殺戮オランウータン戦国夢散華

とくぞう

第1話



 織田信長の小姓であった森成利、通称蘭丸が猩々、即ちオランウータンであったことは今となっては論を待たない。

 鬼武蔵の異名を取る猛将森長可は別面無邪気といって良いほどに単純な男であり、我が息子が紅毛長膊の猩々として産まれたとき、何一つとして疑問を抱かなかった。

 むしろ「猩々というものは腕が長くてよい」と考えていた。

「剛力であるのも、良い。見よ、この紅毛の見事なこと。まるで平時から毛の陣羽織を纏っているかのようではないか。これならば人一倍の働き、いや、猿一倍の槍働きもできようというものよ」

 蘭丸が信長の元へ奉公に上がったとき、既に齢十二を数えていた。常人ならばまだ尻の青い小僧っ子だが、オランウータンにとってはまさに男盛り。父と共に主君の前にあらわれた蘭丸はうやうやしく頭を下げ、父に習ったとおりの口上を述べた。

「ウホッウホホホッホホッ、ウホホホッ」

 この大胆不敵な口上は信長を大いに満足させた。天下人であると同時に一代の歌舞伎者でもあった信長は膝を叩いて呵々大笑した。

「なるほど、鬼武蔵の子もまた鬼、いや、大猩々であるようじゃ!」

「ウホホホッ、ウホッウホッ」

「よい、よい。その紅毛に免じて無礼は許す。しておぬしを何と呼ぶか……」

「ウホホホッ!!」

「なんと、唐ではおぬしのような大猩々をオランウータンを申すか。幼名は乱か。丁度良い。これから儂はおぬしを『お蘭』と呼ぼう。良いな、お蘭よ!」

「ホーッ!ホーッ!!」


 その後お蘭は信長から殊の外寵愛を受けたが、収まらなかったのは信長股肱の臣である明智光秀であった。

「大殿は乱心めされたのか! あのお蘭と申す者、どこからどうみてもオランウータンではないか!」

 にもかかわらず信長の家臣たちは誰ひとりとしてお蘭の正体を疑問に思う様子もない。

「あのオランウータンめ、軍議の場で大殿の背に登って髷のノミ取りをするだけでは飽き足らず、宣教師からパパイヤやバナナをねだりとる、庭の松の木にぶら下がって激しくわしを威嚇する、何もかもやりたい放題ではないか」

光秀の親友である細川藤孝は、激昂する友をこうなだめた。

「それも可愛げのうちであろうよ。何しろオランウータンのやることだ、大殿も甘く見ておられるのだ」

「猩々とはいえ小姓ごときが分を弁えるべきであろう!」

 藤孝は光秀に同情の目を向けた。

「光秀、見苦しいぞ。大殿をオランウータンに寝取られたことがそんなにも不服か。言うておくが男根の長さの問題ではないぞ。お蘭殿の男根は、なにしろ二寸(6cm)にも足らぬという。それに寝間で負けたというのならば、それだけおぬしの閨振る舞いが不味かったということであろう」

 反論の言葉を見つけることができなかった光秀は、激しく木を揺さぶりながら藤孝を威嚇した。せめても主君の愛を取り戻したいとお蘭を真似て稽古を重ねる光秀のいじらしい心がそこにはあった。


 やがて本能寺の変。

 深夜、突如として挙兵の報を聞いたとき、真っ先に外へと飛び出していったのは蘭丸であった。翻る旗印に桔梗紋を見た蘭丸は、愕然とするあまり歯茎を向いた。だが蘭丸の帰還を迎えた信長の様子は奇妙に静かなものであった。

