別ルート②

 あの王都からはだいぶ離れ、ふたりきりのおかしな旅路も、それなりの距離と時間になった。

 この日は、ある村にたどりついた。僕がどうしても立ち寄りたかったところだ。

 ……ここには、知人の眠る墓がある。自分の人生を見つめ直すにあたって、どこを目指すにしても、ここに来て彼に近況報告でもしておきたいと思っていた。


 村人たちと交渉し、旅のための物資を分けてもらう。特に買い替えたいような道具もなく、主に食料を調達することになった。

 アスリカは、退屈そうな顔でそれを眺めていて、やがてふらふらと村を歩き始めた。そうすると、彼女の格好はいかにもな魔法使いの姿であり、加えて容姿がいいので、村人たちの興味を買っていたようだった。

 田舎と貧乏人は嫌いだ――と、以前に言っていたのを覚えている。だから、態度を悪くしてトラブルにならないか心配だった。それもあって、僕は彼女のことを、また目で追ってしまっていた。

 けれど、驚くことに。彼女は人を見下すときのあの嫌な顔つきではなく、柔和な表情をつくり、愛想よく彼らに接していた。それどころか、一般的な魔法使いよりよほど親切に、彼らの頼みを解決したりしていた。対価も要求しなかったらしい。

 そのあとには。ひとり、ふたり、大勢と彼女の周りに集まってきた子どもたちを相手に、語り部の真似事なんかをやっていた。その内容は聞いていないけれど、子どもたちの表情がコロコロと変わっていく様子からして、決して退屈はさせなかったようだ。

 そんな子どもたちの反応を見て、アスリカは。少しきつい印象のあったあの目を、優しげに細めていた。

 ……あんな顔も、するんだ。

 受ける印象だけの話をするなら、すごく……。…………。良い人そうに見えた。優しい子ども好きの女の子みたいに。

 そういう人って、僕、好きだ。

 …………。

 ああ、だめだだめだ。あの高慢なアスリカが、あんなふうに。これはおかしなことだ。直視しすぎたら、たぶん、魂に悪い。

 もうじき夕暮れ。宿も確保できたことだし、明日の早朝にでも墓前に行くとして、今日は早く休もう。


 夜。

 やわらかいベッドで眠っていたはずが、物音で目が覚めた。

 人の気配もする。

 魔法による防備のない宿では、夜討ちの盗人が侵入してくることもある、と教えられた。その対応の仕方も。こうして目を覚ますことができたのもそのおかげだ。すぐに身体を動かして――、


「起きてる……?」


 背後からの、その声を耳にして、動くのをやめた。

 むしろ、身じろぎのひとつもできなくなった。

 ……アスリカだ。どうして。せっかく部屋を別にしたのに。

 起きているかを聞かれたのだから、正直に答えるべきかとは思った。でも、彼女が、わざわざこの深夜に、部屋の鍵をどうにかしてまでここにきた、という事実が頭を茹でて。彼女の声の雰囲気が、すごく魅惑的なものに感じてしまって、あちらを向けなかった。

 眠ったふりでやり過ごそう、と思っていたわけではないが、結果としてそうなった。僕はただ、横向きの姿勢で、彼女の気配に背を向けて、目を閉じる。

 ……すると、やがて、

 至近距離から、衣擦れの音と、他人の温度がやってきた。アスリカが、同じブランケットの中に侵入してきたんだ。

 これはまずい。この前にも、同じような出来事はあったけれど。ひとつのベッドで一緒に横になっているという点が違う。それだけで、心臓が口から飛び出そうになった。

 いったいどういうつもりなんだ。……アスリカがどんなに強い魔法使いでも。いま僕が、突然振り返ったら……、彼女を組み伏せることは、きっと、できてしまう。それがわからないのか?

