十二・兄
この世界にある死者の国とは、死した人間が例外なく最期の刻を過ごす国であった。
彼の世界の理とは全く異なる、ただ唯一の国。魂となった人間の誰もが裁きを待ち、輪廻が廻るまでその魂を休める国――であった。しかし大国と中つ国による戦争により、魂が溢れ、死者の国の盟主が怒り、現在まで誰も受け入れることなく、その門を固く閉ざしていた。
大方の国が戦後処理を終えた今なおも、死者の国は一切応える様子はない。
中では静かに国の民が裁きを待ち、誰も彼もが輪廻のときを待っている。
そう、盟主と個人による盟約により、例外なく死人が裁きが下される故に、天使と名乗る人間ですら、逃れられない運命。
もっとも、すり潰された魂は冥府にすらその足を踏み入ることはできない。輪廻の輪に加わることもなく、その場で消滅される。
だからこそ、すり潰されていなければ、戦争が始まる以前であるなら、ここで輪廻を静かに待つ――羽を背中から生やしていた魂があるのだ。
けれどここでは善性も悪性も、全てが浄化されるという。だが、魔王と称されていた人間だけは――彼は未だに罪を身測られることもなく、罪もまた決定されていない。
あまりに強大な力をもっていたからこそ、未だ裁かれず、また輪廻の輪に入っていない。肉体をなくした天使は、蘇生される可能性は未だ残っているが、それは死者の国に入っていない場合の話であった。
死者の国の門が閉ざされたのは最近の話ではない。しかし門が閉ざされたのはただ一度、その一度が、今もなお、死者の国の門を閉ざしていた。
冥府の最奥にある、国の住民ですら本来なら入ることを許されないただ唯一の館。ここには、冥府を統べる領主であり、冥府の主人であるものが住んでいた。あまりにも広く、伽藍堂の館の中に、主人の他に住んでいるものは誰もいない。
しかして、人が存在してはならない禁足地に招かざる客が現れた。冥府という国が成り立って以来の、空前の出来事。
リオンは館の前に降り立つと、すでに館の入り口に立っていた人間に気がついた。
「よぉ、久しぶりだな」
「えせ、全く。こちらとしては会いたくはなかったのですが」
「奇遇だな、俺も会いたくはなかったよ」
その人の名前はサシャ。冥府の番人であり、また唯一の、羽を持ったままこちらの世界に住まうことを許された、唯一の天使であった。
サシャは六枚の羽を背中に宿し、こちらの国でもあまり見られない、鋼色の髪に深海の底のような昏い青の瞳をしていた。
「本当ならあなたが管理するはずでしたのに」
そうぶちぶち文句を呟く彼の言葉は正しい。本来なら、その役目はリオンのものだったのだ。しかしリオンに、彼に役目を押し付けた罪悪感はまったく、ない。彼が未だ空にいた頃、彼が冥府に行く前に罪人となり落ちてしまったのだから、向こうの事情など知ったことではないのだ。
「盟主でさえも盟約に従わなければならない場所でよかったな。でなければ、とうにその羽を引きちぎって殺している」
本来なら彼でさえ殺害の対象となり得る。それは踏みとどまっていたのは、過去の友であったからではない。冥府の不可侵の条約。この国は誰も例外さえなく、秩序を保たなければならない。
「あぁ、私も安心しました。魂さえ砕けなければ、私は未だにこの国の領主であり続けますから」
彼らは屋敷の中に入る。誰が足を踏み入ることを許されなくても、そこには客間があったし、リオンは堂々と客間のソファーに座った。
「お前が役目を終えたとき、俺は必ずお前を殺しに行く。だから須く死ね」
リオンは向かい側に座ったサシャを睨み付ける。しかし飄々とした風に、彼は軽口を流した。
「はは、永い刻、あなたに想われるなんて最高ですね。天使の誉れです。皆に自慢できますね」
「気持ち悪い。俺に愛なんて高尚な感情は存在しない」
「そうでしょう。あなたに愛なんて言葉は似合いません。そんなもの、野良犬に喰わせてしまえばいい」
サシャはリオンのかつての友だった。リオンが何故大罪を犯し、落とされることになったか、経緯を知っていた。
