十三・天使
日々はとても幸せだった。この国は人々の諍いも久しくなく、歴史書に記されるほど、戦争は過去のものとなっていた。
ミオはそんな平和のなかで育った、ごく普通の人間である。
そんな日、こんな不穏な噂が彼の耳に入ったのは、あまりにも穏やかで代わり映えのない日々に、少し退屈となった頃の話だ。
「上から天使が、次々と落ちてくる」
まさか――とは思った。天使とは自分たちを導く存在――天の総意を実行する、天の使徒である。その天使が落ちてくるとは、どう聞いても考えられないことだった。
天使には階級ごとに羽が違う、その身に宿した羽が多いほど、それは天に近い天使ということを意味していた。
ミオは未だに羽が揃っていない、いわば天使の卵、だった。今となってはもう天使になれないが、かつては天使になることが約束されていた存在。
天使たちは不死である。けれど老化はしなくとも成長はする。彼は羽はなくとも、その身に奇跡が再び宿ることを信じ、日々を穏やかに過ごしていた。
そんな夢と希望に満ちた、少し退屈な日々に、不穏な影。
その日は彼が近所の家に林檎を届け、帰路に就いたときであった。
何かの影が上空を過り、つい上を見上げたそのとき。
「?」
その瞬間、目の前に何かが降ってきたのだ。
「――……ッ!?」
降ってきたのは一人だけではない。何人も何人も、落下だけではない、明らかな他者による外傷が彼らを致命傷へと至らしめた。
ミオは慌てた。そして一人ではどうにもならない状況をすぐに察し、近所の人々を呼びに駆け出したのだ。
「せめて、弔いはしてあげないとね」
そう言ったのは近所に住んでいた、もうすぐ天使へとなる幼馴染みの少女だった。結局大勢の人たちに駆けつけて救助をしたが、助かった天使は誰もいなかった。ミオの目の前に落ちてきたときには既に絶命していたのだろう。誰かに殺されて、羽を引き裂かれ投げ捨てられたのは明白だった。
ミオは怯えた。天使である彼らはとても頑丈で、ちょっとやそっとのことでは死にはしない。彼らは不死であるが、外的要因が加われば死ぬこともある。けれども多くの人間が死ぬ戦争は遠い昔に終わったし、自分たちは長い刻、一人たりとも欠けて、そして増えるなんてことはなかった。
けれども、実際に天使は死んだ。それも複数人。彼らは初めて、中身がなにもないに納骨堂に天使たちを埋葬することになったのである。
その日を境に、ミオの日常は少しずつ変わっていった。天使たちは定期的に落ちてくるし、その誰もが丹念に顔を頭蓋骨ごと潰されていた。時には、まるで喰われたように、半身がない天使も中にはいた。
そして誰もかれもが、例外なく、二度と飛べないように羽をずたずたに引き裂かれていた。
「あ、また天使が落ちてる」
けれど彼はその死体を見るたびに慣れてきてしまう。毎日毎日、飽きもせずに天使たちは落ちてくるのだ。それが何年の何年も続いていたら。
最初はえずいていたが、やがてどんなに残酷な死体を見ても慣れてしまったから、何とも思わない。天使が落ちてきたら、まるで作業のように近所に住む人間に報告し、駆けつけた人間が新しくできた霊安室に運んでいくのだ。
それはやがて日常になっていく。
けれど彼には、死体が降ってくる状況ですら日常となりえる中ですら、ひと際心に残る出来事が起きてしまった。
「……綺麗」
その人間は、ミオが今まで見たことない美しい羽をしていた。六枚で二対の、十二枚の美しい、交じり気のない純白の翼。彼は他の天使たちと違い、血まみれではあったが、羽はどこも引き裂かれた様子はなかった。
彼も他の天使と同じように天空から落ちてきたのだろう。けれど他の天使と違うのは、彼が未だに息をしていることにある。彼は呆然と彼が放つ美しさに見とれてから、ハッと気付き、慌ててその天使に駆け寄った。
「大丈夫ですか! もし、もし!」
肩をたたいて、天使の意識を確かめる。息はまだしているみたいだ。彼は持っていた水筒を取り出し、持っていた布巾を濡らして彼の顔を拭く。血まみれになっていて気付かなかったが、彼の顔に傷はなく、やがて全て返り血であると気付くにはもう少し時間が必要で。
「……ッ!」