 やりすぎだ。王都を出たときからときどき仕掛けてくる、僕を誘惑するようなふるまい。これもそれだろう。でも、何か裏があるにしても……たとえば、僕を魅了して、奴隷にでも仕立て上げたい、みたいなことを考えているとしても。ここまでしなくていいのに。

 そんなこちらの思いも、彼女は掌の上のことなのだろうか。

 アスリカは、消え入りそうな小さな声を、僕の後頭部に浴びせてきた。


「最近、あたしたち、うまくいってるよね。……ミゼルと冒険するの、楽しいんだ」


 ……そんなこと、ありえるのだろうか。

 僕の方は、正直に言うと。今のアスリカとの旅は、少し前の状態の何倍も心地がいい。完全に、彼女にほだされている。

 何かたくらんでいるのだとしたら、できるだけ早く実行してほしい。

 ゆっくりと持ち上げて、叩き落とすようなことは……、どうか、しないでほしい。


「ね。ミゼル。あたしのこと……、まだ、嫌い……?」


 嫌なことを聞く。本当に。

 たしか最初の頃、彼女に嫌いだという言葉をぶつけた。あのときは、パーティーから追い出すことだけで終わらないのなら、どんな仕打ちを受けることになるのかと、怖かったからだ。

 でも、今は。

 彼女は、これまでとは別人のように……親身に接してくれる。普通に優しいときと、変にからかってくるとき。

 それを毎日。ふたりだけの道のりの中で。

 ………。

 返答などせず、ただ黙っていると、背中に何かが触れた。

 ……彼女の手だ。やけどしそうなくらいに熱い、って思った。


「パーティーから追い出したりして、ごめんね。他のやつの前だと、素直になれなくてさ……。本当はずっと、こうしたかった」


 陳腐なことを言う。絶対に嘘だ。まるで以前から僕に関心があったような言葉だけど、アスリカはたしかに、僕を嫌っていた。それは長い間、骨身にしみてわかったことのはずだ。だから、これは絶対に嘘。

 ……でも、今は……?

 アスリカの方こそ、僕をまだ、嫌っているのだろうか。

 ああ。こんなことを思う時点で、僕はきっと彼女の思うがままなんだ。


「あなたが良かったら、まだ、一緒にいてね。その……すき、だから……」


 すごく、熱っぽい声だった。

 “もしかして、本当に?”

 そう思わせてくる。僕の心はもう、彼女に操られている。それはわかっているけれど、認めて、受け入れてしまったら、大変なことになる気がする。


 押し黙ったまま、アスリカがいなくなってくれるのを待つ。

 目を閉じているのに意識がはっきりしているせいで、視覚以外の感覚が強くなってしまう。熱い体温、耳に染み込む息遣い、くらくらする甘い匂い。


「……!」


 これらに耐えきれば帰ってくれるものだと、勝手に勘違いしていた。

 アスリカは、僕に、長い手足をやさしく絡めてきて、背中に身体を押し当ててきた。それがわかった途端、僕は背中に全神経を集中してしまった。

 柔らかいものがあたっている。それに信じられないくらい、身体があつい。火の魔法使いだから?

 いま、いま振り返ったら、アスリカは、本当に僕を受け入れてくれる……?

 ……ダメだっ!! そんなはずない。残っている理性で、彼女に何のメリットがあるのか考えろ。たくらみを見抜くんだ。そうだ、僕は冷静にならないと、賢くならないと。

 アスリカの、心臓の鼓動が伝わってきた。

 嘘だ嘘だ。心拍数だってコントロールできるんだ、彼女は、たぶん。

 振り返ってどうにかしてしまいたい気持ちと、それを押さえつける苛立ちで叫び出したい気持ち。それを抱えたまま、時間が過ぎるのを待つ。

 目を全開にして、暗闇の中で部屋の壁を見つめ、木目を頭の中でなぞった。その間ずっと、彼女の体温、やわらかさ、におい、吐息の熱と音が襲ってきて、狂いそうだった。

 この夜は僕にとって、人生で一番の拷問だった。



 一睡もできなかった……わけではない。ちょっとは眠ったはずだ。

 幸い、いつの間にか眠っていたアスリカは、夢の中で僕を手放してくれたらしい。……正直な気持ちとしては、アスリカのやわらかい胸が離れていったときは、かなり虚しさを感じた。けれど、それでやっと眠れたんだ。

