ミゼルの振るった剣は、ついに魔物の首を刎ね飛ばした。

 獣人の姿をした怪物だった。冒険者たちが、見習いを卒業する頃に相手をするレベルの標的だ。

 これまでにない手ごたえを感じたのか、ミゼルは自分の成果に茫然としたのち、興奮した様子を見せた。


「や、やった……!? やったんだ! すごいよ、アスリカのアドバイスのおかげだ」


 これまでの自分にとって格上だった相手を討った高揚感で、アスリカへの恨みつらみを忘れているのか、ミゼルはこちらに嬉しそうな表情を向ける。

 暗くて陰気な顔しているときよりは、印象が良い。冒険者を始めたての頃はたぶん、ああいう希望に満ちた表情でいたんだろうな。

 さて、喜んでいるようだから、ここは優しく褒めてあげて、心に付け入りところだが……、


「――“バーンストーム”」


 ずっと岩陰に潜み、いまミゼルの隙をついて背後から襲ってきていたもう一体の獣人を、炎のうずで焼き尽くす。

 これであたりの魔物は、すべて殺すことができた。今ならおしゃべりしてもいい。


「最後まで気を抜かない。こんなだから雑魚だって言われるの。ね、ミゼル?」

「う……」


 冷や汗をかいたところに、さらに屈辱的になじられ、また下を向くミゼル。

 僕は彼に歩み寄り、耳元に顔を寄せてささやいた。


「ざ~こ。くすくす」


 少年の身体が小さく震えるのがわかった。怒ったかな? ミゼルの妙なプライドの高さには笑ってしまう。

 僕はおもむろに彼の腕を抱き込み、火の魔力で火照っているアスリカの身体を押しつけた。

 今度はアスリカの喉が出したことなんてない、甘くやさしい声を、ミゼルの耳から注ぎ込む。


「……でも。昨日よりずっと強くなったね。すごい、って、おもっちゃったな」

「うぁ……あ、ありがとう……」


 顔を赤く茹であがらせて妙な表情をする少年。ああおかしい。このように、アスリカの言動を引き継いで相手を貶し、そのあと優しい言葉をかけると、反応がおもしろくて背筋にぞくぞくとくる。

 実際、いま口にしたことは僕の素直な気持ちだ。ミゼルは白兵戦における魔力の扱い方をようやく知ったようで、この数日で急激に実力を上げている。この調子ならそのうち、異世界ファンタジーの主人公にふさわしい強さは手に入るんじゃないだろうか。良いことだ。


 旅は順調。ある程度は会話もするようになってきた。

 この道の行先は……ミゼルの言うには、次に立ち寄る村で一泊したら、よその大きな街でまた冒険者をやってみようかと考えているらしい。新しい人生の始まりを感じているのだろう。

 ……もう現時点で、道筋が原作と違う気がするな。マンガの表紙にミゼルと一緒に描いてあるヒロインっぽい美少女も、まだ登場しないし。

 もっとちゃんと読み込んでおくんだったな。パーティー追放ものは他にも読んでいたから、頭の中で他の作品とこんがらがっている。

 それと、友人にはバカにされたことだが、主人公の覚醒シーンとか追放パーティーの末路だけ読んで満足する……、ってことも割とよくあり。僕にとってミゼルの物語もそれだった。いや、後でちゃんと全体を読むつもりだったんだよ。悪いね、ミゼルくん。