唐突に、天使が目覚める。彼は予兆なく起きると、ここがどこであるか分からないようではあったが、それでも真っすぐにミオの姿を鋭い眼光で射抜いた。
「……お前は」
睨まれても、ミオがぼんやりと無防備にしていたのは、ただ彼が美しかったから。天使は抜き身の剣を持っていた。けれども、どうしても彼が無防備でありすぎたから、やがて彼は毒気が抜かれたように、その剣をおろし、ついに鞘に収めてしまった。
「……ッ」
天使は足を痛めているらしい。それはいけない。美しい天使様が苦悶の表情を浮かべるなんて、そんなことはあってはならない。
ミオが彼の身体を支えるように、杖代わりとなる。彼は今度こそ呆れた表情をして、そしてミオに問いかけた。
「……お前は天使か?」
「え!? えーっと、天使様に天使と言われるのは、その、えーっと、いずれ天使になりたいなとは思ってますが……僕は……そのぅ……天使じゃないです……見ての通り……羽ももっていないので……」
「……そうか」
段々口が窄み、語尾にいたっては殆ど聞こえなくなってしまったが、天使はそれでも理解できたらしい。ミオはその様子を見て少しほっとした。
ミオの背中には何も生えていない。だから背中が開いた衣類を身に着ける必要がない。彼はそして、袖を通すだけで完結する衣服を着ていた。
その衣類が汚れたとしても、洗えばいいだけの話であり。
彼は全身が血まみれであった。血に汚れていないところはただ彼の背中に生えている羽のみぐらいで。羽は血を一切吸わず、血を滴り落ちるだけであった。
「今日がは何月何日か、分かるか」
彼は完全に敵意を失ったらしい。まるで子猫のようだと思いながら、彼は彼の問いに答えることにした。
「えっと、今は女神が降誕した日を一日としたら、もうすぐ三百五十……あ、あと少しで女神がお生まれになった日になります!」
「……あと少しか……」
幸いにも、天使が落ちてきた場所はミオの家に近く、近所に家はない。川辺を下り、彼らは歩き続け、ようやく自分の家が見えてきた。
彼を家の中まで連れていき、寝台に寝そべらせる。この家は今やミオしかいない。他は全員、天使として天上にいったか、もしくは全て奪われて、その身を地上に投げてしまったので、今はただ独りでここに住んでいた。
「えーっと、天使様、外はちょっと危険があるというか……天使様の羽をみたらみんな群がっちゃうと思うので……天使様の傷が癒えるまで、良かったら僕の家で滞在してくれれば……嬉しいな……なんて」
けっしてやましい思いがないわけではない。ミオも見たことがない美しい羽をもつ綺麗な天使が、ずっとここにいてくれたらいいのに――と思うが、天の采配を実行する彼らを縛る権限をミオは持たない。
それにミオは永い間、独りであった。穏やかな日々ではあったが、決して誰かと語り合うことはない、新鮮味のない毎日。家族だったものは随分と前に、ミオの前からいなくなった。つまりミオは、人恋しくなってしまったのである。
下心が見え見えの願いではあったが、天使は暫く悩み、それからミオの期待に応えるように、頷いた。
「……もうすぐ新しい一年がくる。悪いが、それまでここにいさせてもらう。俺が言うべきことではないが――健やかに、心を穏やかに過ごしてくれ」
「……! はい、天使様! 僕頑張ってごはんを作りますね!」
「いや、そういうことではないんだが」
まさか直接、天使に祝福されると思わなくて、天井に頭をぶつける勢いで飛び跳ねてしまった。少年はそれほど嬉しかったのだ。未だミオの背中には新しい羽が生えることはない。けれどもそれに等しい、憧れていた天使の言葉。
今日ははりきって料理をしよう。天使の口には何が合うだろうか。自分が頑張れば頑張るほど、この方は報いてくださる。
そうして丸々の牛を解体せんばかりに家から飛び出そうとした少年は、足が痛む天使によって無事にそのたくらみを阻止された。
代わりに天使とともに食事を作り、共に食卓を囲んだ。その天使が天空で何をしてきたか、薄々察してはいるが、それ以上に、誰かと食事をしたなんて永くなかったせいか、少年は天使の過去なんてどうでも良かったのである。
