第七章 十二話 「振り向くことは許されず」

 幸哉が私有飛行機の男を待機させていた空き地は街の郊外の森林の中にあった。


「よし着いたぞ!」


「急げ!エジンワさんを降ろせ!」


 最後は舗装された国道を外れ、細い砂利道を進んで空き地まで辿り着いた幸哉達だったが、空き地の中央に駐機した飛行機まで二百メートルの距離に近付いたところで遂に耐久性の限界に達して動かなくなった二台の普通車を捨てることとなった。


 腹部に銃弾を受け、自力で立つことも困難になっているエジンワの容態に動揺を感じながらも、オルソジと二人でエジンワの両肩を介抱し、飛行機の方へと向かおうとした幸哉はふと視線の隅でエネフィオクが飛行機とは逆の方向を向くのを捉えて戦友の方を振り向いた。


「エネフィオク!どうするつもりだ!」


 弾切れになった機関銃を停車したシビックのボンネットの上にニ脚で固定したエネフィオクの後ろ姿に問いかけた幸哉だったが、戦友の背中に宿る決意の気配を目にした瞬間、返事を聞かずともエネフィオクのしようとしていることを青年は悟ったのだった。


「すまない……」


 友の無言の決心を理解した幸哉にそれ以上かけられる言葉は無かった。彼にできることはただ戦友がその身を犠牲にして稼ぐ時間を無為にしないことだけだった。


「行くぞ!オルソジ!」


 エジンワの肩を担ぎ、先導するヤンバの後を追って飛行機の方へと急ぐ幸哉達の気配が遠ざかっていくのを背中に感じながらも振り向きはしなかったエネフィオクだったが、彼の胸の中にも迷いや恐怖はあった。


 自分は二度と故郷には戻れない……。動かぬその事実が目の前にある絶望の中で逃げ出しそうになりながらも、しかしダンウー族の機関銃手はその場に踏み止まった。もう二度と会えないであろう親友達に別れの言葉を告げることも無く……。


「デイヴ、レティーフ!ここは俺達で押さえるぞ!」


 機関銃の弾帯をFN MAGに装填したエネフィオクは自分とともに残った二人の部下を鼓舞するように叫ぶと、道の向こうに現れるであろう敵の影に向かって、シビックの影からFN MAGの照準を合わせたのであった。





 車を捨て空き地の中央に駐機する飛行機まであと五十メートルと近付いたところで幸哉達の背後で激しい銃撃の音が鳴り響いた。


「エネフィオクさん達が……」


 一緒にエジンワの肩を担ぐオルソジが呻くように声を漏らしたが、幸哉はその声が自身の胸を掻き乱して生んだ迷いを断ち切るように叫んだ。


「振り向くな!」


(そうだ。今は振り向いてはいけない。決して何があっても……。例え、背後にどれほど大切なものを置いてきたとしても……)


 自分自身も残してきた戦友達の様子が気になる衝動をその一心で押さえつけた幸哉が飛行機まで十メートルの距離に辿り着いた時だった。


 地面を揺さぶる激震とともに背後から強風のような衝撃波が打ち付け、危うく前向きに転倒しそうになった幸哉達の鼓膜に遅れて届いた爆発音が震わしたのだった。


(エネフィオク……!)


 背後の親友達の身に何が起こったのか、それを見届けたい衝動が全身を駆け巡る。だが、それでも幸哉は振り返らなかった。エネフィオクが最後に背中で見せた決意、それを無駄にしないために青年は走り続けたのだった。


「突破されたか!」


 エネフィオク達が防衛していた方を振り向き、悪態をついたヤンバは幸哉の肩を叩き、その背中を押すと、爆発音が聞こえてきた方へと逆戻りに走ったのであった。


「少佐!」


「気にするな!行け!俺も後で追いつく!」


 そう叫んだヤンバの悲痛な声に振り返る動きを封じられ、飛行機の方へと走った幸哉の背後でヤンバの携行するベクターR4が乾いた銃声を単連射で響かせた。


 追っ手がすぐ間近に迫っていることを目の前で展開されている状況から悟った飛行士の男は既に複葉機のコクピットに乗り込み、レシプロエンジンを起動させていた。


「俺達のことは気にするな!滑走を始めろ!」


 風防を開き、こちらの様子を気にしている飛行士の男に叫びかけた幸哉は先に機内へと乗り込んだオルソジと協力して、ゆっくりと滑走を始めたアントーノフAn-2のキャビンの中へとエジンワの体を運び込んだのであった。


(ヤンバ少佐……!)