 でも、もちろん、あまり深く眠れなかった。

 静かに身体を起こすと、気だるい重さがかかり、睡眠の不足を頭が訴えてきた。

 となりを見る。……やはりあれは、僕の妄想が極まった淫夢のたぐいではなかったようで、そこには本当にアスリカがいた。

 薄い夜着で、まずまっさきに胸のふくらみに目が行った。それと白くてきれいで、なまめかしい手脚。ほんの数時間前に、僕は彼女に……。

 ヤバい! 直視し続けるとたぶん、僕は彼女の身体に自分から触れようとして、ここまで耐えた意味が無くなる。

 ベッドから退散し、ブランケットでアスリカの身体を隠す。そうするとなんだか健全な絵面になって、あれだけ熱く狂おしく聴こえた彼女の寝息も、すうすうとかわいらしいものに思えた。

 ……耐えた。耐え抜いたぞ。

 我ながら根性がある。人間としての自信がついた気さえした。


 体感では、日の昇ってくる直前の時間帯だと思う。荷物から古い安物の時計を出して、時間を確認した。

 ……まだ夜中だったら部屋の隅で二度寝しよう、と考えていたけど、良い時間だ。

 予定していた通り、お墓参りに行こう。……あたまも冷やしたいし。

 僕は静かに身体を伸ばし、外へ出る準備を始めた。

 アスリカを起こさないよう、細心の注意を払いながら。



 まだ未明の時間帯。

 やってきた村の共同墓地は、この暗さではゴーストのたぐいでも出そうで怖い。ほとんどの地域では火葬が当たり前だから、ああいうのはあまり出ないはずだとは、わかっているんだけど。

 眠り足りない頭も、早朝の冷えで覚めてきた。墓地を歩き回り、知っている名前の刻まれた墓石を探す。

 ……あった。

 ここに眠っているのは、幼い頃に数年ほど、一緒に旅をした老人だ。冒険者経験のある旅人で、両親を殺した魔物から僕を助けてくれた。本人は否定するかもしれないが、育ての親だ。病死する前の遺言で、葬ったあとの骨や灰は、彼の故郷であるここに僕が持ってきた。