「ウホホッ!! ウホッウホホホッ!! ホーッ! ホーッ!」

「そのように騒ぐでない、お蘭。あのキンカン頭め、いつかはわしの首を取りに来ると思うておったわ」

 微笑する信長をお蘭は呆然と見上げた。人間の、それも男と男の心の機微というものは、とうていオランウータンの理解が及ぶところではなかったのだ。

「おぬしは落ち延びよ、お蘭。そして宣教師の船をたよりブルネイへと落ち延びよ。そこで1匹のオランウータンとして静かに生を全うせい」

「ホーッ! ホーッ!!!」

「くどい! これはオランウータンにうつつをぬかして天下を逃した愚かな男の最後の命じゃ」

「ウホホホッ!!ウホッ!!」

「そのように激しく木の枝を揺すって威嚇するな、お蘭。おぬしも武士の倅ならば、いやさ、わしの小姓ならば聞き届けてはくれぬか」

 珍しくもしんみりとした様子の信長に、お蘭は思わず声を失った。

「ウホ……」

「ふふ……唐渡りのドリアン、おぬしと二人で一つを別けおうて食うことができなんだことだけが心残りよ。お蘭、ブルネイに戻った暁にはわしのことなど忘れ、一人で存分にドリアンを食うがよい」

 微笑みながらそう言い残し、信長は後ろ手に襖を閉めた。お蘭は廊下に毛深い手を突いてただ落涙した。信長が苦心を重ねて手に入れたドリアンを目にしたとき、喜びのあまり片手に掴んで庭木に駆け上り、そこで一人で平らげてしまったという思い出が鈍く胸を貫いた。日本に初めて輸入されたドリアンであったというのに。


 本能寺、炎上。

 しかし光秀の天下はほんのわずかであった。電光石火の勢いで備中高松より京へと帰還した豊臣秀吉は山崎の戦いにて明智の軍を攻め滅ぼした。後に言う三日天下である。ほんのわずかな手勢と共に敗走しながら、しかし、光秀は運命の皮肉に打ちのめされ、もはや再起の意志は残されてはいなかった。

「ふふ、ふ……オランウータンの後は猿か。わしはつくづく猿に恨まれる星の下に産まれていたものと見える」

 竹林に覆われた山肌を逃げ行く明智の手勢。このままでは落ち武者狩りの手に落ちるのも時間の問題かと思われてた。しかし彼らの足を止めさせたのは、竹林を揺るがすような猿吼であった。

「ホォーーーーーーッ!!! ホォーーーーーーッ!!!」

「な、何やッ」

 何奴、と誰何するまでもなく、雑兵の一人が釣られた魚のように頭上の木々の中へと消えた。うろたえる兵ども。次の瞬間、また次の一人が消える。間もなく首をへし折られた死体が地面へと投げ落とされた。

「おぬし……生きておったのか」

 頭上を激しく飛びまわる気配を見上げながら、光秀は呆然とつぶやいた。乾いた笑みが漏れた。しかし、笑いは次第に大きくなり、ついには狂笑へと変わる。光秀は笑いながら刀を抜いた。

「哀れよな、蘭丸! 所詮は畜生、本能寺で大殿と最後を同じくすることもできぬとは! わしは違うぞ! わしは大殿を殺した咎で、同じ火炎地獄へと落ちるのじゃ!」

「ウホホーーーーッ!!!」

 木から飛び降りた蘭丸の腕は振り下ろされる太刀をかいくぐり、握り合わされた拳が光秀の頭を強打した。光秀は声を出す間もなく絶命した。

 そして森は静けさを取り戻したが、しかし、後に残るのは哀しみばかりであった。

「ウホッ……ウホッ……」

 蘭丸はしばしその場にうずくまっていたが、やがてノロノロと近くの木へと這い上がる。そして最後に悲しげな猿吼を響かせると、どこともしれず山の奥へと消えていった。

 蘭丸のその後を知る者は誰も居ない。

 後に残されたのはただ、『明智光秀を殺し信長の仇を討ったのは殺戮オランウータンであった』という悲しい伝承のみであった。

 

 

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殺戮オランウータン戦国夢散華 とくぞう @zyukai

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