 そういうわけで先のことは不透明だ。まあ、それが冒険ってものだろう。


 先ほどのように、魔物と遭遇することがあればミゼルが奮起して対応し、宿泊地に辿り着くことがあれば補給して休む。

 そういうなんでもない、コミックのように華々しくもない旅を、僕たちは続けた。


 ▼


 この国の王都からもだいぶ離れた。そのため、次に僕たちがたどり着いた宿場は、国の恩恵が行き届いていないような、相応に田舎の村だった。

 唯一の宿に部屋を取り、人々から物資を買い取らせてもらい、次の旅の準備をする。それ以外にやるべきことはなく、ヒマだ。

 僕は旅の支度をミゼルに任せ、村の中を散策した。

 けが人や病人がいれば、気休めに治療の魔法を振り撒く。村を囲む結界にほころびがあると相談され、そこを手直ししてやる。

 外の世界に憧れる子どもたちがやかましく集まってくれば、アスリカがしてきた冒険のことや、都会の話、僕の読んだ異世界ファンタジーのストーリーなんかを語り聞かせる。アスリカが一番得意な火の魔法をみせてあげると、みんなから感嘆の声があがった。

 そのうち、日が暮れた。

 穏やかな時間ではあった。ミゼルはそういうことをしている僕を、離れたところから見ていたようだった。

 アスリカにこんな一面が……とでも思っただろうか。断言してもいいが、あれはこういうことはやらない。田舎が嫌いだからだ。僕とて、みんなから尊敬されるのが気持ち良くてこうしたまで。

 しかしそのおかげで、宿の代金がタダになった。やっぱり魔法使いはどこでも活躍できて良いな。アスリカのしてきた努力は、こうしていま実を結んでいる。良い話だ。よかったよかった。



 その日の夜。

 こんな村の夜は、虫の声が聞こえるほど静かだ。宿がおんぼろなのもあるかもしれない。

 僕は、薄い寝巻姿で、ミゼルの部屋の前にいた。

 ドアには鍵をかけてあるようだが……、僕が宿屋のおばさまに、今夜彼の部屋に侵入したい旨をこっそり伝えると、いい笑顔で鍵を貸してくれた。うまく恋人だと誤解させることができたようだ。

 まあ、鍵がなくとも、この扉を魔法でこじ開けるのは容易だ。

 たとえば王都の一流宿の一室などには、魔法的なセキュリティが施され、客の安心と安全を守るようになっている。

 しかし、ここはそうではない。こういう安宿に泊まるときは、宿泊者自身が魔法でも使って防備を構えるのが、冒険者の間では常識らしい。野営と同じだ。

 が、ミゼルは魔法を修めていない。賊でもやってくれば終わりのこの宿では、震えながら朝の到来を待つしかないのだ。

 さぞ不安であることだろう。仲間として、なぐさめてやろうじゃないか。


 金属製の鍵の開く音は、いやに大きく聞こえた。泥棒をしている気分で、そっとドアを開き、中に足を踏み入れる。

 いや、盗みでも襲撃でもないのだから、気配を殺す必要などない。僕は暗い部屋で感覚を澄ませ、布団の中にいるらしいミゼルに声をかけた。


「起きてる……?」


 想定していたよりも高い声が喉から出た。緊張、なんてしているのかもしれない。

 だってこれは、少女が少年の部屋に夜這いなんていう、人ひとりの人生であるかないかのシチュエーションだ。それを僕が演出しているんだという事実に、どうしても興奮してしまう。

 ミゼルから返事はない。僕は、ミゼルがあちら側を向いた姿勢で寝転んでいるのを確認して。……その背後につくように、自分の身体をブランケットに入り込ませた。

 同衾だ。ミゼルへの好意などなくとも、この自分アスリカの無防備な状態に、鼓動のスピードが上がる。

 いま、ミゼルが振り返って、僕に覆いかぶさってきたら、決して逃げられない。

 それって、すごくいい。

 ……とはいえ、そういった様子はまだ感じられない。僕は、至近距離から、子守唄を歌うような小さな声で、ミゼルの背中に話しかけた。


「最近、あたしたち、うまくいってるよね。……ミゼルと冒険するの、楽しいんだ」


 これは、本当の言葉だ。魔法や武器をふるって物語の世界を歩くことは、僕のあこがれだった。そして、アスリカからすれば雑用しかできないミゼルも、僕にとっては、戦闘以外の場面では頼りになるやつだった。

