第四章 十七話 「彼らの歩む運命」

 六月二十五日……、十七日以来、政府軍部隊による直接攻撃は全くなく、時折迫撃砲による砲撃が撃ち込まれるだけの平穏な時間がカートランド要塞に流れていた。


「嵐の前の静けさじゃないよな……」


 青く澄んだ空を見上げ、どこか不安げにそう言ったエネフィオクの傍らに立っている幸哉は今、カートランドのすり鉢山の南側斜面に重い沈黙とともに直立していた。


 この日、敵の襲撃がない時期を見計らって解放戦線は要塞戦の中で戦死した兵士達の葬儀を敵の攻撃を受けない要塞の南側で行っていたのであった。


 敵に動向を悟られぬよう、弔銃も弔砲も無かった静かな葬斂で弔われた兵士達の中にはジョニー・エドゥアルドとネルソン・マレーの名前もあった。


(ジョニーさん……、ネルソンさん……)


 自分が兵士になると言った時からサポートし続けてくれた上官と、要塞での所作を教えてくれた友との思い出が頭の中に蘇り、咽び泣きそうになった幸哉は必死に涙を堪えながら、亡き戦士達の魂に哀悼の念を送った。


 "そう、落ち込むなよ"


 今隣にいればそう言ってくれるであろうジョニーの言葉が声が実際に聞こえたような気がした幸哉だったが、上官の死に感情を揺さぶられているのは彼だけではなかった。


「俺のせいだ……」


 葬儀から持ち場に戻る中で呆然とした表情でそう呟いたカマルの言葉の意味を理解できなかった幸哉は、「誰のせいでもないよ」と力無く言ったが、カマルは本気で何かを思い詰めている様子だった。


「軍曹、あの夜に言ってただろう?戦場で恋人の話をするのは縁起が悪いって」


「だからどうしたんだよ」


 親友の言いたいことが掴めず、困惑した表情で問うた幸哉に何かとんでもない過ちを犯してしまったかのような顔をしているカマルは真剣そうに続けた。


「だから、本当は死ぬのは俺のはずだったんだよ。でも、手紙を破いたから呪いが軍曹に移ったんだ」


 俺のせいだ……、そう続けたカマルの肩は震えていた。


 平時であれば、そんなのは迷信だ、と一蹴できるような思い込みだが、今は本気でそうに違いないと信じ込んでいる親友に不必要な言葉をかけるべきではないと思った幸哉は、「大丈夫だよ」と言ってカマルの肩を優しく叩くことしかできなかったのであった。





 敵の攻撃が長期間無いため、人員削減が行われた幸哉のバンカーを防衛するのは彼とジニーの二人だけとなっていた。


 腕の負傷は軽症で済んだものの、精神に深い傷を負ったジニーはあの戦闘の夜以降、殆ど食事も睡眠も取らなくなり、バンカーの隅に座り込んで何か訳の分からない悪態のような言葉を小声で呟き続けていた。


 兄を目の前で失ったのだから仕方ない……。幸哉も最初はそう思っていたが、気味の悪い悪態を四六時中聞かされ、まともな話もできない相手と二人だけで狭いバンカーの中に閉じ込められる日が一週間も続けば、彼の心もかなり摩耗してきていた。


 もういっそ戦闘が始まってくれ、そうなれば新しい人員が補充されるから……。そんな願いまで胸の中に抱いていた幸哉だったが、政府軍による攻撃は相変わらず無く、日中は精神の破綻したジニーと一緒にバンカーの中に居続けなければならない彼の唯一の心の安らぎはバンカーを離れて良い夜間に夜空の星を見上げて物思いに耽ることだけとなっていた。





 葬儀が行われた日、その日の夜も幸哉は持ち場のバンカーを離れて無人の機銃陣地の中に座り込むと、一人様々な考えを巡らせていた。


(俺も明日には仲間達に弔われる身になっているかもしれない……)


 そう考えた瞬間、まだ死にたくないという恐怖が湧き上がってくるとともに、自分の死を悲しむであろう人々の思いに想像を巡らせた幸哉は日本に残してきた優佳に別れの言葉も残してあげられなかったことを悔いて、あの問いに回帰した。


(俺のしていることは本当に正しいのか……?)


 弱い人々を守るため、と理由をつけ、情熱と向こう見ずだけで進んできた道だったが、既に少なからぬ人の命を奪ってしまった自分のやってきた事は本当に正しかったのだろうか?