天使は自身の言った通り、決して外に出ようとはしなかった。しかし、少年と過ごすに内、ただ足を治すにはあまりに手持ち無沙汰みたいで。
「どうだ」
「わぁ、こんな素敵なものを僕に!? ありがとうございます!」
「もう少し成長しても大丈夫なように、緩めに作ったからな。動きやすいといいんだが」
「はい! とっても軽い! いえ、動きづらくとも僕が服に合わせればいいんです!」
「その前に言え、縫いなおすから」
その内天使は、少年に衣服を作り始めた。一針一針、丁寧に込めている様は天使にとっては暇つぶしかもしれないが、天使が自分の為に何かをしてくれている――それだけで少年は誇らしく、天使の存在に祈りを捧げた。
決して長くはないが、十日間ばかり天使と過ごした日々は、彼の何物にも得難い思い出となった。天使は決して怒ることもなく、窘めることはあっても、理不尽な怒りをミオにぶつけることもない。
ミオはここ永い間、笑うことを忘れていた。けれど天使とのなんでも日々が、少年に感情を思い出させてくれる。
ずっとこうであればいい――と、天使への想いをどんどん募らせてしまう。そんな幻想は、すぐに崩れ落ちてしまうと知らぬまま。
「ミーオーくーん」
「……ティナ」
いつものように近所の家へ林檎を届けた、その帰り。
厭らしい笑みをした幼馴染みである彼女が唐突にミオの前に唐突に現れた。ミオにとって、彼女は幼馴染みであるがある事件が起きてから、彼女とは険悪といった仲だったのに、一体どういう風の吹き回しで彼女は自分に話しかけたのだろう。
ミオは警戒した。幾ら警戒してもし足りない。それほどまでに彼女は彼にとって脅威であった。
ティナは屈託のない笑みを浮かべながら、羽を見せつけてくるかのようにくるくると回りながら近付いてくる。やがてミオの前でぴたりと止まれば、彼の耳元に近付いて囁いた。
「あなたの家には、綺麗な天使がいるのね」
「……何でお前がそのことを知っているんだよ」
天使のことは誰にも話していないはずだ。それに、天使は一度も部屋に、庭にさえ出ていないはずだ。それを見たということは、家の中を覗きみたことに他ならない。
既に彼女はミオが天使を隠していた事実を、たとえ事実でなかろうが知っている。押し問答をしたって無駄だということを、ミオは嫌というほど思い知らされていた。
彼女は自分の意見を曲げることは決してない。こちらが折れるまで、彼女は延々と自らの主張を押し通すのだ。
ティナはくるくると回る。覗き見たことに罪悪感なんて全くないかのように。事実彼女に悪意なんて微塵もない。好奇心で覗いたらたまたま「見つけた」、ティナにとってはそれだけの話であった。
「だって、あなたが普段より多めの林檎を持って、街の人と交渉していたし、何か隠しているような雰囲気を醸し出していたから、気になって跡をつけたの。最初から話してくれればよかったのに。そうしたら、あの綺麗な天使様から、羽を貰うことができるでしょう?」
「ティナ……ッ、お前――僕の羽を奪うだけでなく、あの人から羽を奪おうというのか!」
そう、彼女と険悪になった一因。それは彼女がミオの羽を奪ったことにあった。彼女はこれでもかと無邪気に悪意を振りまいて、やがて疲れて眠った隙を突かれてしまったのだ。家の中で寝ていたのに、切り取られてしまったのは、かつての家族が彼女を家の中に引き込んでしまったからだ。かつての家族は彼女に惚れ込んでいた。結果がこれ。かつての家族は全員死に絶え、今日も彼女はミオの羽を身に着け無邪気に笑っている。
過去に何度も取り返そうと、武器さえ持ったこともある。それでもティナからついに羽を取り返せなかった。彼女はすでに天使の資格を持っていた。天使の資格とは、信奉者を侍らせること。ティナの周りには、彼女の信奉者たちが常にいたのである。
しかしティナは未だに満足していない。彼女は次の獲物である羽をうっとりと思い出し、ミオの唯一の宝物であった羽を塵のように指で弾いた。
「だってこれより、よっぽど綺麗な羽だったんですもの。ね、良いでしょう。私にあの天使様をくださいな」
「嫌だよ! あの人はものじゃない!」
「えぇ……でも」