 この少年も、徐々に明るい表情を見せるようになってきた。

 そう、すべては、順調だ。


「ね。ミゼル。あたしのこと……、まだ、嫌い……?」


 問いかけに答えはない。だが、寝息は聞こえてこない。ミゼルは起きていて、こちらの言葉を聞いている。

 僕は手を伸ばし、少年の背中に手で触れた。

 掛け布団、あるいはブランケットは、ふたりで被っていると、あつい。


「パーティーから追い出したりして、ごめんね。他のやつの前だと、素直になれなくてさ……。本当はずっと、こうしたかった」


 アスリカのやったことを僕が謝罪する必要などこれっぽっちもないのだが、これも戦略だ。

 アスリカという意地の悪い少女は、実は、素直になれないツンデレか何かだった……。そういうふうに、事実を歪める。

 ただの愚かな死人役からヒロインに昇格だ。本人も大喜びしてくれるに違いない。


「あなたが良かったら、まだ、一緒にいてね。その……すき、だから……」


 言って、自分の顔が紅潮するのを感じた。やはり返答はなく、それに妙にほっとしてしまった。

 どうも本番になると、稚拙な愛の言葉をささやいてしまう。心にもないセリフとはいえ、その気恥ずかしさは顔に血がめぐるのには十分だ。

 まだ少し警戒はされているはずだから、あまりあからさまな嘘は口にしたくないのだが、いざとなると僕は薄っぺらいそれを言ってしまう。仕方ないんだ。男を誑かすための語彙なんて、これまでに身につけようがないからな。

 ……そんな手練手管の不足をごまかすために、熱くなった身体を、少年の背中に押し付ける。こっちに関しては極上だ、効かないってことはないだろう。

 体温と、心臓の音が伝わっている、と思う。心地よさと、スリルのようなものを感じた。


 そうして、ミゼルが性欲やら何やらに負けて襲いかかってくるのを、じっとりと待つうちに。夜はただ、深くなっていった。


 ▼


 目が覚めると、隣には誰もいなかった。

 部屋を見渡す。いなくなって結構経っているような印象を受ける。というか痕跡がない。荷物もない。自分の身体に手を出された感じもしない。


「逃げられたか……」


 つまらないオチだ。頭の後ろ側がつんと冷えていく気がした。

 どうしようか? やはりもう村を出たのだろうか。今から追えば、捕まえられるだろうか。

 ひとまず自分の部屋に戻り、急ぎで出発の支度をする。

 旅と魔物退治のための、魔法使いらしい衣服を身に着け、杖を手にする。全身鏡の前で凛々しく表情をつくり、構えると、王都では名の通った赤き炎の使い手、アスリカ・フェリアーナの完成だ。出来の良さに鼻を鳴らす。

 けれど、ふとおかしくなり、表情が崩れた。中身が別のものにすり替わっていると思うと、滑稽な姿だったからだ。

 せっかく大きな姿見があるのだから、アスリカが言いそうにないセリフを言ったり、しそうにないポーズをとったりして遊びたかったのだが、残念ながら次の機会に。


 おばさまに挨拶をして、宿を出る。彼女はミゼルがいなくなったことを聞くと、驚いていた。かなり早い時間に出ていったようだ。

 とりあえず追ってみよう。進む方向があっていればいいが。

 そうして、村の出入り口に足を向けたところで……、

 人々の異変に気が付いた。


「……あ、た、旅人さんっ! そっちに行っちゃダメ! 魔物が、魔物が入ってきたのっ!」


 必死な様子で声をかけてきたのは、昨日知り合った村の少女だ。

 息も絶え絶えに早口で語ってくれたことを、整理すると。

 ……村の東側から、魔物が一体、結界を破って進入してきた。退治屋でもないとどうにかできる相手じゃない。これからみんなで西側から出て、隣村へ避難する。誰かを見かけたら逃げるよう言ってほしい。自分は宿屋の人に声をかけに行く。

