Chapter2. 明里と師匠2

「こんにちは」

 カラカラっと引き戸を開けて、メアリは慣れた風に中へ入る。


 メアリの師匠、明智雫あけちしずくは経営が傾かないのが不思議なほどのオンボロ古書店を個人経営している。未だに戸の滑りも悪いし、通販組合があれど立地も良くはない。


「あ、アカリさん。いらっしゃーい」

 明るい声でメアリを「アカリ」と呼び応答するのは、アルバイトの今中祭いまなかまつり

 メアリとは違う大学に通い、テニス部に所属している。大会でもそこそこの好成績を残すらしいが、メアリは寡聞にしてその事実を知らないでいる。


 一つ付け加えるなら、彼女には部内の人間関係で嫌な経験があり、チーム競技を頑なに拒絶中だ。故にテニスも絶対にシングルスに拘る。

 スポーティな髪型なのは、汗も多量に掻くし邪魔だから。黒髪のままなのも染めるのが面倒という一点。定期的な美容院代と手間も煩わしいと彼女は言う。


 髪の長いお洒落な選手も年々増えている。が、どうしてもそこを犠牲にした方が楽で練習に集中出来るから、と祭はあっけらかんと自然体。

 見た目にあまり意識が向かない性格なのかもしれない。丈はごく普通のスカートでクルーソックスなのも、ただ脱ぎ着しやすい物を穿いているだけ。


「ああ、メアリか。君英から連絡は入っている。そら、それだろう」

 側にある冊子の束を差して雫が言う。

「え、もう出してくれたんですか。流石、師匠は仕事が早い」


 洋書なので読書好きの祭でも興味を示さないらしい。公の流通に乗らないアングラな会誌なので助かった。無造作な師匠に対しては、魔術の秘匿をこの人はなんと心得ているのか、と内心メアリはヒヤヒヤしてしまう。


