七・魔王

「――オン! リオン、リオン! 起きてってば、リオン!」

「……あぁ」


 ノエルが肩を強く揺さぶり、先ほどからリオンを起こそうと試みている。久方の――少しのうたた寝ではあったが、どうやら彼女は、休憩時間にリオンが眠ることも許してはくれないらしい。

 彼は疲れた身体に叱咤を入れ、ゆっくりと起き上がる。視界がようやく明瞭になっていく。見渡せば未だ夜も明けていず、月は西の空に薄ら浮かんでいた――


 懐かしい夢を見ていた。

 酷く懐かしくて――思わず涙が出てしまうほど、大事だった何かを思い出しそうな、そんな夢。

 だが所詮、夢は夢である。彼は結局どんな夢を見たかも忘れ、夢に見たはずの幸せだったあの頃を、ついぞ思い出すことはなかった。


 リオンが勇者の一員に加わったのは、先月のことであった。彼の国は疲弊していた。だが彼らには神らの信仰する神からの神託があったのだ。


「曰く、勇者を向かわせ、国のどこかにいる魔王を亡ぼせ」と。


 かくして王によって勇者率いる一行は結成された。何の因果か、リオンも騎士とは名ばかりの、「荷物持ち」として、勇者の一員に加わることになったのだ。


 勇者はとても――善意で構成されているような、良識ある人間だった。

 元々白金プラチナ冒険者でもあった彼は、周りにも常に気配りを忘れず、大人としての良識を兼ね備えた、まさに理想の英雄である。

 外見も勇者らしく、金髪碧眼の、まさしく王子様らしい風貌。事実、彼は国の第一王子であり、将来、リオンがいる国の王になる人物でもあった。

 勇者の一行は、勇者アンヘル、聖騎士カイン、聖女レイン、女騎士アリア、魔女ノエル、そして騎士とは名ばかりの、荷物持ちのリオンがいた。

 彼らは旅を続ける。全ては魔王を斃すために。


 この頃、彼はアンヘルとリオンが戦闘の要となっていた。リオンが囮となり、敵の攻撃を一身に受け、隙を見せたときにアンヘルがとどめを刺す。聖女たちは、勇者達の補佐に回っていた。リオンが深い傷を負ったときですら、聖女たちは勇者を優先に回復してきたけれど、それでも何ら問題なく、彼らは旅を進めてきたのだ。


 リオンは雑用係としても優秀であり続けた。

 勇者一行が寝るための宿、彼らの栄養管理もしつつ彼らのために調理をして、彼らの為に時には武器の手入れや、村人たちとの交渉も重ねてきた。

 それでも、最愛の娘であり、今や立派な勇者の一員であるノエルは納得しなかったらしい。


 ある日、彼女は珍しく自ら料理をすると申し出をしてきた。食材はすべてリオンが管理している。リオンは休んでいてと、彼女は儚げな笑顔と共に彼に笑いかけた。

 その日の夕方頃、良い匂いが鼻腔を掠め、やがてリオンの目が覚める。

 ノエルのところに向かって、夕飯をよそって貰おう――そう思っていたが。


「あれ? 君は夕飯をいらないって、聞いたよ?」

「は?」


 彼の分の、夕食は用意されていなかった。リオンは普段から節制を心がけた、なるべく彼らの腹が膨らむよう、しかし食材を一切無駄にしないよう、考えて調理し、そして彼らの食事を用意していた。

 しかし目の前にある光景は、ノエルがこれからの旅路を一切考えず、全ての食材を贅沢に使っているように見えた。今の彼らにとっては滅多にない、豪勢な食事。

 それでもやはり、どこにもリオンの皿もフォークも、あろうことか椅子さえない。

 呆然としているリオンに対し、勇者はまるで聞き分けのない子どもを窘めるように、かつての幼馴染みさえ知らない事実を口にした。


「でもリオン君、君は女神から賜った食材を――口にする価値もないって、私はノエル君に聞いたんだが」

「……――ッ!?」


 その事実を知っているのは、共に住み、共に苦楽を分かち合った、娘である彼女だけだ。リオンは思わずノエルを連れ出し詰め寄った。彼が激高するのはこれで二度目。一度目は、カインと言い争った、あのときである。