 という話だった。

 どんな魔物だか知らないが、僕は急いでいて、非常にタイミングが悪い。すぐに殺してしまおう。


 逃げる村人たちの流れに逆らった先にいたその魔物は、見た目には、そう強そうな個体には見えなかった。

 岩人形。ゴーレム。目の前のそれはそう呼ばれるものだ。以前も倒した。魔物の多くは、動植物や虫といった自然界の生物の姿をしているが、ゴーレムというものは、魔法使いが作成したものが、魔物化して人を襲うようになったとかなんとか言われている。

 僕は杖を構え、魔力の流れを加速させた。

 生み出されたエネルギーが、杖の先に収束していく。


「エクスフレア」


 激しい熱光線がゴーレムにぶつかる。これで問題は解決だ。


「……!?」


 ところが。

 岩の人形は、赤い光の中から、無傷で、五体満足で現れた。


「エクスフレア! バーンストーム! ……スピアレイ! なんで……」


 魔法が効かない。全く効かない。

 もしやと思って、属性を火から切り替えてみても、ヒビのひとつも入れられず弾かれてしまった。

 後じさる。

 それはもちろん、異世界は広いんだ、魔法が効かないモンスターだっているだろうさ。

 でも、どうしていま、どうしてここに。おかしい。不自然だ。理不尽だ。

 魔力の限り、魔法を吐き出し続ける。アスリカの頭で思いつくものは全部試した。そうしてやがて……、

 ゆっくりと歩いていたゴーレムは。僕の杖が、かん、と身体を叩く距離にまで、もう来ていた。


「あぎ……っ!?」


 いつの間にか、僕は地面を転がっていた。車にはねられたら、こんな感じだと思った。

 全身が痛くて、とくに腕が、いたい。あの太い、鉱石の腕で殴られたんだ。

 くそ。くそくそくそ……! 屈辱だ。魔法が効かないってだけの、こんなやつ、に――


「……がっ……!! あ、あうう……」


 また撥ねられた。

 いたい。

 地面を這いずって、落としてしまった杖を拾いに行く。あれがないと、効率よく魔法を使えない。

 そうしたら、目の前に、ゴーレムが立ちふさがった。

 ……なんでこうなる?

 別にみっともなく苦戦するのは良い。アスリカの魔法が使えても、僕はしょせん、何の能もないただの学生だった。そのうちこういうこともあるだろうとは思っていた。

 でも、いま目の前にいるのは、単なる死だ。負けイベントとか、パワーアップするための敗北とか、そういうんじゃない。ただ骨が折れて痛いし、血が出て痛い。どうして都合のいいようになってくれないんだ。

