第一章 十話 「狙う目」

 茜色の夕陽が木の葉の隙間から漏れ込む熱帯樹の根本、熱帯原生の藪が地面を覆う日陰では小動物が周囲の気配に感覚を済ませ、ナタールニシキヘビが地面をゆっくりと這っていた。人間の文明に全く侵されていない太古のジャングルの姿が静かに広がっていたが、"彼ら"は紛れなくそこに存在した。


 横たえた体をギリースーツの擬装によって藪に同化させ、数メートル脇の小動物にも自らの存在を気取らせない隠密性で気配を完全に消したその傭兵の額にはアフリカオオヤスデがまるで樹木の上を行くかのように古傷の上を自然に這っていた。


「目標だ。傭兵だけじゃない。将軍もいる」


 完全にジャングルと同化し、熱帯草の一部と化したチェスターが双眼鏡を覗きながら山岳言語でそう言うと、同じく熱帯樹の一部となっていた小さな塊が微かに動き出し、傍らの野外無線機を手に取った。その塊はあのイガチ族の少年だった が、美麗なその顔には今は樹液から抽出した迷彩ペイントが施され、軍服には土泥と獣の糞を塗りたくって人の匂いを完全に消していた。


 静寂に包まれたジャングルの中に山岳言語を話す少年の小声が漏れ出し、微かな気配を察知した小動物が逃げ出したが、二人にとって問題はなかった。なぜなら、ジャングルに身を隠す彼らの敵は八百メートル離れた反対側の山の斜面に居るのだから。


「将軍から殺る。ライフルを寄越せ」


 地面に寝転がったまま、双眼鏡から目を外したチェスターの指示を受けると、ギリースーツ姿の少年は樹木の脇に立てかけていた数挺の内の一挺を手に取り、音を立てない静かな動作でチェスターに手渡した。リー・エンフィールドL42A1、イギリスで開発されたボルトアクション方式の狙撃銃を受け取ったチェスターはギリースーツで擬装した体を殆ど動かすことなく、迷彩ペイントを施した木製の長い銃身を構えた。傍らの少年がスポッターを手に目標までの距離と風光を伝えたが、チェスターは、


「黙ってろ。自分でやる」


と言って一蹴した。かつてアフリカ南部に存在したローデシアという国で特殊部隊に最年少で入隊した過去をもつこの男には近接戦闘やサバイバルの術は勿論のこと、戦略術や狙撃に関しても深い知識と高い技術があった。


 スコープに捉えた目標に合わせて、各種のサイト調整を無言のままに進めていく姿を横から見つめながら、イガチ族の少年は息を呑んだ。ローデシア崩壊後、アフリカ各地の紛争地帯を渡り歩き、数多もの死線を潜り抜けてきたチェスターの過去を彼は知らなかったが、それでも常に放たれる殺気と額に刻まれた大きな古傷は無言の内に数多の戦歴を少年に伝えていた。


 この男にかかれば、自分は一瞬で殺される……。


 少年が傍らで本能的な畏怖を感じていることなど意識にも入れず、サイト調整を終えたチェスターは倍率固定式四倍率スコープの中に映る標的の拡大影を見て薄笑いを浮かべた。


 まさか数秒後には自分が脳髄をぶち撒けているなどとは知らず、呑気に話をしている敵将に完全勝利の念を抱くと同時に彼は次の目標も決めていた。将軍と会話する戦闘服姿の男、狗井浩司という名の傭兵……、兵士としては尊敬できる相手だが、生きていて貰っては面倒な存在だった。


「話の続きはあの世でしろよ……」


 額の上のオオヤスデが動かないほど小声でそう独り言ちたチェスターはボルトアクションライフルのコッキングレバーを操作し、初弾を薬室に送り込むと、トリガーガードにかけていた人差し指を引き金にゆっくりと移動させた。息を止め、スコープの十字線の交点に重ねた敵将の脳髄に意識を最大限集中させた三秒後、チェスターは徐々に引いていたトリガーを最後まで引き絞ったのだった。





 時刻は既に夕刻になり、陽も傾こうとしていた。茜色の夕陽が西方の地平線近くからキャンプの斜面に差し込む中、狗井はサヴィンビ将軍と将軍の護衛数人とともにキャンプの一角を歩いていた。