 エジンワを機内に乗せたところで、幸哉は自分達を庇うために敵へと走って行った上官の方を初めて振り返った。その視線の先では飛行機の方へと走って戻って来ていたヤンバが幸哉に早く機内に乗り込むように手振りで伝えている姿があった。


(エネフィオク、すまない……)


 その時になって初めて後ろを振り返った幸哉はヤンバの後方百十数メートル後ろから追い掛けてくる多数の歩兵、その更に後ろで燃え上がる車両らしき影を目にすると、戦友の死を確信して目を閉じたのであった。


「少佐が……!」


 弾切れになった銃を捨て、こちらへと走って来るヤンバと飛行機との距離は二十メートル程……。だが、その後方からは多数の追っ手を乗せたジープやトラックが荒れた大地の上を砂塵を撒き散らしながら追撃してくる光景があった。


「私は気にするな!飛行機を離陸させろ!」


 声はレシプロエンジンの雑音に妨げられて聞こえなかったが、確かにそう叫んでいると身振りで分かったヤンバの指示に頷いた幸哉はコクピットの方を向くと、「早く離陸させろ!」と叫んだ。


 その指示に従い、加速を始めたアントーノフAn-2のキャビンの陰から体を乗り出した幸哉はヤンバの後を追って疾走してくる車両群に向かって五六式自動小銃を撃ち込んだ。


 距離は百メートル前後離れている上、荒野の中を走る飛行機のキャビンの中から相手も激しく動いている車両を狙い撃つのは至難の業だったが、数々の戦友の犠牲と思いを背負っていた幸哉は簡単には諦めなかった。


「少佐、あと少しです!」


 徐々に加速する飛行機まであと数メートルまで近付いたヤンバにオルソジが叫んだ瞬間、幸哉の撃ち込んだ一発の銃弾は八十メートルの長距離を飛翔すると、銃架に搭載した機関銃を掃射しながら疾走してきていたランドローバーの運転手の額に突き刺さったのであった。


 運転手を失い、路面の悪い荒野の上で左右に揺れ動いたランドローバーはそのまま横転すると、次の瞬間、後方から突進してきたM35大型トラックに弾き飛ばされ、各種部品を散らしながら鉄屑の塊になった。


「オルソジ!少佐の手を!」


 飛行機まで五十メートルの距離に近付いたCJ-6ジープの荷台から撃ち込まれたSPG-9無反動砲弾がアントーノフAn-2の尾部を掠めて飛翔する中、追撃してくる敵車両に向かって銃撃を続けた幸哉は叫んだ。


「任せろ!」


 左手で機内の金属突起を掴み、身を乗り出した状態で右手をすぐそこまで追いついてきているヤンバへと伸ばすオルソジの姿を視界の隅に捉えながら銃撃を続けた幸哉は胸の中に渦巻く焦燥を何とか冷静に押さえつけようとしていた。


 加速する飛行機の速度とヤンバの走る速さの限界を考えれば、彼らが上官を救うことができるのはあと数秒の間だけだった。


「少佐!私の手を掴んで下さい!」


 自動小銃の照準の先に意識を集中させようとしても、無意識に幸哉が視線を向けてしまうその先で飛行機のスライドドアのすぐ真横まで走ってきたヤンバは自身に伸ばされた部下の手を掴もうとしていた。


 しかし、左肩と左腰に銃弾を受けたらしいヤンバの体は体力の限界に達しており、あと少しのところでヤンバの疾走は失速し、彼と幸哉達との距離は徐々に離れていってしまった。


(このままでは駄目だ……!)


 体力が底をつき、生きることも諦めようとしている上官の姿を目にした時、幸哉は構えていた五六式小銃を機内に放り捨て、自身も機体から半身を乗り出すと、機体後部へと失速していくヤンバに向かって精一杯右腕を伸ばしたのであった。


「諦めるな、少佐!あなたにはまだやり遂げなければならない任務があるはずだ!」


 咄嗟に出た言葉……、階級や身分を超えた同じ兵士としての覚悟を思い起こさせる幸哉の叫びはレシプロエンジンの轟音の中でも確かにヤンバに聞こえていた。


 伏せかけていた頭を再び上げ、幸哉達の方を凝視したヤンバは最後の力を振り絞ると、再び部下達の方へと追いついてきたのであった。


(そうだ……!そのまま……、そのまま走って来い!)


 追撃してくる敵車両からの銃撃が飛行機の機体に直撃して爆ぜる中、自分達の危険も顧みず、機体から身を乗り出した幸哉とオルソジは近付いてくる上官の姿を右手を伸ばした状態で息を呑んで凝視した。


 五メートル、三メートル、一メートル……。もう既に離陸のための最終加速を始めようとしている複葉機に徐々に近付いてきたヤンバは最後の力を振り絞って幸哉達の方に向かって右腕を伸ばしてきた。


「オルソジ!掩護、頼む!」


 青年がそう叫ぶよりも前に自動小銃を手に取り、追撃車両に向かって銃撃を始めたオルソジの横で幸哉は精一杯の活力と忍耐を見せてくれた上官の右手に向かって限界まで腕を伸ばした。


 あと少し……、距離は届いている。しかし、震動する機体の揺れでヤンバの腕を掴むことができない状況に苛立った幸哉は機内を掴んだ左手と鉄床の上で踏ん張った左足以外の体の殆どを宙空に投げ出して、上官の方へと身を乗り出したのだった。