彼女は困ったわねぇ――と、手を頬に当てて悩む。
「私、もうみんなに話してしまったし。あなたの家に、綺麗な天使様がいること」
「は?」
まさか――と、ミオを青褪め、そして自分の家を見る。かつての家は、煙を上げて――燃えていた。遠目からでも見える。あれはただの火災ではない。悪意を持った人間たちによる、明らかな放火。あの中にはミオの大切な天使がいる。一緒に過ごした時間は決して長くはないけれど、ミオにとっては何より大切な人、だったのに――
「教えてくれないからこうなるのよ。私みたいな『やさしい』天使になるには、みんなにちゃんと分け与えないと。これに懲りたら、次からは私にも教えてね」
「~~……ッ!」
ティナを突き飛ばし、彼は走りだす。林檎の代わりに貰ったものも地面に落としていた。それでもかまわず彼は走る。
家に近づくにつれ、煙がよく、熱さを感じてしまう。そして彼が目の前にきたとき、思い出の詰まった家は何も残らないほど、全てが燃えていた。
見物人――兼、放火をした人間は消化をするまでもなく、嗤っていた。目的のものが手に入らなかった腹いせに。彼らは八つ当たりで、ミオの家を燃やしたのだ。
「――ここは僕の家だぞ! 離れろ! 誰が入っていいっと言った!」
彼らは未だミオの家の、囲いに寄りかかっている。それがとても腹正しくて、追っ払おうとしたが。
「黙れ! あんな美しい羽をもった天使を隠しやがって! お前が早く言えば、俺たちが天使になれるはずだったのに!」
「が……ッ!」
ミオは複数人の人間たちによって突き飛ばされた。地面に叩きつけられたせいで、息ができない。ミオの家が燃えていることを愉快に思っている奴らだ。彼らに罪悪感なんて微塵もない。ティナの信奉者だ。彼らもまたどういう性質を持っているかなど、火を見るよりも明らかだった。
彼はやがて気を失って、長い間土に伏せてしまう。幸運なのは、彼の無様な結末に彼らが満足し、これ以上ミオの身に何も起きることはなく、彼らがその場を後にしたことだろうか。
それと、羽。もし羽を持っていたならば、ミオが隙を見せれば彼らはすぐに羽を毟り取ろうとしたはずだ。羽をもっていたころなら、決して力で負けないはずだった。しかし今はミオは何の力も奇跡も持たない、ただの子どもだ。
ミオが再び目が覚めたとき、彼はなるべく火の粉がかからない川のほとりで寝かされていた。近くにはあの天使が縫ったであろう完成された衣服も置いてあった。
彼は一夜にして、家も、彼だけの天使も喪ってしまった。服を抱きしめながらどんなに顔を歪ませても、彼を慰めてくれるものなんて誰もいなかった。
「今回はティナか」
「羨ましいことだ。あの羽だって、元々はミオのものだったんだろう?」
「より天使らしいものがより美しい羽を身に着ける。ミオは奪われて当たり前だったんだよ」
今日は女神の降誕祭。年に一度のお祭り。天使たちが、新しい天使たちを迎える吉兆の日。年に一度の大祭は、日常を恙なく過ごす彼らにとって唯一の娯楽ともいえた。天使たちは門を通り舞い降りてくる。そして新しい天使を選定するのだ。選定されるのは、天使たちと同じ羽をもった者たち。羽をもつ人間たちは、今か今かと天使が現れ、自分が選ばれる瞬間を待っていた。
しかして今日は誰が選ばれるだろう。きっと村一番の美しい羽をもつティナに違いない。彼らは噂した。そしてティナは、彼らの前で、信奉者の前で天使の登場を一番に待ちわびいていた。
やがて天使たちが登場するための喇叭が奏でられる。彼らがついに登場するのだ。人々は空を見上げた。
今日は年に一度の、最もめでたき日であるはずだった。
しかしてそれは、一瞬にして地獄絵図となる。
「……グヴィヴェル。お前、取りこぼしやがって。俺が何でこんな忌ま忌ましいものを再び身につけなければならないんだ」
『仕方ないだろう。あんなまずいの、誰だって消化不良だって起こす』
「……まぁ、いい」
一つの町を覆いつくすほどの巨躯である竜が空から現れ、何の躊躇も憂いもなく、その足を人々の足へ下ろした。ぶちり、と嫌な音がそこらかしこに響き渡る。
竜は吠える。音はやがて宙を伝わり、大地を振動するに至る。地面は割れ、幾人もの人が地割れの向こうへと消えてしまう。