 結局、アスリカは、無様に死ぬ運命なのか? 僕が成り代わっていても、それは変わらないのか。

 ……なんだよ、つまらない。

 本当は――自分が主役に、主人公になれたかもしれないって、思ってたのに。


 ゴーレムが腕を振り上げるのを見て、僕はみっともなく泣いた。下からも漏らしたかもしれない。

 そうして、死ぬまでの時間が、これまでにないくらいゆっくりに感じて……


 硬い岩の巨体が。上と下で、ズレるのを見た。


「おおおおッ!!!」


 何かが閃いて、ゴーレムの身体がバラバラになっていく。

 剣だ。魔法の通じなかった硬質な岩が、バターか何かだったみたいに切り裂かれていく。

 ゴーレムの残骸が、細切れになって地面に転がったとき。その向こうにいたのは、肩で息をするミゼルだった。

 ……“主人公だ”、と。

 そういう感想が、頭に浮かんだ。


「ぼ、僕……いま、どうやって……」

「…………ミゼル」

「アスリカ!! 大丈夫か!?」


 悲痛な表情で少年は駆け寄ってくる。完全に、心配して、助けに来てくれたやつの顔だった。

 僕は、近くにあった杖を拾った。

 支えにして、なんとか立ち上がろうとして……、けれど腰が抜けているみたいで、途中で崩れる。

 それを、ミゼルに受け止められた。気遣い痛み入るが、身体が痛い。


「……君、この村を守ろうとしたのか?」

「……うん? ああ、そうなるかな……」


 おまえが勝手にいなくなったからイラついて、ちょっとイキってみただけだ。そしてこんな無様なことになった。村は、ミゼルがいなければどうにもならなかった。

 僕は、身体を動かそうとして。でもまだ動けなくて。

 ミゼルに、子どものように縋りついた。


「……どうして、早く助けに来ない?」

「え?」

「こわかったよ。死ぬんだって思った」


 口は動くので、言いたいことを言っておく。


「ありがとう、助けてくれて……」


 さすがに、今回は、心からそう思えた。

 ファンタジーの、夢いっぱいの異世界。よく読む小説やコミックみたいな成功譚を想像した。

 それこそアスリカの能天気と同じだ。

 しかし残念ながら、僕も今はただの登場人物のひとり。主人公なのはこいつ。死ぬときは、死ぬんだろうなと、わかった。


「アスリカ……僕……君を助けられてよかった。僕からも、ありがとう。村を守ろうとしてくれて」

「……うん」

「ここ、知り合いの故郷なんだ。今朝は墓前に出かけてて……。君には、なにかお礼をしないと」


 おや。

 ミゼルは……、どうも、いつもより饒舌になっている気がする。

 災い転じて、といったところか。ミゼルの声色には、僕への信頼が混じっているように思える。

 何かお礼をしないと、ときた。礼をすべきはこっちのはずなのに。


 僕は、顔を伏せたまま……

 笑った。

 これは、いいシーンだ。そうだ、こんな目に遭ったのだから、何か実りがないと嘘だ。

 ミゼルは僕の声を待っている。これまでにないことだった。


「じゃあ……」


 僕は顔を上げ。期待のこもったまなざし……を意識して、ミゼルを見つめた。


「抱きしめて、ほしいかな」

「……い、今?」


 思わせぶりに、かわいい女の子っぽい報酬を要求してみた。

 死にかけた後に、我ながらたくましい。身体もあちこち痛いっていうのに。健気な女の子だと思わないかい、ミゼル。

 ここまで徹底してアプローチしていれば、ミゼルも前のアスリカのことなんて忘れるだろう。今は体も熱いし、脈拍も早い。心臓を押し付けて、本格的に勘違いさせてやる……。

 人間、自分を好きだと言ってくる顔の良い異性のことは、いつまでも無碍にはできないものだ。

 ミゼルは気恥ずかしそうにしている。いわゆる恋愛に鈍感な主人公というタイプでもなく、この要求がどういうことなのかを、あれこれ想像しているはずだ。

 それでいい。ここまできたら傍目には、ピンチを救って距離の縮まった、ゴール寸前の男女に見えるだろう……。


「い、いきます」


 ミゼルが、僕を支えていた腕を、背中に回してくる。

 激戦を終えてのハグだなんて、いかにもフィクションっぽいシチュエーションで、少しいい気分になった。

 物語の主人公からの抱擁を、彼より華奢な少女として受け入れていく。僕はミゼルのことは好きでもなんでもないが、しかし今、昂りや充足感があった。

 しばらく身を任せ、次のセリフや表情でも考える。そして――、


 びり、と。

 何かが、すごい速さで、背中を駆け抜けて。

 何か、とてもまずいことが起きようとしていると、直感した。


「あっ。あ、れ……?」


 ミゼルが、僕の肩を抱きしめた途端。

 僕の頭に、何か異物が入ってきた。


「あ。これ……あっ。あっ、あっ、うあ……」


 それは、甘い電流のようなものだった。

 “しあわせ”。そういう言葉が浮かんでくる。

 脳みそに多幸感がガンガン送られてくる。しあわせで頭がぶっ壊れる。心臓が早鐘を打ち、全身に送られる血流にも、なにかおかしなものが混入していて、僕の全身を侵していく。