 即座に鞄に仕舞ってから師匠に目を転じる。店主はいつもカウンターの奥に陣取っており、片時も本から目を離さない。


 彼女のモットーは、ジーンズを毎日ローテーション制で着回して穿く事。

 自らのファッションアイデンティティを女性ジェンダーに寄せ過ぎず、如何に女性として矜持を保つのか、といった悩ましい努力があるからだろう。

 メアリはずっと、しがない古書店経営じゃいつまで経っても高い手術費用なんて稼げやしない、と愚痴を聞かされてきた。借金は基本したくないとも。


 父も師匠も資産運用などの技術はからきしだ。父の場合はそれでも銀行員として最低限の知識はあり、師匠にも知恵を貸しているようだが。

 師匠自身、クリニックでの治療は定期的に続けているようで、身体的な悩みは長い期間掛けて折り合いを付けたと強がるが、あまり自分の体を見たがらないらしい。

 髪は今も自前。幼い頃、父とまだ健在だった母に、胸の膨らみを得た時や生理的な面倒が徐々に無くなっていく経過を、嬉しそうに報告していた記憶がある。


「祭ちゃん、大学はどう? 一般教養だからって、手を抜いて遊んでたら駄目よ」

 えへへ、と柔和な笑みで祭はにこやかに返事をし、

「だいじょーぶですよー。アカリさんほど優秀じゃないですけど、アタシだってもうそろそろ二回生になりますし、真面目に授業には出てるんですからっ」

「まだ春には早いよ祭。私はアンタのその大雑把過ぎる所は買うがね」

「へへー。店長に褒められちゃったっ。これでも毎日秒で寝て、朝までグッスリ寝られるのが自慢なんですっ!」


 そう言い、さぞ誇らしそうにエッヘンと胸を張る。人生楽しそうだ。

 だがメアリはこの子の単純さに、時々救われる気持ちになる。それは無理にでも前を向こうとしている師匠にも良い影響がありそう。


「で、なんだいまた。こんな本。クロスくらいのもんだと思ってたよ、マニアックな金にもなりゃしない本を読み漁るのは」

「? 何の本です、それ。あ、英語は苦手で、えへへー」


 照れたように取り繕った笑いを赤面して浮かべる祭。それを見てメアリは無難にこう言う。そして、眉毛の辺りを無意識にさすっていた。


「外国の怪談本よ。この店にもそういうアンソロは時折入ってくるの。ここは入荷も売り物も、何でもとは言わないけど幅広くニッチな在庫が強みでしょ」


 うんうん、と太陽のような明るさで頷いてくれる祭。短く強度のある髪で朗らかな笑みを浮かべる様は、いたって健康そのもの。

 これは彼女の特権であり最大の武器だ。彼女にかかればどんな人間も陥落して、悪巧みが出来ないのではないか、とこの子のぶれない自然な柔らかさに感心する。


「なるほどー。怖い話って最近人気でいっぱい出てますよねぇ。アタシもこの本屋にはお世話になってますもん」


 スポーツをやっている人間には割合読書家が多いと、メアリは祭から以前聞いて驚いた記憶がある。その筋で著名なプロ選手も沢山いるそうだ。

 スポーツ選手は、何も考えずがむしゃらにただトレーニングをしていればいい時代は終わったとか。マネジメントや科学的な知見を用いて鍛えないと、効果的な体作りと戦略分析でも振り落とされて一流の成績を残せないんだと。


 祭も筋肉トレーニングの方法論、生活習慣や栄養管理について、本や大学の講義から学ぶ機会が多いと、目を輝かせて語っていたのをメアリは瞬時に思い出した。

 彼女もどうやら、トレーニングとか自己鍛錬ならとことん突き詰めるらしい。それくらいマジな感じのトーンで捲し立てられた熱意は尋常じゃなかった。


「メアリ。アンタ、都市伝説でも調べようってのかい。また実際の奇天烈騒動なんかに首を突っ込まないといいけど」

「あははー。やっだなー店長。お化けとか宇宙人とか全部作り話ですよー」

「へえ? どうしてそう言い切れるの。祭ちゃん」


 明らかに信じていない口ぶりの祭に、メアリは少し悪戯っぽくからかってみる。

 この女がニヤと笑うと洒落にならんな、と内心雫は溜息をき呆れている。あれは平気で他人をいたぶれる嗜虐心の持ち主だ。


「えー。だってフェルミのパラドックスってあるじゃないですか。超能力もESP実験の歴史が再現性の無さを証明してますし。そりゃあ無邪気に信じられませんよー」

「祭の言う事には理があるね。こりゃメアリも一本取られた。だが、証明出来ない事が無いって証明にもならないよ」

「えー。悪魔の証明みたいですねー」


 二人のたわいない会話を聞きながらメアリは思う。確かに再現可能で、一般的に容易に実用化されなければ、それはまともに扱うべきものじゃない。

 一人だけが習得出来る特異な技法は、社会には長期的に何の益にもならない。

 そういう微妙な部分を、祭は無邪気に衒わず察知している。これが素直さに由来する賢さなのか、逆にスレてしまわなかったのが不思議なくらいだ。


 ――――それに魔術がそうだ。大魔術師の魔術だって、一応は理論化され弟子に伝わりもする。それが継承の困難な高度な術式だったとしても。

 しかしまぁ、魔術にも一部の高位の術者や個人にしか使用出来ない、伝説のように逸話や概要だけ伝わっているものはある。


 ――――それが、例えば固有魔術式と呼ばれる技術。


 名前そのものズバリ、それは個人が到達した、最大にして最高の魔術の結晶。

 術式の究極である。伝家の宝刀と言ってもいい。

 故に危険指定を食らい、協会から付け狙われる魔術師も存在するという。

 浅倉家にも過去、そこへたどり着いた魔術師はいたらしいが、今ではその技術は失われてしまい、それに使用したとされる杖が現存するのみ。


 ――そう、浅倉家も昔は名家だった。既に没落して久しい末席の魔術師だが。

 だからなのだろうか。君英にもプライドはあり、理論や知識を豊富に持ち研鑽を絶やさない。それ故に学術機関とは切れていないし、探究心は錆び付かない。

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