「ノエル! なぜ、どうして俺の秘密を喋った!」

「えぇ~? だってほら、リオンに無駄なこと、してほしくなかったし。最近疲れているみたいだから、ね?」

「……」


 そう彼女は言うと、悪びれもなくごめんなさいとリオンに頭を下げた。

 確かにリオンは食べる必要がない。けれど決して食べられないわけではない。ただ、身体がどうしても異物を受け付けず、大量に食べると吐いてしまうのだ。だからこそ、少しでも栄養をとろうと、周りから訝しがられない程度に、皿によそっていたというのに。

 それでもあまりの少量から、時折お節介な幼馴染み、聖女、娘たちから特段の皿を盛られていたが。


 彼にはノエルに何も言えなかった。どうしても彼女を責められなかった。

 王子が言った言葉を彼は思い出す――女神を信仰するその国は、日々の糧である食材の一端すら女神が慈悲をもって創られたものだと信じられていた。故に羽の生えていない人間は、女神が与えられたものを口にする資格がない。

 リオンには羽が生えていない。幼い頃、村人たちの好奇心と悪戯心で、毟り取られたからだ。それでも少しでも羽が残っていれば、紛いものとしていられたはずなのだが。

 彼はその一片でさえ、翼をすべて奪われていた。骨ごと残さず、彼の背中にはただ引きちぎられたあとが残るのみ。

 翼は人により大小の差がある。背中を見られなければ、翼が生えているかどうかなど分からない。翼を隠す方が稀有だが、稀に翼を不慮の事故でなくした哀れな人間もいる。

 だから裸体を見られなければ、リオンに羽が生えているかどうかなんて、誰にも気付かれるはずがなかったのに。

 ノエルはただの善意で、リオンの為を想って王子に進言したのだ。彼は食物を口にする必要がない、口にする価値もない――人間ですらないものだと。

 どうしてノエルを責められようか。羽のない人間は人間ではないなんて、この国では本当に至極、当たり前のこと。寧ろ人間でないものが女神が賜れた食材を口にする方が、罪だと認識されているこの国では。

 勇者はその後、慈悲をもってリオンの今までの行いを見なかったことにした。ただ今後、リオンは一切の食事も、水を摂ることも許されない、ただそれだけのこと。

 聖女もかつての幼馴染みも、娘でさえもリオンの行いを見て見ぬふりした。誰もかれも、悪意の欠片さえ持っていない、優しい人間たちであった。





「……」


 あくる日、彼はぼうっと、ただ、部屋の中で、ただひたすら無心になって武器を磨いていた。

 ずっと前から、彼は眠ることもなかった。昔はノエルと二人で部屋をとっていたが、今やノエルは、カインの部屋にいたきりで、リオンのもとへ戻ってくることもない。


「あ」


 珍しくリオンが何もしなくてもいい日であるはずだった。けれど、勇者に何となく、今後の予定を相談しようと考えた。何てことない日であるはずだった。彼は立ち上がり、勇者の部屋までその足で向かって、辿り着く。

 その部屋は、リオンと同じ間取りの、さして広くもない、木製でできた部屋だった。リオンはノックしようとした手を上げ。


「……」


 中から聴こえてくる、知っている人間の、あられのない嬌声に、リオンの手はドアを叩くことなく振り降ろされた。本当に何でもない、リオンですら何もすることがなく、時折雷鳴が鳴り響き、宿は雨音に叩き付けられている音で満ちて、外に出ることすら叶わない一日。


 勇者は善良な人間だった。どこにでもいる、睡眠欲も、性欲もある――普通の人間。

 リオンは彼と同じ、かつて羽が生えていたからこそ理解してしまう。彼にも、誰も彼も、女神と同じ種族の血が流れていた。

 聖女や、幼馴染みだって悪気はなかった。寧ろ彼女はリオンのことを誰よりも心配していた。しかし、今は誰も彼もが勇者を優先して、勇者を慰めようとしているだけで。どこまでも優しい善意は、真綿のようにリオンを締め付けていく。


 彼らはそれでも、旅を進めた。リオンは最早、睡眠も、食事さえする必要がない。元々する必要がなかったと思い出すには、もう少し時間が必要ではあったが。

 勇者一行はついに魔王の城に辿り着いた。少し前に、キャンプ用の荷物を含め、ノエルが彼らの帰りを待つことになった。

 リオンの心はすでに死んでいた。まるで機械のように何事もなく淡々と魔王城の攻略を進めていく。


「……?」


 けれどもリオンは途中で気付く。彼らは未だに気付かないが。リオンはかつてここに来たことがある。全てを思い出すには、残念ながらすべてが終わったあとでなければならなかった。