 この人に、自分の人生を、全て捧げたい。そんな気持ちが心の底からわいてくる。

 ……なんだこれ!? そんなわけがない。

 僕はミゼルを突き放そうとして――、

 また、脳みそと心臓に何かが送られてきて、全部洗い流された。


「あっ? すき……いや、ちが、う」


 こんこんと湧いてくるこれは……“恋心”だ。

 さっきからたしかに不快感を持ったりしているはずなのに、感じた瞬間から、それがまったく違うものに置き換えられていく。

 すき。ちがう。すき。ちがう。すき。違う!

 わかった。ぜんぶわかったぞ。


「み、ぜる。離れ……」


 こいつ、やっぱり、ハーレム主人公なんだ。

 ミゼルには、女を虜にしてしまう何らかの力があったんだ。この世界の誰もそうと認識できないけれど、物語の作者という神様から、女をヒロインに仕立て上げる何かを与えられている。強力な魅了のスキルみたいな。絶対にそうだ。身体で理解した。

 でなければ、こんな、不自然なこと、ありえない。

 とんでもない罠だ。そうだ、僕は看破したんだ。ならば抵抗できる。抵抗するんだ。こいつを今すぐ跳ね除けるんだ。


「ん、んんぅ……んえっ?」


 あっ。また。

 何かが自分の魂を裏返してくる。こいつのことが好きすぎて、離れられない。

 これまでも密着したことは何度もあったのに、感覚が全く違う。ミゼルの体温、におい、すべてが愛しく感じ、五感は鋭敏に彼の情報をひろってしまう。そしてそれらは僕の頭を殴って、こじあけて、彼への好意をぎゅうぎゅうに詰め込んでくる。

 好きだ。好き、好き好き。

 いや、違う。遊んでいるだけだったはず。自分を保たないと。

 僕は必死で、声を振り絞った。


「みっ、ミゼル……あたし、ミゼルのこと………」


 待て、今それを言うのはまずい。

 そこから先を喉が言いそうになるのを、口をきゅっと閉めてなんとかこらえる。

 ……けれど、僕の腕はいつのまにか、手にしていた魔法の杖も投げ捨てて、相手の身体をぎゅっと抱き返してしまっていた。

 これでは、ほとんど告白しているようなもの。……いつもの狂言ではなく、心の底からだ。

 僕が途中で言葉を切ったあと。ミゼルの、抱きしめる力が少し、強くなった。

 それで、また甘くて熱い波が、頭に送られてきて……、


「あの。僕、アスリカのこと……」

「あ、声……」

「え? あ、ご、ごめん。なんでもない」


 耳元でささやかれた彼の声が、脳髄を優しく掴んで、激しく揺らす。

 何を言おうとしたんだろう? いや、聴こえていた。

 じゃあ、両想いだ。やった。


「え、えへへ……」


 僕の顔は、笑っていた。

 これは、たくらみが成功した不敵な笑いなのだろうか。

 ……抱きしめられる幸福感に、耐えきれなくなって漏れた笑いか。

 鏡がないから、わからない。


「も、もういい?」

「………」


 ミゼルに抱かれていると、どんどん思考が鈍化していった。

 良いように言えば、癒やされて、落ち着いた。

 それが怖かった。自分の思考が支配されている。それなのに、離れられない。


 結局、僕たちは、村のど真ん中でしばらくこうしていた。念願叶って想い人にすがりつく少女のように、他人からは見えていただろう。

 それはちがう。

 こんなのは……認められない。


 ▼


 馬車の荷台に揺られながら、膝を抱えてじっとする。

 そこそこ広い荷台の対角には、ミゼルがいる。僕たちは運よく、馬持ちの行商人に、荷物のほとんど載っていないタイミングで出会い、次の街までの護衛をやらせてもらっていた。

