。

書きたいのは、ファンタジーなんだ。

それも、熱い男と男がホモ祭りを繰り広げるバトルもの。

 

女の介在する余地のない、男同士の啖呵たんかの張り合い。



「………」



それから、どれくらい経っただろうか。

相変わらず空白のままで、とりあえず登場人物から作ってみようかなと、ネットでイラストを漁ろうとしたその時。


間の抜けたインターホンが鳴った。

時間を確認すると八時半だった。

こんな時間に、しかも平日に訪れる人間に心当たりなんてない。

 

放送料金の徴収だろうか。

居留守を使おう。

ニートになって一年も経つと、人と喋るのが億劫おっくうになる。



できることなら、見ず知らずの人間と会話したくないし人前に晒すようなことはしたくないのだが……。



「……え?」



モニターを確認した俺は、驚愕に顔を歪めた。







「お会いできて嬉しゅう存じ上げます」


「ど……どうも」



平日の朝っぱらから、俺の部屋にやってきたのは昨夜であった少女。


小兎姫ことひめゆか。


可愛らしく茶髪を黒色のリボンで結って、見た目相応のガーリーなワンピースで家に上がった彼女は、物珍しそうに部屋を見渡した。



「男性のお部屋に入るのは初めてです……。男性のお部屋は、よくお散らかりになられているとお聞きしていましたが、カノンさんはお綺麗なのですね」


「そ、そうですか……?」


「ふふ、カノンさん。ゆかに敬語は必要ありません。お友達じゃないですか」



そう、俺と彼女は友達になったのだ。


ひとまず、友達。


別れ際、ゆかは恋人がいいと頬を膨らませていたのだが、出会ったばかりの、かわいいとはいえ見ず知らずの女性と付き合うのはアレだからと説得して、なんとか友達におさまったのだ。



そもそもの話、今の俺に恋愛する余裕なんてない。

金銭的にもそうだが、二十五歳ニートはまずい。

働かざるを得ない状況へと陥る前に、なんとしてでも小説家になりたかった。



「その……どうして家に? ていうか、よく場所わかったね……?」


「あら? メッセージをお送りしましたが、拝見なさってないのですか?」


「メッセージ?」


「はい。それに、ご住所も同時に頂戴しましたわ」



慌ててスマホを確認すると、確かに彼女からメッセージが届いていた。


ごきげんよう。準備が整いましたらそちらへお向かいしますね、と。


朝の五時。俺が起きる二時間前に届いていた。

しかも住所って、口頭で説明しただけなのによくおぼえていたな。


彼女の記憶力もそうだが、行動力も尋常ではない。



とりあえずゆかをソファに座らせた俺は、キッチンで紅茶を淹れた。

ウォーターサーバーがあるから、お湯を沸かす必要もない。



「お菓子は和菓子をお持ちしましたが、お口に合うでしょうか?」


「え? あ、ああ。和菓子、好きだよ」


「す、好き……っ」



なんで顔赤くしてるんだよ。


そういえば……家にあいつ以外の女子を上げるなんて、久しぶりじゃないか?

 

いやに緊張してしまう。

相手は、自分より六個も年下の女の子だというのに。

震える手元を押さえて、紅茶にウォーターサーバーからお湯を注いだ。



「ごめんな。こんなのしか出せないけど……口に合わなかったら飲まなくていいから。俺、あまり飲まないから味わからないんだ、紅茶」


「まあ。このダージリン、インド産ではないですか。とても高級なお紅茶なのですよ?」


「へ、へえ……。母さんが買ってきたヤツなんだ、それ」


「お母様はどちらにお住まいなのですか?」


「ここ。両親の家なんだ。父さんと海外旅行に行ったっきり三年も帰って来てなくてさ。まあ、よくあることだから気にしてないんだけど」


「ふふ。仲睦まじいご両親なのですね」



来客用の少々上品なティカップにも見劣らぬ、お嬢様然とした仕草で紅茶を口に運ぶゆか。

とてもさまになっていた。

丁寧な口ぶりもそうだが、もしかしたら彼女は、いいところのお嬢様なのかもしれない。


こんな底辺のニート作家もどきが、相手にしてはいけない人物な気がしてきた。

 


「と、ところで、どうしてここに? 学校とかないの? きょう、平日だけど」



正直に言おう。


こんな美少女と会話するだけで、俺は幸せだ。

しかも、迷信を信じて好意まで寄せられている。


男冥利に尽きる、というヤツなんだが。

 

重ねて言おう。

俺にそんな余裕はない。



崖っぷちだが、この俺には夢がある。叶えたい目標がある。



女性が原因で夢半ばに捨てる――よく聞く話だ。

インディーズバンドもよくそんな歌をうたっては消えていく。

地下アイドルなんてその最たる例だ。


夢を追うのは苦痛の連続。

周囲に応援してくれる人間はほぼ皆無。



いい歳なんだから働きなさい。

手に職をつけなさい。

仕事を紹介しよう。

働きながら夢を追えばいい。



なんて、魅惑的な誘惑だろうか。

それに流されてしまえば、どんなに楽だろうか。


目前の彼女に釣り合う男の最低条件はなんだ?


就職なんて当たり前のことで、目前の令嬢がよくても両親は許さないだろう。


彼女と付き合うことになれば、俺は必然的に筆を折ることになる。


それは、だめだ。

まだ、だめだ。

まだ、諦めていない。



だから、俺はできることならば、用事があるのだと、彼女を追いかえしたかったんだが……。



「昨夜もお話になられたでしょう? カノンさんの夢を応援させてください、と」


「お、応援って……?」


「ただお隣で声援をお送り続けても良いのですが、都合の良いことに、ゆかにもお手伝いできそうなことなので。微力ながら、ゆかがご協力いたしますわ」



そう頼もしく微笑んで、ゆかはティカップを受け皿の上に置いた。

 

 

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