 サシケゼの廃村で殺めた兵士の死に顔が頭に思い浮かび、自分が殺めた人々にも人間としての心があり、大切な人達がいたであろうことを今一度思い返した幸哉は彼らの一度しかない人生、彼らを大切に思う人達からかけがえのない存在を奪ってしまったことに対し、抱え込んだ罪悪感に心を押し潰されそうになった。その時であった。


「どうした?今日も一人で考え事か?」


 顔を俯けて塞ぎ込んでいる幸哉が自分にかけられた声に顔を上げると、狗井が機銃陣地の土嚢にもたれて微笑とともに青年のことを見守っていた。


「狗井さん……」


「何を考えてた?」


 笑顔で語りかけた狗井は、「いえ……」とだけ返した幸哉に、


「そう塞ぎ込まずに言ってみろ」


と言うと、機銃陣地の中に入り、弾薬箱の上に腰掛けて、幸哉と対面するようにして座った。


 数秒の間、言葉を探す時間も必要で無言のままだった幸哉は小さく口を開いた。


「俺の……、俺達のしていることは本当に正しいのでしょうか?」


 震えた、小さな声で幸哉が発した言葉はそれだけだったが、青年の肩にのしかかっている精神の重荷をその様子から推察した狗井は、「なるほどな……」と言って一息置くと、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「銃を一度、その手に握ったものは誰であろうと必ず地獄に落ちる」


 師である傭兵の声に言葉の表面だけでは感じ取れない重みを受け止めた幸哉は俯けていた顔を上げた。その視線を受け止める狗井の顔は先程までとは違い、一切の笑みを消し去り、真剣な眼差しを青年の双眸に向けていた。


「その運命をお前が選んだ理由は俺には分からん。もしかすると、本当の理由はお前自身にも分からないのかもしれない」


 最初は弱い人を救うために戦いたい、とそう思ったのだった。だが、今はその決断自体が正しかったのか悩んでいる幸哉は自分の内心を推知している傭兵の言葉に頷き返した。


「だが、この因果な運命にお前を引き込んだのは紛れもない俺……、これだけは確かだ」


 確かに四ヶ月前、狗井と出会っていなければ幸哉は兵士になろうなどと思うことは無かっただろう。


 狗井を救うため人生で初めて殺めた若い兵士の死に顔を思い出した幸哉は固く目を閉じた。その瞼の裏からは涙が溢れ落ちていた。


「だから、もしもお前が自分の信じる正義、信条を兵士としての生き方に見い出せなくなった時、その時は……」


 そこまで言って言葉を止めた傭兵の声に固く閉じていた瞼を開いて顔を上げた幸哉を見返して狗井ははっきりと言い切った。


「俺を討て」


 狗井の言葉の重さと響きに思わず体を震わせた幸哉は自分が目指すべき戦士の姿を師の中に見い出すことができたような気がして僅かにだが、心を救われた感覚を得た。


(俺もこんな強い人に……、強い信念を持った人になりたい)


 そう思い、彼が辿った道を知りたいと思った瞬間、幸哉はある事を思い出した。


 それは幸哉が狗井から譲り受けたシリーズ70のグリップに刻まれていた名前だった。


 ベリサリオ・パブロ・カステル……。


 元々は狗井の恩人のものだったというシリーズ70、そこに刻印された名前が誰のものか幸哉には分からなかったが、そのことを問うなら今しかないことは彼にも分かっていた。


「あの……」


 傭兵の気迫に圧倒され、何とか声を発した幸哉に先程までの固い気配はいつの間にか消し去っていた狗井が微笑とともに、「何だ?」と返した。


「あの、この名前なんですけど……」


 幸哉はホルスターから引き抜いたシリーズ70のグリップに刻まれた刻印を指さしながら問う目線を狗井に向けた。


「ああ……、気になるか」


 そう言って、星々と月の輝く夜空を見上げた狗井は続けた。


「私の生き方を変えてくれた人の名前だ」


 その言葉に幸哉は胸の鼓動が速まるのを感じた。今まで聞くことのできなかった狗井の過去、自分が強くなるための道筋の助けとなる話を聞くことができる期待に幸哉が先程まで萎縮していた胸を膨らませた時だった。


「軍曹!そこに居たんですね!カリ中尉がお呼びです!」


 突然聴覚に響いたエネフィオクの声に幸哉は浅い夢から意識を引き戻されたような感覚に襲われた。


 十メートルほど離れた塹壕を走ってくるエネフィオクに手を振り返した狗井は座っていた弾薬箱の上から立ち上がると、機銃陣地の外に歩みだす足を踏み出したところで幸哉の方を振り返った。


「この話の続きはお前が信じる正義を取り戻せた時にしよう」


 そう静かに告げた狗井が去っていた後、自分の心が少しは救われた安堵感と狗井の過去について結局知ることができなかった虚しさの二つの感情とともに一人残された幸哉は暫くの間、自分が目指す未来の有り様、姿に関して再び考えを巡らせたのであった。

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