 では。

 ランプを置いて、まずは墓石の掃除など。それを終えたら、荷物を広げ、墓前に彼が好きだった酒や保存食のたぐいを、食事時のように並べる。

 祈りを捧げ、しばらくしたら、供え物をこちらがいただいていく。とっておきの干し肉をもそもそと食べながら、僕は老人の墓に声をかけた。


「ベルナールさん。……女の子って、なんであんなにいい匂いがするんだろうか」


 知るか、と言われた気がした。

 すいません。

 でも、最近の悩みとか、報告するべき近況となると、もっぱら彼女の存在なしには語れない。

 アスリカ。正直もう、四六時中あの子のことが気になる。なにか企んでいるのだとしたら、まんまとしてやられているんだろう。とくにさっきは大変だった。

 こうして本人と離れて頭を冷やそうとしても、結局こうなっているくらいに。あの子の存在は今、自分の頭の大半を占めている。


「僕、王都では全然だめだったよ。でも、アスリカがついてきてから、なんか変わってきてさ。……もう一回、“冒険者”を目指してみようかな」


 そう、彼女に戦い方の助言を貰ってから、どうしてかすべてがうまくいっている。

 色んな人に、魔物退治や迷宮掘りで食べていける見込みはない、と言われたはずの自分なのに……、

 この短い旅のうちに、剣が、魔物たちに届くようになった。今まで自分の身体にあると知らなかった、魔力の存在を感じ取り、使うことができた。

 アスリカのおかげで。ほかでもない、今までずっと僕を蔑んでいた彼女の……。

 それで、ずっと忘れていた、本当の冒険者への憧れが自分の内に戻ってきたんだ。


 故人に色んな話をして、墓前での豪勢な朝食を終える頃、村にはようやく朝日がやって来た。村人たちの生活の音、声も聞こえてくる。

 そろそろ宿に戻った方がいいかな。アスリカに何も言わないで出てきてしまったし。


「じゃあ、ベルナールさん。……ん……?」


 立ち上がって、別れの挨拶でも口にしようかというとき。

 何か違和感を覚えた。……村からする人の声が、騒々しい。どうも普通じゃない。

 剣だけを手にして、騒ぎの元を確かめに行くことにした。


 村人たちが、あわてて村の外を目指して走っている。何かから逃げているかのように。

 いや、覚えのある光景だ。そうさ、彼らは逃げている。

 魔物だ。

 僕の生まれた村が滅びたときのように……結界をどうにかできるような魔物が、村に侵入してきたんだ。

 人々の波に逆らいながら、剣を握る。

 自分の境遇からくる義憤で身体が震え、それ以上の恐怖で、足がすくんだ。進みが芋虫みたいな速度になる。

 何してる。剣がこの手にあるのなら、この村を守らないと。だってここは、僕の家族が眠る場所だ。いま挑まないと、言葉通りの意味で、僕は二度とベルナールさんに祈りを捧げられない。

 怖くても、行かなきゃ。もう子どものときとは違う。

 ……一歩分。走り始めの一歩分を踏み出す勇気を、なんとか自分の内側から捻りだす。それでやっと、僕の足は、人並みに動くようになった。


 ほどなくして、人がいなくなった広場に辿り着く。

 そこには、大きく頑丈そうな、ゴーレムパターンの魔物がいた。剣じゃ相性が悪いけど、なんとかして追い出さないと。

 あ、こんなことを考えている場合じゃない。あそこにもうひとりいる。

 ゴーレムの足元。人がいる。立てないようだ。今にも殺されてしまう。僕が、あそこから救出しないと――、


「え?」


 やっと、僕は、それが誰なのか気付いた。

 ……アスリカ。

 アスリカが、ぼろぼろになって、地面に倒れていて――、泣いている。

 それを見た瞬間。自分の内側で、何かが爆ぜた。


 ▼


 刃が砕けてしまう手応えで、僕は我に返った。

 地面には、さっきまで自分が振るっていた刃の破片と、ばらばらになったゴーレムの残骸が散乱している。

 どうも、本当に、これを自分がやったようだ。

 刃を入れたとき、硬いなとは思ったけど、それでも気にせず振り抜いたら、斬れてしまった。あとは作業みたいなもので、こうなるのに時間はかからなかった。

 ……今の力は、いったい。

 この状況を成した右手を、じっと眺めた。見たって何がわかるはずもない。

 でも、感じることがあった。自分の肉体に、途方もないエネルギーを閉じ込めているような。これまで垂れ流していたものに、栓ができたような。そんな感覚を覚えた。

 これは、僕の魔力なのか……?


