コズエさんの決心
1ヶ月程経ったある日の朝、渡り廊下を通ってマヤさんが仕事場へ入ると、
「おはようございます」
お店の入り口で声がしました。
誰だろう?マヤさんは急いで鍵を開けて扉を開きました。
声の主はコズエさんでした。
「先生、その節は本当にありがとうございました」
コズエさんは深々とお辞儀をしました。
「先生のおかげで、すっかり気持ちが楽になって、いろいろと片付けることができました。会社も予定通り昨日で退社しまして…」
「そうなんですってね。あの後ミオちゃんから聞いていました」
コズエさんがマヤさんの元を訪れてから数日後、上司がコズエさんの退職を発表しました。1ヶ月の間、コズエさんはお仕事の引き継ぎをしっかりとやっていたそうです。
コズエさんは晴れやかな表情で、お話を続けます。
「これまで通りの生活をしていると、まだどうしても辛くなる瞬間はあるんです。だから一度、今の環境から離れることにしました」
「どこかへ行くんですか?」
「はい、海外の方へ」
「まあ…」
「結婚のために一度諦めたんですけど、本当はずっと以前から、いつかは留学して勉強したいことがあったんです。もう行かない理由が無いし、自分のやりたいことを思いっきりやってみることにしました」
「自分のために、生きることにしたんですね」
「ハイ、そうです」
「素敵な決断だと思いますよ。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。あの、今日は先生にこれをお渡ししたくて…」
コズエさんはハガキより少し大きめの、茶色の紙袋をマヤさんに差し出しました。
「お礼になるようなモノではないんですけど」
マヤさんが受け取るとコズエさんはニッコリ笑って言いました。
「従兄弟が種苗販売の会社をやっていまして、そこからもらったものなんですが、これからの時期に蒔くといいそうです。来年の春には花が咲きます」
「まあ…お気遣いありがとうございます」
マヤさんは何だか心が熱くなって言いました。
「お元気になられて、本当に良かった。コズエさんのこれからのお幸せを祈っていますよ」
その日の夕方、いつものようにミオさんがお手伝いに現れ、二人は作業をしながらコズエさんのことを話していました。
「コズエさん、イタリアへ行ってデザインの勉強をするそうなんです」
ミオさんが言いました。
「コズエさん、短大で洋裁を専攻していたし、今まで会社で子ども服の仕事をやってきたことを生かして、何か新しいことを学びたいそうです」
「ずいぶん思いきったわよね」
「向こうでバイヤーのお仕事している先輩がいるそうなんです。まずはその人を訪ねてみて、あとは行ってから考えるって、そうも言ってました」
「何だかとっても素敵ネ。それが本来のコズエさんの生き方なんだよね」
マヤさんは、コズエさんから贈られた小さな袋をミオさんに見せてあげました。
「うれしいわね、ネモフィラの種ですって」
マヤさんは東側の窓を少し開けて、灯りで照らされた母家の玄関先を眺めながら言いました。
「来年の春は、家の前がブルーのお花でいっぱいになるのね。楽しみだなぁ」
少し湿った秋の風が、お部屋の中に入り込み、二人の髪の毛をそっと揺らしていました。
虫の音が美しく響き渡る、とても心地良い日暮れ時でした。
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