「幸哉……!」


「オルソジ、引っ張ってくれ!」


 一歩間違えれば自身の安全も危うい行動だったが、幸哉にとってその行動は何があっても生きようと奮闘する姿を見せてくれた上官に対する敬意でもあった。


 一気に加速を始めた飛行機に置いていかれそうになったヤンバの右手を幸哉は既のところで掴んだ。


(助けられた……)


 多くの仲間を失い、自身の無力さを痛感することしかできなかった幸哉が一瞬の安堵を感じた瞬間、彼の腰を掴んだオルソジが二人の体重の負荷に負けぬよう全力で幸哉の体をキャビンの中へと引きずり込んだ。それと同時に幸哉も掴んだ上官の腕を一気に引き寄せたのであった。


 確かに掴んだヤンバの手の暖かさに、失うことしかない、何もできない無力感に苛まれていた絶望の中で幸哉はその瞬間、希望の光を感じることができていた。滑空音を遅れて引き連れてきた.五十BMG弾がヤンバの右腕を肩の付け根から引きちぎるまでは……。


(嘘だ……)


 余りに急激に展開された事態に理解を追い付かせることができない幸哉の顔面に大量の血飛沫が飛び散り、彼の右手には根元から切断されたヤンバの右腕だけが残された。


(そんなあと少しで……)


 情けない現実逃避の念が冷静な思考を妨げる幸哉の目の前で片腕を失ったヤンバの体は転倒すると、砂煙を上げて助走する飛行機の後方へと消えていった。


「少佐ー!」


 無意味だとは分っていても叫ばざるを得なかった幸哉とオルソジだったが、彼らに喪失感と絶望感をまともに感じる時間は無かった。


 激しい金属の破裂音とともに無数の銃弾が幸哉達の顔を出すキャビンのスライドドアの周辺で跳弾したのだった。


 我に返り、後方を振り返ると、ヤンバの体が消えていった方向に三十メートルの距離にまで追いついてきた二台の敵車両が銃撃を撃ち込んでくる光景があった。


(じゅ、銃を……)


 あと少しのところで上官を助けられなかった失望感と絶望感に打ちひしがれそうになりながらも、キャビンの中に投げ捨てていた自動小銃に何とか手を伸ばそうとした幸哉だったが、ブローニングM2重機関銃を掃射してくるトラックに並んで追撃してくる敵のジープは車体後部に搭載した大型無反動砲の照準を既に幸哉達の飛行機の方に向けていた。


(間に合わない……!)


 ヤンバを救うことに夢中になっていた余り、追撃者達の存在を忘れていた代償が死の気配とともに目の前に迫り、幸哉が微かに身じろぎした瞬間だった。


 砂塵を勢い良く巻き上げ、猛烈な銃撃とともに追撃してきていた二両の車両の間で突然、閃光が走り、次の刹那、砂塵の霧を吹き散らして立ち昇った炎の塊が衝撃波の壁となって、ジープとトラックを横転させたのだった。


(一体、何が……)


 目の前で突然起きた出来事が理解できず、唖然とするしかなかった幸哉達にも遅れて到達した衝撃波の波は襲ってきた。そしてその瞬間、それまで荒野の上を加速していた飛行機はその空気の壁に後押しされるかのようにして重たい機体を宙空へと浮かび上がらせたのであった。


「よし!行けるぜ!」


 コクピットから飛行士の男の陽気な声が聞こえてきたと同時に十分な揚力を得たアントーノフAn-2は数秒の間に一気に高度を取った。


 開いたままのスライドドアの脇で途方に暮れたまま座る幸哉達の視線の先で爆発の黒煙を二箇所から立ち昇らせる荒野はみるみる遠ざかっていった。


「少佐が助けてくれたんだ……」


 幸哉の傍らでオルソジが呟いた。確認する術は無かったが、それしか考えられなかった。


 重機関銃弾に右腕を弾かれ、死の間際へと引きずり込まれていったヤンバはしかし最期の瞬間まで戦士として生きることを止めず、部下達を生かすために手榴弾で自決したのだった。彼が身につけた手榴弾全てを誘爆させて起こした爆発は彼の最期の願い通り、幸哉達を助けたのであった。


(助けられなかった……、みんな……)


 一瞬のうちに小さくなり、やがて雲の下に消えていった荒野の上で死んだ仲間達の最期の姿を幸哉は呆然としたまま思い返した。


 未だに半ば現実のこととは思えない戦友達との永遠の別れに彼はまだ感傷に浸っていたかったが、幸哉には命を落とした仲間達のためにも成さねばならないことがあった。


「幸哉、エジンワさんが!」


 オルソジのその悲痛な叫び声が茫然自失としていた彼の意識を引き戻したのであった。


 我に返り、急いでキャビンの内部を振り返った幸哉の視線の先には床の上に大量の血液を流したエジンワが負傷した腹部を苦悶の表情で押さえ、貨物室の壁にもたれている姿があったのだった。

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