第四章 二十四話 「崩れた塹壕の中で」

(死んでない……)


 意識を取り戻した幸哉が最初に抱いた認識はそれだった。


 視界は真っ暗だった。感覚も正常とは言えず、どこか体の浮き上がっているような浮遊感が襲ってくる。そんな中でも漠然と自分は死んでいないと知覚した幸哉は体を動かそうとしたが、その瞬間、全身に走った痛みに悲鳴にもならぬ呻き声を上げた。


 痛みだけではない、痛覚とともに浮遊感の無くなった彼の全身は何かに押さえつけられているかのように全く動かなかった。


(何だ……?)


 暗闇の中、息をしようとして口の中に入り込んできた異物の粒子を咳き込んで吐き出そうとした幸哉はその刹那、自分の身に起こった出来事を思い出したのだった。


(そうだ……。俺達は包囲されて……。それでプカラが飛んできて……)


 塹壕が崩れた……。そう思い出した瞬間、幸哉は自分が崩落した塹壕の土砂の中にいることを知覚してもがいた。


 しかし、全周から彼のことを押さえつける土の壁はびくともする様子はない。全く身動きのとれない、呼吸すらまともにできない中で幸哉は苦悶に満ちた絶望とその先にある死を直感した。


(今度こそ……、終わりか……)


 崩れ去ったバンカーの下敷きになって死んだジョニーの最期がふと脳裏に過り、自分も同じ運命を歩むのかと幸哉が覚悟した時だった。


"待っています"


 確かに耳の奥に聞こえた声に幸哉は生を諦念しかけていた意識を集中させた。


(誰だ……、この声は……)


 今となってはひどく懐かしい、小風のような優しい声……。その声が長い時間を一緒に過ごし、大事だった人の声だったことを感覚的には思い出せたが、誰の声だったかまでは不思議と思い出せなかった幸哉は土中深くに埋もれた中で言い様のない物悲しさに襲われた。


"いつまでも貴方を待っています"


(誰なんだ……、君は……)


 再び耳にいや、脳裏に蘇った声に幸哉は問うた。


"私はいつまでも貴方を待っています"


(待っている……。誰かが……。俺を……!)


 その人に自分は会いたい。だが、今は土深くに埋もれたまま、その人を思い出すことさえできない。その人に自分は会うことが二度とできない……。


 そう認識した瞬間、幸哉は胸の内から溢れ出した感情とともに声を上げて号泣していた。


 口と鼻の中に土砂が入り込んでも彼は泣き続けた。それだけが彼にできる最期の思いの昇華方法だったから……。


"私はいつまでも貴方を待っています"


(優佳……)


 再び脳裏にはっきりと聞こえた声に幸哉は遂に"その人"の姿を思い出した。その声、その姿、その優しさ全てを……。


(まだ死ねない……!)


 もう一度優佳に会いたい。会わないといけない……。そう胸中に念じた幸哉は嗚咽のまま叫び声を上げると、再び体を動かそうとした。


 だが、無情にも彼の体の上にのしかかった土砂は微動だにしない。それでも幸哉は叫び声を上げ続け、何とか体を動かそうとした。そんな繰り返しを五回ほど為した時だった。


「ここだ!ここに違いない!ここから声がするぞ!」


 微かにだが、はっきりと聞こえた力強い声に幸哉は親友の存在を察知した。


(カマル……!)


 そう気づいた時、幸哉は肺に残った空気を精一杯絞り出して叫んでいた。


「ここだ!やっぱりここから声がする!」


 その声と同時に幸哉の頭上で何かを削るような音が連続した。スコップで土を掘り返す音だ。


 そう気づいた瞬間、緊張の糸が切れた安堵のために意識が朦朧とし始めた幸哉は最後の力を振り絞って、再び全身に力を込めたのだった。


「掘るのを止めろ!自分から出てくるぞ!」


 その声が耳に聞こえ、スコップの音が止まった瞬間、先程よりかなり軽くなった土砂の壁を崩し、叫声とともに幸哉は土中から右腕を突き上げた。


「ここだ!手で掘れ!」


 その怒声とともに背中の上の土が取り除かれていくのを感じた幸哉は再び力を込めた。


 次の瞬間、土中から飛び出し、押さえるものが何も無くなった体を一気に地上へと表出させた幸哉は差し込む太陽の光に目を細めながら、新鮮な空気が肺の中一杯に吸い込むと、気管の中に入り込んだ土砂を咳嗽と嘔吐で吐き出したのだった。


「良かった!幸哉、無事だったか!」


 上半身だけ地表に出た幸哉が傍らを見やると、作業用スコップを片手に握ったカマルとオルソジが安堵の笑顔とともに座り込んでいた。


「カマル、オルソジ……。君達が……」


 呆然とした表情のままで混乱した頭の中、感謝の言葉を探そうとした幸哉だったが、カマルは顔の前で手を振ると、崩れた塹壕の縁に置いていたものを手に取って幸哉に見せた。


「これが君を助けてくれたんだよ」


 それは戦場には不似合いな紺色の帽子だった。


(父さんの帽子が……)


「これがあったお陰でここに君が埋もれていると分かったんだ」


 陽気そうな声で言ったカマルの言葉に再び父に救われたような気がした幸哉は涙を流しそうになったが、その前にもっと重要なことを思い出した。


「敵の攻撃は?」


 シルカの機関砲攻撃、炸裂する砲弾、急降下爆撃をかけるプカラ……、それらの存在を思い出し、飛び上がるようにして、急いで紛失した銃を探そうとした幸哉の肩をカマルが優しく叩いて止めた。


「もう戦わなくて大丈夫だよ」


 柔らかな声を投げかけた親友の言葉を幸哉はすぐには理解できなかった。だが、カマルが指さす方向、北方の空高くに煌々と輝く暗赤色の閃光を目にして全てを理解した。


「撤退信号……」


 政府軍の陣地上空に輝く信号弾の下では幸哉達に銃口を向けたシルカを始めとする車両群が撤退しており、空には撃墜を免れた二機のプカラが北方へと撤退していく光景が広がっていた。


(終わった……)


 安堵とともにその場に座り込んでしまった幸哉の肩を興奮した様子で揺すったカマルが歓声を上げる。


「勝ったんだよ、俺達は!」


 その声を聞いて、自分達が崩壊しかけていた防衛線を守り抜いたことをようやく実感した幸哉は親友に満面の笑みを返した。


「居たぞ!カマルとオルソジだ!幸哉も居る!」


 その声に陣地の陰に座り込んで勝利の余韻に浸っていた幸哉達が顔を振り向かせると、エネフィオクとソディックに両肩を担がれた狗井が歩み寄ってくるところだった。


(みんな無事だったんだ……)


 戦闘が終わった安堵と同時に仲間が皆無事だったことを知った幸哉は静かな喜びを胸に抱くのだった。

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