怒号と、絶叫。逃げ渡る人々を竜は丹念に潰す。これでもかと潰れていく人を感慨もなく十二枚の羽をもつ天使は眺めている。何の感情も、抱かない。抱けない。彼らを迎えようとする天使は死に絶えた。けれど上にも、そしてここにも、まだ殺すべき者が存在する。今日はその為のわざわざこうして前座を開いたのだ。
彼は十二枚の羽を以て、彼女と相対する。リオンは、かつて妹であった者の瞳を視界に捉えた。
「
「あら天使様――お迎えがこないんじゃないかって不安に思ってたの。良かった、また私に、そのきれいな羽をくれるのかしら?」
彼女はちっとも殺されると考えていない。魂が取りこぼされて尚生まれ変わったその欠片は、その身に秩序を宿していると本気で信じている化け物だ。
ティナの身に宿しているのは、現在四枚の羽。なれば今度こそ、
「……う゛ぅ゛ッ」
ミオは呻きながら起きた。女神の降臨祭でさえも赴くことは出来ず、彼の全身が未だに痛みが走っていた。内臓を蹴られた痛みが引くことはなく、彼は立ち上がることすらままならない。
それでも何とか、家もなくなった中で雨風を凌いでいたのは林檎の木があったからだ。彼は木の下で生き延びていた。やがて、意識をもうろうとしていた先で、大きな爆発音が遠くから聴こえた。どれほど遠くかは分からないが、確かあの方角は――人々が集まる、女神降誕の祭りの場所ではないだろうか――
けれど、どうでもいい。
彼が今すべきことは、痛みが引くまでじっとしていること。町の人間がどうなったなど、ミオが知る由もなかった。
やがて暫く続いた喧騒は、いつの間にか止み、満天の夜空がティナと林檎の木を包んだ。寒くもないし、暑くもない。彼はやがてもう一度眠ろうとしたそのとき――
「……」
天使、がきた。初めて出会ったときと同じ、交じり気のない純白の十二枚の羽に、白銀の髪。銀色の瞳。そして何より、会ったときと同じ――血まみれで。
彼は剣を抜いていない。あのときと何もかも変わりない姿だが、立場は逆転していた。今はミオの方が重傷である。
彼の前でミオが見る限り初めて自らの身体を傷つけた。掌を薄く切りつけ血液がぽたぽたと垂れる。天使はティナの身体を抱き寄せて、口に自らの血液を一滴、垂らし込む。瞬間、彼は身体中の血が沸騰しているような、そんな熱さを一瞬感じ、やがて治まったかと思えば、彼はどこも傷ついていない――それどころか、背中にも何かしらむず痒いものを感じ取っていた。
「……」
けれど、今は目の前の天使の方が大事である。彼は羽すらそのままにせず少年は天使を見つめたままである。天使はミオが言わずとも、遠くで爆発音した原因――事の顛末を話した。
「皆死んだ。お前の故郷は滅んだ――けれど、お前には恩があるから、殺さない」
でなければミオに血を分け与えるはずがない。彼の故郷は目の前の天使によって滅んだ。しかし、少年が全く恨む理由になれないのは――
「……僕はこの――林檎の木と天使様がくれた服を、守るよ。天使には――もうなりたくないって、気付いちゃったからさ」
「……そうか」
彼はそれだけいうと、少年を再び林檎の木の下に寝かせる。血の香りがふわりと遠ざかり、少年は再び、静かに目を閉じた。
今日も日常は平和である。違うのは、相変わらず天使は空から落ちてくるし、誰もかれもが落ちる前に絶命している。彼は落ちてきた死体をとりあえず道の端にどかして、時間が出来たときにそのあたりの土に埋めるだけ。霊安室も、納骨堂も、それどころか町自体が消えてしまった。生き残った何人かの人々は、誰も彼も羽は生えていない。ミオの羽も結局、奇跡が起きるかな――と思ったが、今も生えないままだった。
それでも彼は構わない。平和なのだから。木からもぎ取った林檎を齧る。
「まぁ、生きてさえいれば、何とかなるよね」
生きていれば、何とかなるのだ。今日も天空から天使は落ちてくるし、今もまだ降誕祭も復活するめども、町が復興する兆しも見えないけれど。
少年は生きている。それだけで十分だ。
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