第五章 十九話 「投影」

(やっぱり、こいつだったか……)


 幸哉は以前、自身を半殺しにしたプロの傭兵と対面し、緊張と恐怖とともに小型ナイフを構えていた。


 左肩を撃たれて追い詰められた状況の中でも最大限に働かせた知恵で敵の右肩と右腿に負傷を与えた彼だったが、それでも目の前にいる殺人者と自分には圧倒的な実力差があるのを感じ取っていた幸哉はナイフを構えた右手を微かに震わせていた。

 そんな幸哉の様子を感じ取ってか、獲物を狙う肉食動物のように舌舐めずりしたチェスターは負傷した痛みも忘れているかのように満足げな笑みを浮かべた。


(こいつは強い……。それでも……)


 以前の戦いで全く歯が立たなかった苦い記憶と死の淵まで追い込まれた恐怖を思い出した幸哉は今にも逃げ出しそうになる弱い内心を矜持と闘争心で抑えていた。


(こいつは倒さなければならない人間だ……!)


 目の前に立つ男が湧き立たせる快楽殺人者の気配に胸中で断じた幸哉は胸に深く吸い込んだ息を吐き出すとともに地面を蹴って、前へと飛び出した。


 戦闘の技術と経験で自分より圧倒的に劣っているはずの幸哉が先手を打って突進してきたことに先の予期できぬ戦いが生む愉悦を感じたチェスターは満足げに頬を歪めるとともに、捕食者のような俊敏な動きで上半身を突き出すと、ローデシアン・ブッシュナイフの長い刀身を肉薄する幸哉の首に向けて振り下ろした。


 それは目で追うだけでは反応できない高速の斬撃だったが、この数ヶ月の間に積んだ訓練と実戦経験でチェスターの刃の動きを読んでいた幸哉は腰を低くすると、紙一重の差で頭の上を走った刃を避けた。


 敵の斬撃をスピードを落とすことなく回避した幸哉はチェスターの懐に飛び込む。しかし、歴戦の傭兵もそこまでの可能性は既に考えていた。


 自分のナタの一撃を回避した幸哉の俊敏な動きに戦闘の悦びを感じたチェスターは左足の蹴りを前へと突き出した。その全力の蹴りで突進してきた幸哉の顔面を蹴り上げ、標的が後ろによろめいたところをブッシュナイフの一撃で首を取る……。チェスターは次の瞬間には目の前にあるであろう勝利と殺人の満足感に頬を歪ませながら、左足を突き出したのだった。


 だが、その蹴りが打撃するであろう標的の顔面を捉えることはなかった。それどころか、敵の体の一部も触れることなく、空振りに終わった大振りの蹴り技の反動を受け、体勢を崩したチェスターは久しく感じていなかった焦燥感を胸に抱いたのだった。


 こいつは以前とは違う……、そう思った直後、快楽殺人者の傭兵の左脇腹に痛みが走り、予期していなかった敵の動きに呻き声を上げたチェスターが反撃に振り下ろしたブッシュナイフの一撃を後ろに下がってかわした幸哉は再び敵の傭兵との間合いを取った。


 敵が繰り出してきた一発目の斬撃は最初から囮の攻撃だと読み切っていた幸哉はチェスターの続く蹴りの一打を体を後ろに退かせることで回避し、その後で大振りの技の反動で隙ができた敵の懐に飛び込み、ナイフの一撃を突き立てていたのだった。


 敵の動きを全て読み切った観察眼に加えて、右足を負傷している敵が左足の蹴りを繰り出した後によろめくことまで予想していた洞察力の高さを見せつけた幸哉の成長にチェスターは自分が標的を侮っていたことを思い知らされ、恐怖さえ感じた。そして同時に格下のはずの相手に自分が弄ばれている現実に対して、激しい憤怒を湧き上がらせた彼は狂気の叫び声とともに、間合いを取っている幸哉に飛びかかったのであった。


 だが、冷静さを失っては天性の才覚を開花させつつある幸哉を倒すことなど不可能だった。またしても繰り出されたブッシュナイフの斬撃を三連続でかわした幸哉は紙一重の回避と同時にチェスターの右腕に少しずつ反撃の切り傷を与えていった。


「くそが……!」


 自分は全くダメージを与えられず、格下の敵から一方的に攻撃を受けている状況に苛立ったチェスターは禁じ手の一手を打った。間合いを取った幸哉が再び突進してくる瞬間、自分の右腿に刺さった小型ナイフを引き抜いたのである。大量の出血を誘発しかねない危険な行為だったが、追い詰められたチェスターには既に冷静な思考など無かった。


 突進してくる幸哉に向けて、太腿から引き抜いた小型ナイフを投げつけたチェスターは恐らくはその一撃を避けるために足を止めるであろう幸哉の首を払うため、敵に向かって走り出しながら、右手に握ったローデシアン・ブッシュナイフを振り上げた。