 あの出来事から一日経って、ぐつぐつのお湯で茹でられた頭も、少しは冷えた。

 チョロイン、っていうスラングがある。ハーレムものとかに出てくるちょろいヒロインみたいに、すぐ落ちる女の子のことだ。

 まさか自分がそうなるのか? とんだ駄作だ。


「……っ」


 ミゼルと目が合った。それで自分が、さっきから向こうの様子をチラチラとうかがってしまっていたことに、気が付いた。

 何か思うことがあったのか、ミゼルが近寄ってくる。


「あ……!」


 僕は、思わず後ずさりして、彼から距離を取った。

 悪いけど、これ以上何かされるのはごめんだ。

 脳みそが溶かされる。


「……やっぱり」


 そう漏らして、ミゼルは傷ついたような表情をした。

 言葉からして、アスリカから自分に好意があることなど、やはり何かの間違いだった……とでも思ったのだろう。

 ……胸が、チクリとした。

 これは自分の良心なのだろうか。それとも、あのとき書き加えられた感情からくるものだろうか。

 それすら判断ができなくなっている。


 深呼吸をする。

 どうすることが、正解なんだろう。

 これまで通りの自分でいるために、こいつから離れていくべきか。

 それとも。

 魂を溶かすあの幸福感を受け入れ、この人の虜になるか。


 拒んでおきながら、視線が勝手に向こうへいってしまう。

 この男に、恋をしたからだ。いや、させられた。無理やりに。ミゼルが自覚していなくとも、彼は僕におそろしいことをした。

 許しがたい。見損なった。あってはいけない。自分がこんなやつなんかに。

 ……怒りや妬みを腹の中で沸かせ、ミゼルを睨む。

 そうだ。

 僕は――、


 僕は自分から、ミゼルのそばによって、彼の手に、自分の手を重ねた。


「ミゼル……」


 熱い息を吐く。喉が火傷しそうだ。


「……本当は、その。いろいろ悪だくみがあって、近づいたんだけど」


 今までの嘘とは全く異なる、何かのこもった言葉を、口にする。


「本当に、キミのこと――好きになっちゃった、かも」

「……!」


 ああ。

 言ってしまった。

 嘘がつけない。自分を統制できない。毒のような恋心のせいだ。


「だから……。………だから…………んっ」


 口を閉じ、ごくりと空気を飲む。

 ここから先を言うと、もう完全に戻れない。修正が利かなくなる。

 本当にこれでいいのか?

 予定と違うじゃないか。この僕アスリカがこんな、この前まで雑魚だった頼りない子どもなんかに負けて、優位を取られるなんてこと。

 そんなの、あっていいはずが――


「アスリカ?」

「あっ。うあっ? あ、あっ、あたし……っ」


 少し熱のある声でその名前を呼ばれると、僕の心は、あたしの身体は、あっさりと白旗を上げて屈服した。

 視線がぶつかり合う。もう逸らせない。

 僕は、ふるえる声をなんとか絞り出して、彼に懇願した。


「あたしの全部を、あなたのモノにしてほしい……」


 そうして、決定的なその言葉を、伝えてしまった。

 魂に植え付けられた衝動を自分のものと認め、自分の喉を通して、自分の口から吐露すると、しびれるような快感が背骨を駆け上がってきた。

 脳みそがびりびりする。お腹と胸の奥が、もどかしく疼く。

 ミゼルは。息を呑んで、僕にはわからない僕の表情を見て、それから顔を赤くして、


「いいの……?」


 と返してきた。

 求められているのがわかって、体が歓喜に震える。僕はあさましく発情して、こくんと頷いた。

 もはやこの身体はアスリカのものではなく、僕のものでもなく。目の前のオスのものだと、本来の持ち主に無断で決める。それだけで、お腹の奥から生まれた熱量が、全身に広がっていく。

 やった。

 達成感を覚える。なんで? なんの達成感?