「……しゅじんこう」

「!! あ、アスリカっ! 大丈夫か!?」


 何をしているんだ僕は。こんな力はどうでもいい。左手にあった剣の残りを投げ捨て、少女に駆け寄る。

 杖を支えにして立ち上がろうとしていた彼女は、しかしそれができずにいた。また倒れそうになってしまう。

 僕は、そんなアスリカの身体を受け止めた。

 ……ボロボロだ。どうして、僕なんかでも倒せたやつ相手に、アスリカがこんなに怪我することになるんだ。

 顔にはひどく泣いたあとがあるし、どこもかしこも痛ましい。いつもきれいで、強いアスリカが、こんな……。こんなこと、あっちゃいけない。

 早く、村の癒し手に診てもらわないと。骨が折れているかもしれないし、あるいはもっと、ひどい状態かもしれない。


「アスリカ、いま誰か連れてくるよ。ここで動かないでいる方がいい」

「……ああ、だいじょぶ。たぶん。ちょっと、この……まま。このままにして。い、いま、自分で治してる……」


 そうは言うけど、姿勢が悪い。僕はアスリカの顔色を見ながら、ゆっくり、ゆっくり、彼女を地面に横たえた。

 アスリカは今、光の魔法で傷を治療しているみたいだ。でもひどい状態だと思うし、やはり医者や癒し手の目は必要だろう。

 ……けれど、新手の魔物がまた襲ってくる可能性も捨てきれないか。アスリカが動けるようになるまで、見守るしかないのか……。


「……アスリカ」


 そばに座って、横たわる彼女の顔を見る。

 どうして、彼女がこんな目に遭っているのか、と考えた。

 答えとしては、魔物が何かアスリカにだけ相性のいい特性を持っていたとか、彼女が不意を突かれてしまったとか、いろいろあると思うけれど。

 でも、こうなる前に退却したり、最初から無視したり、出来たと思うんだ。

 じゃあ、彼女がこうなった、根本的な理由は。


「君は、この村を守ろうとしたのか?」


 こんなにボロボロになってまで。人の住むこの場所を、魔物から守ろうとした。


「……うん? ああ、そうなるかな……」


 そっけない言い方。本人は、そんなつもりはないと思っているのだろうか。けれど彼女のした行動は、僕の思い描く“本物の冒険者”のものだ。

 アスリカの心の内なんてわからないけれど。僕は今……、彼女に、敬意を抱いた。


「アスリカ。村を守ろうとしてくれて、ありがとう。ここ、僕の……家族の故郷なんだ」

「ん? そうなの……? ここの出身、だっけ?」

「ううん。育て親になってくれた人が、ここの出身」

「……ふーん」


 しばらくして、アスリカは、自ら上体を起こした。

 そして、そのまま立ち上がる。今度は、倒れそうになることはなかった。


「だ、大丈夫……!?」

「ああ、うん。悪いけど、今日は一日大人しくしたいな。宿屋に戻る……」

「あ、アスリカ! あの」


 踵を返そうとした彼女を呼び止める。


「何? あ、そうだ。もう寝てる間にいなくならないでよ?」

「う、うん。それより、君に何かお礼をしたいんだ。何でも言ってよ」

「……へーっ」


 少し顔色が戻ってきていたアスリカは、やがて、いつもの調子の、どこか妖しい笑顔をつくった。

 あ。僕をからかうときの顔。こんなときにまで?

 目を細めて、紅い瞳でこちらを見て、あの甘くて熱っぽい声を、口から出した。


「じゃあさ。……キスして……って、言ったら?」

「………はっ?」


 キス?

 って、あの? あのやつ?


「な、な……え!? いやっ、それは」

「何でも言ってって、いった」


 アスリカが、ゆっくりと近寄ってくる。そのまますぐに、僕をどうとでもできる距離に、あっさりと入ってきた。

 じっと見上げてくる顔には、まだ戦いの跡がある。でも、それでも、彼女はすごくきれいでかわいくて、紅い瞳は潤んでいるように見えた。

 アスリカの顔が近づいてくる。吐息が僕の顔にかかる。嘘だろ? そんなことまでするはず……

 思わず、目をぐっと閉じた。彼女の髪の匂いが、鼻をくすぐって……


「うそだよ。ばーか……」


 首の傍でそうささやかれて、背筋がじんじんに痺れた。

 うあ……、まずい。これが癖になっている自分がいる。

 こんなときまで、アスリカは。なんなんだよもう。

 目を開くと、アスリカは一歩後ろに下がっていた。あの艶っぽい笑顔で僕を見て、自身の唇を人差し指で示す。


「ミゼルがもっともっと強くなったら、させてあげるよ」

「……っ!」


 な、何を言うんだ。

 もういい。はやく宿屋に行ってほしい。変なお願い以外だったらなんでも命じてくれればいいんだ。安静にしてくれ。


「あ、言うの忘れてた」


 これで話は終わりかと思ったら、彼女は、もうひとつ何かを思い出して。

 からかいはもうないだろうと油断していた隙を、突くようにして。彼女は……正面から、僕に、抱き着いてきた。腕が背中に回ってる。顔を胸にうずめてきて、表情がわからない。