 しかし、今度も幸哉の行動は傭兵の予想を遥かに超えるものだった。彼は投げつけられた小型ナイフを避けなかった。自分に飛翔してきた刃をその体に受け止めたのである。


 既に銃弾を受けていた左肩に突き刺さったナイフの痛みに幸哉は一瞬、小さな呻き声を漏らしたが、突進のスピードを緩めることはしなかった。


 そして、唖然とした表情のまま対応の動きが一つ遅れたチェスターに肉薄すると、右腕から目の前の敵の顔面に全力の殴打を繰り出したのであった。


 チェスターに驚き以外の感情や思考を持つ時間は与えられなかった。


「あ?」


 ただそれだけが予想外の行動を取った敵に対する彼の漏らした声だった。


 次の瞬間、愕然と表情の固まっていたチェスターの顔面に幸哉の右拳がめり込み、傭兵の眼窩と鼻の骨格を粉々に砕いたのであった。


 鼻血を吹き出し、意識さえも一瞬遠のいたチェスターは傭兵としてのプライドだけで足を踏ん張ると、自分の前にいるはずであろう敵に対して、胸の中の憎悪を全て込めたブッシュナイフの一撃を奇声とともに振り下ろした。


 しかし、その攻撃も幸哉の影を掠めることすら出来なかった。代わりに今度は傭兵の背後に回っていた幸哉が繰り出したナイフの一閃がチェスターの左肺を背中から突き破ったのだった。


「貴様ーッ!」


 目の前に迫った死に対する恐怖と蛆虫程度にしか思っていなかった格下に追い詰められている現状に対する憤怒を狂気の叫声に変えたチェスターは血反吐を吐きながらも、振り返り様の反撃を加えようと、ローデシアン・ブッシュナイフを背後に振りかぶったのだったが、その動きよりも幸哉が繰り出したナイフの一閃の方が早かった。


 二つの刃が交わった高い金属音の後、血肉を断ち切る音とともに大型のブッシュナイフは宙を舞った、それを握っていたチェスターの四本の指とともに……。


「アァーッ!」


 悲鳴とも奇声とも似つかない叫声を上げたチェスターは母指以外の四本の指が第二関節より先を失った右手を握り締めると、理性を破壊する痛みの中で憎悪の視線を傍らの幸哉に向けた。


 次の瞬間、夜気を震わせる絶叫を上げたチェスターは地面に落ちたローデシアン・ブッシュナイフを無事な左手で拾おうとしたが、その動きも既に先読みしていた幸哉は最後の悪足掻きを見せようとする傭兵の横顔を全力の殴打で殴り付けたのだった。


「止めろ!」


 ブッシュナイフを手に取ったところで幸哉の打撃を受けたチェスターは間の抜けた呻き声とともに地面を転がった。既に満身創痍となり、地面に倒れ伏すしかない敵の傭兵を見つめて、幸哉は口を開いた。


「もう、お前に勝機は無い……」


 その言葉の重さが微かに理性を取り戻した傭兵にとって、どれ程の屈辱だったのか、兵士としては未熟な幸哉には想像しようもなかった。


 周囲を幸哉の援軍に駆けつけた解放戦線兵士達が取り囲む中、己が見下していた雑兵に敗れた屈辱に心を満たされたチェスターは何故か満足げに頬を歪めたのだった。その瞬間、敵兵の見せた場違いな表情に幸哉はいつか自分が辿るであろう兵士としての未来、苦悩を見た気がして心を微かに揺さぶられた。


(何だ……、この心の動揺は……)


 同情なのか、と幸哉は考えを巡らせようとしたが、運命の時間は彼の思考を待ってくれはしなかった。


 次の瞬間、左手にブッシュナイフを握り直したチェスターが断末魔の叫びとともに動物的な俊敏な動きで飛び出してきたのだった。幸哉は敵兵が最期に見せた捨て身の攻撃に身構えたが、チェスターが幸哉に肉薄するよりも先に周囲に展開していた解放戦線兵士達の銃が火を吹いた。


 無数のマズルフラッシュと銃声の中で数十発の銃弾を一身に受けたチェスターは数え切れない弾痕の空いた体を奇怪に変形させると、そのままうつ伏せの状態で地面に倒れ伏した。


(死んだ……)


 狂気と殺人欲求の中に残っていた兵士としての教示を見せつけた敵将の壮絶な最期に幸哉は自身の未来の姿を重ね合わせて呆然とするしかなかった。


(俺もいつかは、こんな風に……)


 地面に倒れたチェスターの死体に恐る恐る近付いた解放戦線兵士の一人が銃口の先で死体を突くのを見ながら、幸哉は己の犯した罪、そしてこれから犯す数々の罪の先にある自分の姿をチェスターに投影した。


"銃を一度、その手に握ったものは誰であろうと必ず地獄に落ちる"


 狗井がカートランドで残した言葉がチェスターの壮絶な死を目の当たりにして、急に現実味を帯びて胸の中に響いてきた幸哉の肩を大柄な手が叩いた。


「お前、こいつを殺ったのか……?」


 右足を負傷した体に大型の汎用機関銃を抱えたエネフィオクがチェスターの死体を見つめ、信じられないという風に呟くのを、傍らを振り返って見つめた幸哉は、


「いや、自分で死んだ……」


と答えたが、彼の意識はその場には無かった。


"銃を一度、その手に握ったものは誰であろうと必ず地獄に落ちる"


 改めて数メートル前に転がるチェスターの死体を見つめた幸哉の胸の中で狗井の声が反芻した。


(俺もいつかは……)


 多くの命が失われた戦闘、そうであっても世界には有り触れた戦闘の一つが終わりを迎えたズビエのジャングルの一角では東から差し込んだ陽光の光が空を包む夜闇を茜色の光の筋で照らしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る