第14話 課題6 自己の体験を創作に反映させるには
さて、みのりん小説最大の課題というのは、何といっても、これ。
自己の体験が、作品に織り込まれていないこと。
一見これは、ノンフィクション等ならまだしも作り物=フィクションの物語であるならば、さして問題にならないことであると思う向きもあるかもしれない。
ノンフィクションやルポルタージュに比べれば、その点の重要性は低いかもしれない。だが、そのような指摘をした先輩少女と私の指摘するところが本当に同じなのかどうかはともかくとして、少なくとも私は、みのりんがそのような指摘を受けざるを得ないような作品を仕上げていたことは、容易に想像がつく。
おとぎ話のような世界であるならば、すなわち、いま私たちが生きている現在の日本のどこかという話でなければ、それはどうせ架空の世界の絵空事(蝦夷らごと?)なのであるから、自己の体験など一切考慮に入れる必要はない。大体、世界観も社会状況も何もかもが違うところで、そんなものをわざわざ出す必然性もないだろう。
~かく思われる向きも、あるかもしれない。そしてそれは、ある程度あたっていると言えば言えなくもない。
しかしながら、どんなに世界や時代が違おうとも、人間の本質というものは、そうそう変わるものではないのです。
では一つ、例えを。
夏目漱石の「坊ちゃん」という作品がありますね。
言うまでもなく、世界レベルの名作です。
そして今に至るまで、多くの人がこの作品を読んでいます。
これからも、読まれていくことでしょう。
さて、ここからが問題。これから述べることは、本当に正しいと言える?
この作品は明治時代の日本のとある地方都市の旧制中学、今の高等学校にあたる場所での先生たちと生徒の話である。ちなみに今は21世紀で、今の高校は100%近くの人が進学する場所であり、かつてのような「エリート養成機関」ではまったくない。さらに、当時の旧制中学は男子のみであり、今どきの共学の進学校と呼ばれる高校などとは全く違う。
だから、当時の話を読んでも無駄だ。
よほど、今の旧制松山中学の後進にあたる高校の生徒にでも話を聞いた方が、夏目漱石の大昔の作品なんか読むより、余程役に立つ。
とまあ、ちょっと極端な話を述べたけど、確かに、このような意見が「正しいもの」であるとして成り立つ局面がないとは、言わんよ。
でも、以上をもって、昔の小説など役に立たんと言ってしまうのは、なんか、違いやしませんかいな?
と思うのは、私だけでもないと思うけどね。
あるいは、こんなのはどう?
夏目漱石は、当時でも日本有数のエリートであり、教師としては旧制松山中学に1年程度籍を置いていただけに過ぎない。そんな人物が、一介のヒラ教員に成りすました物語を書いているが、そんなもの、自分の経験に何にも基づいていないも同然ではないか。よって、そんなものを読む価値など、ない。
ますます、おかしな話よね。
だけど、気付かないうちに私たちも、今述べたようなことを考えたり、下手すれば人前で言ったりしている可能性もないわけじゃないってことを、この際しっかりと認識しておく必要があるように思うがね。
というのも、自分がその立場で経験した物事でなければいけないという視点でものを言い出せば、そんなもの、誰も何も書けないということになってしまう。
私だって、養護施設の職員であった時期は一切ないから、そんな人間が児童(子ども)側ならともあれ、職員側に立った小説を書く資格はない、ってことにもなる。
だけど、それは違うでしょ、ってことにならんかね。
もちろん、自らが主人公と同じような立場に立った経験をもとに何か物語を書けるなら、それに越したことは、ない。
しかし、そうでなければ書けないというのもまた、間違いというもの。
かのドリームキラーの先輩女子にしても、そんなことは十二分に承知で、みのりんに対してあなたの小説には自己の体験が生きていないと言っているのは明らかだ。
もしそんな腹積もりで彼女が行っていたなら、みのりんのことだから、今もってその先輩の言っていたことが正しいと認識なんか、できるはずもないよ。
要するに、自分が見聞きしたことをしっかりと換骨奪還し、それをさまざまな立場から多面的な角度で見て、分析して、総括して、それでようやく、同じ世界であれ違う世界であれ、同じ立場の主人公であれそうでない場合であれ、しっかりした物語が書けるというわけですよ。
何も、同じ場所で同じ状況で、同じ人物が同じような経験をしたことしか書いてはいけないというわけじゃないのね。そういう縛りから解放されたところに、そもそも小説(=創作)という世界はあるわけだからね。
そして、一見全く違う世界の違う状況下の違う人物であっても、自己の経験をそこに反映されることは、十分可能ってことなのです。
なんでもその通りのことを経験しなければ、モノが書けないわけじゃないのよ。
要は、みのりん小説において作者たるみのりん個人の体験が反映されていないということは、当のみのりん自身もまた、創作と現実の世界を不必要にどこかで意識的に分け切ってしまっていたのではないかということが言えるのではなかろうか。
だとすれば、その「呪縛」から解放されない限り、先輩少女の指摘した「自己の体験が行かされていない」状況を克服することはできないってこと。逆に言えば、その「呪縛」から解放されたときこそが、みのりんにとって自己の経験を作品に反映するというテーマのスタートラインに立てたときであると、私は考えるがね。
なんかまとまり悪いけど、そういうこっちゃ。
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