 彼らはついに魔王のもとに辿り着いた。姿かたちでさえおぼろげな、腐った屍肉の匂いを放つ、まさに憎悪の塊を持つ、その姿。

 魔王は魔王を中心として、全てを呪い、何もかもを憎悪していた。ただ一人、リオンだけを除いて。

 聖女の加護が彼らを覆っていたからこそ、勇者たちは魔王に辿り着けた。もっとも、リオンは人間でないから聖女の加護が一人だけわざと外れていたとか、そんなことはついぞリオンすら知らなかった事実ではあるが。

 それでもリオンには、彼らの受ける呪いを、呪詛を感じ取ることはできなかった。彼だけはすっと、風のように通り過ぎる。まるでそこにはリオンがいないが如く。

 戦闘は壮絶を極めたに等しいことだった。屍肉が魔王の体内として勇者一行を吸収しようとし、呪いが魔王の手足として具現化するのだ。一日どころではない、三日、一週間、彼らは襲い掛かる魔王の手足を退け続けた。


 やはり、おかしい。魔王の様子がどこかおかしいと気づいたのは、日夜開ける彼との戦闘で、聖女の体力がいよいよ尽き、彼らを守る結界が壊れそうになったときであった。


(魔王の動きが――鈍い)


 魔王の心臓が見えた。妖しく輝く、まるで赤い宝玉のような、結晶ともいうべき――美しいという以外の言葉が見つからない魔王の心臓。他の誰でもなくリオンだけが、触れられるその距離。リオンは既に剣を構え、その力ぞ存分に奮っている。けれど、これは本当に壊してもいいのだろうか――


「とどめを刺せ! リオン!」

「!」


 声を発したのは誰であったのだろうか、今となってはリオンの知る由ではない。どちらにしても、彼は魔王の心臓を潰した。そう、潰して・・・しまったのだ。

 心臓が音を立てて崩れていく。魔王はついに斃された。誰のほかでもない、リオンの手によって。かくしてリオンは英雄となった。かくしてリオンは、最も大切であった人を、記憶を忘れたまま、この手で殺すこととなった。



「あ……あぁ……」


 全て思い出した。リオンの記憶は、何者でもない忌むべき女神に全て封印されていた。憎むべき女神――その名は、ティリ。

 彼女はいつの間にかリオンの後ろに立ち、これは誰でもないリオンの為の旅であったと宣う。そんなこと、誰が望んでいたのか。


 リオンはすべて思い出す。

 彼が楽園から何者でもない女神から蹴落とされたあの日を、どうして忘れていたのだろうか――


「良かったね、愚図でのろまな、どうしようもなく馬鹿なリオン。あなたが創ってしまった魔王を自らの手で斃すことにより、あなたの罪は雪がれ、あなたは救われたのよ」


 女神は微笑む。彼の国が誰もが望む女神の拝謁をリオンが叶えたとなれば、誰もかれも羨ましがるだろう。けれどもリオンは彼らではない。かつてリオンはこの身を焦がすほど望んでいた。彼女の破滅を。かつて姉神を廃した竜にでさえ譲れない、たった一つの、彼の願い。


「あら? 何故そんなにも怒っているのかしら。私はただ、あなたが最も会いたかった人にと引き合わせただけなのに――喜ばれることはあれども、怒られる覚えはないのだけれど」


 女神は勇者の身体をここぞとばかり使っていた。親和性が高いのだろう。姉の遺骸だった、少しだけ大きい、彼女であったものの魂の欠片が、勇者の肉体。その中に妹神が、影とはいえ宿る――まさに女神降臨。勇者の身体の中に入り込んだ女神の影は、いとも簡単に、呪われた彼の剣を受け入れた。


 勇者の口から血が零れる。残念ながら、女神を、勇者ですら殺すに至らなかった。リオンは未だ、ティリを殺すには至らない。

 リオンは全てが終わり、かつての仲間たちが呆然としている間に姿を消した。未だ感情の整理を、仇を見定めるためには、時間がいる。

 かくしてリオンは女神を殺すために、その身をより黒く染めていく。


 これが魔王が倒れた顛末。リオンが最も愛していた――かつて人であった、どんな奇跡が起きても覆せなかった、魔王になってしまった者の、哀れな結末――

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