 状況を認識して、心臓が跳ねた。

 アスリカは……、


「ありがとう、助けてくれて」


 すごく弱い、涙が混じったような声で、彼女はぽつりと言った。

 そして、すぐに僕から離れる。

 アスリカは、その一瞬……、上目遣いの、はにかんだような笑顔をしていた。

 そのまま振り返って、向こうへと行ってしまう。

 僕は、動けなくて、彼女の小さな背中を目で追いかけた。

 ………。

 僕を惑わそうとするときにする顔と、今みたいな顔。

 同じ人間のする顔に見えない。どっちが本当の彼女なんだ?

 わからない、わからない。その顔も僕をどうにかするために作っているんだとしたら、とんでもない。


 ふたりきりになってから見せるようになった、彼女の色んな顔が頭に思い浮かぶ。

 僕を助けてくれること。子どもたちに向ける優しい表情。たまに見せるいつもと違う顔……。

 この村を守るために、あんなに傷ついた姿。

 ……ああ、もうダメだ。

 好きになっていい理由を、うまく、見つけてしまった。


 ▼


 ベッドで上半身を起こし、本を読んでいるアスリカ。さっき切ってあげた、とっておきの果物を食べ終わったのを見計らって、僕は彼女に話しかけた。


「アスリカ」

「ん?」

「僕……、君のこと、好きだ」

「……はあ?」


 いきなり言ったものだから、何事かと思ったようだった。

 僕はもう、アスリカのことが好きだ。しかしそれは、尊敬とか親愛とか、そういう綺麗に言いつくろえるものではなくて。……異性として。アスリカを自分のものにして、どうにかしてしまいたい……。そんな、欲望に基づく気持ちだと思う。

 それは彼女によって植え付けられ、育てられたものだ。あれだけこちらを誘惑してきたんだ、こうなるのは予定通りじゃないのだろうか。

 ……彼女が何かを企んでいるのだとしたら。

 いま、それがわかるかもしれない。

 さあ。ここから叩き落とすなり、この想いを利用するなり、好きにしてくれ。


「……あははは!! このタイミングかよ? なんだそれ、あー、おかし」


 彼女は、大笑いした。一緒に旅をするようになってからは、一番愉快そうな笑い。

 やはり、滑稽なんだろうな。思惑通りに、僕は君に恋愛感情を持ったんだから。

 いいよそれで。僕は、君の本当の心を、ほんの少しでも覗きたいんだ。なんなら、好きなだけ笑ってほしい。

 こんな、魂が狂うような悪戯をたくさんされた末に、卑屈な愛の告白をすることが、僕の初恋だなんて。人生がめちゃくちゃになる。

 ……アスリカは。

 ひとしきり笑った後。僕を呼び寄せて、手を引いて、いつもみたいに、心の内側に触る距離に入ってきた。


「だったら、今日みたいに。……あたしを、守ってくれるよね……? 一緒にいてくれるよね? 追放なんてしたら、いやだよ?」


 傷ついて弱っているせいだろうか。このときのアスリカの目は、なんだか……どろどろとした、昏いものに見えた。

 この恋を受け入れてくれる返答のようでいて、何かが違う。僕に対して、やはり好意があるようには思えない。少なくとも、恋愛感情はないだろうと思った。

 そして。……何か、本音を言っている――とも、直感した。

 どういうことだろう。彼女は王都で1、2を争う腕前の魔法使いだったけど……もしかして、危険な戦いからは遠ざかりたかったのか?

 それで、僕を、自分を守る盾にしたいのか? 誰よりも弱いやつを? 

 ……いや……でも……。

 ………。

 少なくとも。

 彼女はまだしばらく、このおかしな二人旅を、続けたいようだ。

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