 ……自分がこの人のものになれたことへの。そして、ひとりの少女の人生を、取り返しがつかないほど歪めたことへの、だ。

 他人を操る快楽。その逆に、支配され、隷属することの快楽。こんなもの、今日まで知らなかった。

 ああ。ああああ。

 しあわせだ。

 僕は、正解の道を選んだんだ。


 互いの手から熱を感じ、僕たちは笑い合う。結ばれたことへの、純粋な喜びだ。

 ここがゴールだった。そしてスタートだ。

 ミゼルの隣に座り、熱く見つめる。たしかな繋がりの心地よさを、心臓に感じた。



 ……だが、しかし。


「でもね。その代わり、お願いがあるの」


 ……この身体は、心は、タダではあげない。

 堕落させた代償を支払ってもらう。そうだ。僕の膨れ上がった支配欲は、アスリカひとりの人生を手に入れたくらいじゃ満たされない。支配されることの気持ちよさを知ってもだ。

 だから……、


「ミゼル。あなたも、あたしのモノになってくれるよね……?」


 等価交換、いや、安いものじゃないか?

 僕(あたし)を全部ミゼルにあげるのだから、ミゼルにもそうしてもらう。当たり前の話ではないだろうか。

 ハーレム主人公。冗談じゃない。

 そんな魅了の力を隠し持っているんだ、もう他の女と口をきくこともさせない。触れることなどもってのほか。キミの声は僕のもので、キミのその手は僕だけが触れられるものだ。


 いつからか僕たちは、互いに、甘ったるくてしつこい、どろっとした汗をかいていた。

 やがてミゼルは……、林檎のように紅い顔で、僕のものになることを了承した。

 たぶんきっと、自分の顔も、眼の奥も、同じように。火が燃えるような色に、なっていただろうと思う。


 ▼


 横並びで馬車に揺られながら、顔は見ずに、互いの温度を感じ合う。

 頭の重さを少年の左肩に預け、投げ出されたその手に、自分の細い指を絡める。ミゼルの手は、アスリカの手より、少しだけ大きかった。

 恋人繋ぎ。汗ばんだ手に力を入れると、これまでのようなこちらからの一方的な誘惑とは違って、向こうからもぎゅっと握りかえしてくれた。レスポンスの有無だけで、こうも高揚感が違うとは思わなかった。

 まるで小学生か中学生の恋愛みたいに、ただただ気分が浮ついて。互いの手が熱くなって、余計に汗が出た。


「ミゼル」

「うん?」

「すきだよ」

「……! ありがとう。ぼ、僕も……」


「ねえ。他の女の子と仲良くなったらさ……、もろとも、殺しちゃうかも」

「えっ。う、うん…気をつける、よ」

「約束だからね」


「ミゼル。あたしをこのパーティーから追放なんて、しないでね」

「ん。さすがにそれは、こっちのセリフなんだけど」

「……あのときはごめんなさい。でも、もうミゼルを追放なんてしない。あんなことは起きないよ。だって……」


 内から溢れてしまいそうな熱を視線に込め、ミゼルの目を見た。

 綺麗な碧眼だ。そこにはきっと、アスリカの姿が映っている。それでいい。僕(あたし)だけを見ていれば良い。

 僕は、これまでの自分の人生で一番、愉快で嬉しくて、切なくて愛おしい気持ちで、笑った。


「もう一生、ここから逃さないから……」


 この二人きりのパーティーから。自分の隣から。一歩も外には行かせない。

 ほんの一瞬、ミゼルの目の奥に、おそれのようなものが垣間みえたのを、ミゼルに夢中になったあたしは見逃さなかった。

 バカだなあ。かわいいなあ。

 後悔しても、もう遅いよ。キミが悪いんだ。

 ずっと二人だけで、この世界を冒険しよう。

 あたしの大好きな、主人公くん。


(了)

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