第7節
e 民族としての囚人たち
第十九章「民族としての囚人たち」では、ソルジェニーツィンは「ゼック」(監禁されている者、の意)と呼ばれる囚人たちを観察した研究論文の体裁をとって、この新発見の「民族」の特性・特徴を諧謔に富んだ表現で記している。囚人たちは、生産に対する関係(つまり、隷属し、縛られていて、生産を指導する権利をもたない)、労働生産物の配分に対する関係(つまり、配分がない)において互いに同一であり、しかも、彼らの仕事が国民経済のなかで主要な部分を構成しているので、社会における一階級を形成しているとソルジェニーツィンは説く。さらに囚人たちはスターリンの立てた民族の定義―民族とは歴史的に形成された人間の共同集団であり、その集団は共通の領土、共通の言語を有し、共通な経済生活、共通な文化として現われる共通な心理構造を有している―を「完全に満たしている」ので民族をも成していると述べる。
その言語的な特徴は、《卑猥な罵詈》という術語でしか表せない「感情表現の特殊形態であって、普通の言語手段を使用したときよりも迫力があ」る。彼らはこの言葉を「相手の顔面にパンチを送り込んでいるかのよう」に発する。外見上の特徴は「灰色の綿入れ上着」と「坊主頭」で均一化されており、表情は「いつもすべての注意を集中していて、無愛想で、まったく好意を表さず、すぐにでも毅然たる表情や残酷な表情にさえ変りやすい」ことで共通している。
国家のための仕事に対するゼックたちの態度は、「明日でもできる仕事は今日しない」だ。 仕事は彼らの命を吸い取るものだから、「自分が助かる最良の方法は――仕事をしながらもそれに没頭しないことである」。のらくら、なまける、というのが基本となる。それを監督との駆引きのなかで貫くのだ。「威勢のいい馬は長生きしない」この農奴制時代の諺はスターリン時代のゼックたちのなかに生きているのだ。
価値観についてはどうか。ゼックたちはほめ言葉、賞状、表彰板などに動かされない。彼らが最も価値があると認めているのは配給パンであり、その次が
ゼックたちの民族性のなかで最も重要な特徴は「押しの強さ」だ。「それは生活するうえでより有利な位置を占めるための押し」である。食事、温かいペーチカ、乾燥室、雨宿りなどを前にした時、ゼックは遠慮なく隣人の脇腹を突く。動物の世界に近い《群島》の条件のもとで、他人を犠牲にして自分の生命を確保することを抑制する倫理観をゼックたちは知らない。「良心だって? 自分の調書のなかに忘れてきたよ。」「苦しむよりも畜生になったほうがましだ。」ただし、押しが成功するためには、「どんな困難な状況をも切り抜けられるすばしこさ」を伴うことが必要だ。(傍点は原文)
《群島》の住民たちの生活闘争で成功を勝ち取るための最も重要な条件は「心を閉ざすこと」だ。ゼックは自分の計画や行動を、雇い主や看守や班長や、また《
ゼックには戒律がある。「密告するな」「飯皿をなめまわすな」「かっぱらうな」その他。ソルジェニーツィンは「興味深い戒律」として、「他人の飯盒を覗くな! 」を挙げる。「われわれはこの《飯盒》を拡大して解釈しなければならない(略)食事を獲得するあらゆる方法として、また生きるための闘争のあらゆる手段として解釈すべきであり、いや、更に広く、ゼックの心として解釈すべきである」。(傍点は原文)この戒律は「一口に言えば、俺が生きたいようにさせてくれ、あんたも自分がいきたいようにやれ」という意味だ。これは「消極的自由の原理」だとソルジェニーツィンは書いている。「この戒めを守ることによって、自分の力と押しを単なる好奇心から行使しないことを誓うのである。」この戒律は同時に「お前が隣にいて死のうとも、俺にはなんの関係もない」という意味をも含んでいて、「自分をすべての道徳的義務からも解放している」。残酷な掟だが、「島の食人種」である無頼漢の《お前は今日死ね、俺は明日だ》より「はるかに人間的だ」。無頼漢は自分の死を遅らすために他人の死を早め、「ときには面白半分にあるいは観察してみたいという好奇心にかられて隣人を死に追い込む」からだ。ソルジェニーツィンはこのように一般の囚人と「
ソルジェニーツィンはゼックたちの「心理的本質の領域」に筆を進める。ゼックたちには神話があり、それは、「群島の門」には「入る者は悲しむな、出る者は喜ぶな」と書かれているというものだ。ゼックは状況がいかに不利に展開しても、「これよりももっとひどいことだってあるのだ! 」という確信によって自分を支え、力づける。状況が一時的に緩和しても、それを「不注意からの過失」として受け取って喜ばない。ゼックは常に今より悪いことに備えている。「こうして常に災難に備えている状態のなかで自分自身の運命にびくびくせず、他人の運命にも情容赦を示さないきびしいゼックの心が形成され熟していくのである。」絶望へも喜びへも傾かない安定した精神状態は「長期にわたる暗澹たる島の生活に耐えるための必要な防御」なので、「もし《群島》での一年目にこのぼんやりした、輝きの消えた精神状態に到達しなければ、ゼックは普通死ぬ」のである。
ゼックたちの間で「最も普及している世界観は宿命論」だ。将来どんな事件が起きるか全く予測できず、その事件の成行きに事実上何の影響も及ぼせない彼らの境遇では、運命にまかせることこそ最も落着いた生き方なのだ。未来は不確かなものだから、何かをあまりに執拗に追求したり、断固として拒否したりなどはしないほうがいい。積極的な選択をしないことが後で自分を責めとがめることから解放するのだ。結果が悪かった場合も、それは自分とは無関係にこうなったと考えて、自若たる心を保つために宿命論は必要なのだ。
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