「君が今しがた口にした疑惑、どこまで信用できるのかね?」


 将軍の問いに狗井は溜め息をついて首を横に振った。


「我々も破壊工作の直接的な証拠を掴んだ訳ではありません。残念ですが、車両の損傷が激しすぎて……」


 目を逸らした狗井に厳しい目を向けとともに、将軍は追求の一言を放った。


「では、何をもって政府軍の仕業だと考えているのだ?」


 将軍の追求に狗井は答えにくそうにしながら、口を開いた。


「それが……、ソルロの街の近隣部族から妙な話を聞いていまして……」


「どんな話だ。勿体ぶらないで早く言い給え」


 歯切れの悪い狗井に将軍は更に発言を求めた。数秒の間、沈思した狗井だったが、将軍の視線に頷くと、例の目撃情報について口にした。


「ソルロの街に到着する直前、列車は減速していたという目撃情報があります」


 狗井の言葉にサヴィンビは深い溜め息をついた。


「そんな不確かな情報だけで政府軍の攻撃だと断定はできん」


「ですが、減速した列車が脱線するでしょうか?」


 間髪入れずに食い下がった狗井に再び溜め息をつき、首を横に振った将軍は相対する傭兵を見返しながら答えた。


「その目撃の後で加速したのかもしれん。或いは君達の線路に問題があったのかもな……」


「将軍!先程も申させて頂きましたが、破壊工作の可能性がほんの少しでもある限り、あなた方は無関心でいるべきではないはずです」


「一兵士に過ぎない君が戦略論で私に説教をするつもりかね?」


 激しく食い下がった狗井に将軍は微かに苛立ちを募らせたようだったが、狗井は一歩も引き下がらなかった。


「そうではありません。心情の問題です。もしも、政府の手によって仲間の命が奪われたのだとしても、貴方は報復を考えないのですか?」


「私は数千人の部族の命を預かっている。政府に報復などすれば、彼らの安全はどうなる?余り無責任に恐ろしい言葉を使わんで欲しい」


 諭すような将軍の口調に、交渉決裂を防ごうとして、つい熱くなってしまった自分自身を気付かされた狗井は目を伏せ、静かに陳謝した。


「申し訳ありません。ですが……」


 謝罪から更に言葉を繋げようとした狗井だったが、視線を上げた瞬間、見慣れた影が将軍に向かって走ってくるのに気づいて言葉を止めた。


「危ない!」


 そう叫びながら走ってくるのは紛れもなく戸賀幸哉だったが、将軍に危害を加えようとしていると勘違いされた彼は狗井達に数メートルまで近づいたところで将軍の護衛達に羽交い締めにされた。


「どうした!」


 護衛の兵士達に三人がかりで体を押さえられても、全身をバタつかせて何かを伝えようとする幸哉に狗井は問うた。


「狙われている!誰かが俺達を狙ってる!」


 兵士達に押し戻されながらも、向かい側の山の斜面を指さして必死に叫ぶ幸哉の様子にただならぬ事態を察した狗井は顔色を変えると、瞬時に傍らの将軍に覆い被さった。その瞬間だった、彼の首筋のすぐ脇を鋭い熱感が高速で過ぎ去って行ったのは。銃声は遅れてまだ聞こえない。だが、今まで幾多の死線を潜り抜けてきた狗井にはそれが銃弾であることは見なくても理解できた。


「スナイパーだ!将軍を守れ!」


 銃弾に遅れて山々に木霊した一発の銃声、それと同時に叫んだ狗井の怒声に幸哉を取り押さえていた護衛の兵士達は混乱しつつも、自分の為すべきことを瞬時に理解し、将軍のもとに滑り込んできた。


「将軍をそこまで運べ!」


 サヴィンビを立たせつつ、数メートル離れた物資の山の陰を顎で指して指示を出した狗井だったが、同時に護衛の一人に狙撃弾が命中し、飛び散った脳髄の飛散を間近に受けることになった。


「クソ!」


 一人の護衛が向かいの山の斜面に向かって、ベクターR4自動小銃を乱射する中、悪態をついた狗井はもう一人の護衛とともに将軍を障害物のすぐ目の前まで引きずった。


「自分で歩ける!」


 何とかもつれた足を整えた将軍はそう言い、最後は飛び込むようにして、木箱を積んだ物資の山の陰に隠れた。その後をコンマ数秒遅れた狙撃弾が追い、山積みにされた木箱の一つに突き刺さる。


「敵スナイパー、六時方向の山斜面!牽制しろ!」


 将軍と同じ木箱の裏に隠れつつ、狗井が怒声を張り上げて指示を出し、カム族の機銃陣地がスナイパーの隠れている正面の山の斜面に向かって、機銃掃射の弾幕を張り始めた時だった。特徴的な甲高い滑空音が上空に響いたのだ。


「迫撃砲だ!伏せろ!」


 何千回と聞いた降下音に内心で悪態をついた狗井が叫んだ瞬間、地面を揺さぶる激震とともに轟音が轟き、上空に巻き上げられた土砂が兵士達の頭上に落下してきた。既に続く二発目の砲弾が上空で甲高い降下音を響かせる中、将軍の上に覆い被さったままの狗井は傍らの護衛兵に叫んだ。


「将軍を塹壕の中に移動させる!一番近い塹壕は?」


 ベクターR4を片手に装備したカム族の護衛兵は混乱の中にあっても、狗井の言葉を冷静に理解し、最も近い塹壕の方を指で示した。


「カバーしろ!」


 護衛兵に叫びつつ、木箱の陰からスナイパーのいる方向に向かってスモークグレネードを投

げた狗井はその瞬間、幸哉が先程の場所で立ち尽くしたまま、向かいの山の一点を睨み続けていることに気づいた。彼の数十メートル脇では着弾した迫撃砲弾が爆薬の炸裂で地面をえぐり返している。


「幸哉、こっちに来い!隠れろ!」


 錯乱しているのか一歩も動かない同胞の青年に狗井は危険を伝えたが、幸哉は一点を凝視したまま全く動かなかった。


「何をしている!速く来い!」


 スモークの煙幕が広がり切っておらず、まだ危険だったが、業を煮やした狗井が引きずり戻しに行こうとした時だった。先程まで立ち尽くしていただけだった幸哉が突然、向かいの山に向かって走り出したのだった。


「どこへ行く!あっ、クソ!」


 追いかけようとしたものの、飛来してきた銃弾に動きを封じられた狗井が悪態をついている内に、砲弾と銃弾があちこちで炸裂するキャンプの斜面を全速力で駆け下って行った幸哉は時折、正面の山の斜面を見上げながら、青緑色のスモークの中に姿を消していくのだった。

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