序章 十一話 「帰国の迷い」

 充実した時間こそ、速く流れるというのは最終日も一緒だった。幸哉が傷病者の手当てに夢中になっていると、あっという間にホテルへと戻る夕方になってしまった。


「あっという間だったな。さぁて、日本に帰るぞ!」


 陽気な様子で伸びをし、NPOのバスへと向かう健二の隣で幸哉の表情は暗かった。


 いよいよ、日本に帰ることになる。だが、このまま帰って良いのか……。


 幸哉の胸の中では二つの思いが揺れていた。一つは早く安全な日本に帰りたい、優佳を安心させたいという思い。もう一つはここでこのまま帰ったら、自分は大事な何かを無くすのでないかという確信じみた恐怖だった。


 だが、パスポートの滞在期限もあるため、このまま帰らないことはできない。健二にも迷惑をかけられない。だけど……。


(俺はどうするべきなんだ……)


 そんなもどかしく、答えの出ぬ迷いに幸哉が背後のを振り返り、夕陽に映える診療所を見つめた時だった。


 不意にどこかで聞いたことのあるような空気を裂く高音が響き、同時に幸哉の背筋に本能的な悪寒が走ったのだった。


「Get down!」


 傍らにいたNPOの男が叫んだ瞬間、幸哉達の目の前で診療所が炸裂し、次の刹那、襲いかかってきた衝撃波と熱風に幸哉と健二は砂利の転がる地面の上を激しく転倒することとなったのだった。





 ぼやけた視界、耳鳴りのする聴覚、薄い膜を一枚挟んだような朧げな意識の中で、幸哉の目には燃え上がる診療所が映っていた。今や、焼け火箸となり、原型を留めないほどに破壊された小屋をぼんやりと見て、あの中に居た子供達はどうなったのだろう、などと冷めた感慨を抱いた幸哉の体を誰かが激しく揺り動かした。


「逃げるそ、幸哉!幸哉!」


 必死に自分を呼ぶ声の方に痛む首を動かして、顔を向けた幸哉の視線の先にあったのは健二の顔だった。額から血を流しながらも、必死に自分に呼びかける旧友の顔を見つけた瞬間、意識を引き戻された幸哉は上半身を跳ね上げるようにして飛び起きた。


「何があった……?」


 痛む首を左右に動かしながら、現状を理解しようとする幸哉の隣で、先程、彼に警告を与えたNPOの外国男性がうつ伏せに倒れていた。その後頭部には白い熱気を巻き上げる金属の破片のようなものが刺さっており、確かめずとも死んでいることが幸哉には分かった。


「分からない!でも、逃げないと!」


 健二は答えながら、ふらつく幸哉の体を何とか立ち上がらせた。そんな二人の前でNPOの面々を乗せたバスはあちこちで爆発が起きる難民キャンプから脱出しようと、出発するところだった。


「待ってくれ!俺達がまだ……!」


 バスとの距離は二十メートルほど。未だ体験したことのない命の危険に心臓が激しく動悸する中、走り出した幸哉と健二の数十メートル脇で新たな砲弾が炸裂し、地面から突き上げてきた衝撃に平衡感覚を失った二人はまたしても地面に倒れることとなった。


「くそ……、待ってくれ……!」


 地面に倒れ伏したまま、去っていくバスを睨んだ幸哉は不意に視界の隅から飛翔してきた白い蒸気の軌跡がバスに向かっていくのを見た気がした。刹那、幸哉達が追いかけていたバスの車内が閃光に包まれ、コンマ数秒の後、遅れてきた轟音とともにバスは粉々になったのだった。


「おい……、まじかよ……」


 上半分が無くなり、下半分のフレーム部分だけ残して燃え上がるバスを見つめて、健二が毒づく傍らで、幸哉はこの数日、懇意にしていたNPOの面々を思い出し、愕然としていた。


(死んだ……?)


 目の前で起こった出来事が信じられないのか、仲良くしていた人達の死が悲しいのか、奇妙な感情に揺さぶられたまま硬直してしてしまった幸哉の体を健二が再び引き起こした。


「おい!ぼぉっとしてちゃ駄目だ!逃げるぞ!」


「でも、逃げるって……、どこへ?」


「良いから来い!」


 硝煙と砂煙が立ち昇り、視界が利かない中で、幸哉の腕を掴んだ健二は必死に走り出したが、数秒後、足元に弾けた衝撃と銃声に二人は再び転倒することとなった。


「くそ……、今度は何だ……!」


 悪態をつきながら、立ち上がろうとした健二の顔にめり込んだのは自動小銃の銃床だった。


「おい……、何が……、うっ!」


 傍らで鼻血を流して倒れた健二に声をかけた幸哉の後頭部にも強い衝撃が走り、次の瞬間、幸哉は目の前に迫った地面に頭を強く打ち付け、彼の意識は昏睡へと引き込まれていくのであった。

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