彼とはもう友人ではない。サシャがもう一度とも友と呼ばれる為には、己の翼を返上する必要があった。けれどそれは、自分が死ぬことを意味する。
本当なら共に落ちても良かった。そうしなかったのは、彼が遺した役目を他ならない自分がしなければならなかったからだ。
サシャの仕事は、必ず自分がやらなければならない――というわけではなかった。ただ、彼は自分のたった一人の友を地獄へと突き落とした者たちに、彼が果たすはずだった役目をむざむざ渡すわけにはいかなかった。
せめてリオンの羽を奪われたときに傍にいることご出来たなら、彼の兄を止めることができたのに。止められなくても、ティリに全ての羽を奪われたとしても、サシャだけなら分け与えることができたのに。しかし全てを知ったときには、既に彼は裁判にかけられ、処刑が決定されてしまっていた。
サシャはリオンが地上に蹴落とされる瞬間ですら、彼に会うことは叶わなかった。
こうしてサシャは、自分以外に最早救えるものはいなかったのに、救うことは出来なかった。
彼は罪に苛まれて、今や翼も髪も濁りきり、それでもなお自身を許せない彼は今もなお冥府のそこで、自らの役割を牢獄という名の永い刻の中で果たしていた。
サシャは自分の役割が終わったとき、向こうへ帰ることを許されている。もしかしたら彼らが言ったことは全て虚言かもしれないが、それでもサシャは、唯一の友であった彼にどうしても告げたかった。
「リオン、もし向こう側に帰る方法があると行ったらどうしますか」
サシャは帰り方を知っている。本当にできるか知らないが、彼は確かに盟主として、ここを統べるものとして唯一の還る方法を知っていたのだ。
しかしリオンはそれさえも、己の復讐に利用してしまう。あぁ、そんなこと、火を見るよりも明らかだったのに。
「そんなの決まっている。この身が朽ちるまで全てを殺し、二度と天使が行き交われないよう、徹底的に門を壊してやる」
「そうですか――あなたに帰り方を教えるのは、やめることにします」
「それでいい。俺はまだ、こちらに散らばった紛い物でさえ殺し尽くしてはいないのだから」
紛い物。今リオンが殺しているのは、彼女たちの残骸。その肉体と魂の欠片たち。羽の一片でさえ奇跡を持ってしまい、新たな生命と聖遺物を創り出してしまった、彼の宿敵。
しかし彼女たちが彼の仇敵ではあるまい。
わざわざ面倒な手続きと手間をかけてまで彼がここに来た理由――それが本当に成せるか問う為に、サシャは話を切り出した。
「いい加減、本題にはいりましょうか。こんなくだらない応酬をするために来たのでないのでしょう……たしかにあなたの目的であるあなたの兄は、この冥府にいます。しかしながら、全ての記憶も、記憶も、性格も、何もかも洗われない限り、この国の一人でさえ、お前は手にかけることは出来ないはずです」
冥府に住民たちは、その罪を大あれ小あれ、全員が洗い流す。そういうシステムだ。洗い切れないほど罪にまみれたものは地獄へ流されるとは決まっているが、そんな者がいたのなら、彼自身が動き、魂を砕かなくても済んだのだ。
その国唯一の罪であり、裁判も経ず地獄へ流される大罪。
この国の住人を誰一人として殺してはならず、また殺されてはならない。
「だからだよ。完全に罪が雪がれたときだけが、俺に与えられた唯一の機会」
けれどこれには一つ大きな穴がある。全ての罪が雪がれるとき、それはこの国の住人から輪廻の輪に入るとき。
これだけがリオンがかつて天使だったものを殺す、最後の機会だった。
「あなたは天使でさえなくなった、何者でもない、ただの無垢な魂さえ殺すのですか」
「忘れるな。雪がれるのは本人の罪のみ。他人が背負っている業なんて、たとえ家族だった者さえ、本人の知ったことではないんだよ」
リオンは全ての天使を殺し切れてはいない。彼も冥府に入り、懺悔し、全てが贖罪され、輪廻の輪に入った――もはや羽の生えることのない人間を殺すことはできない。
ただ一人だけは別だ。彼自身が罪から逃れようとも、贖罪をしようとも、リオンは必ず殺す。
そう自身に誓ったのだから。
「後悔しますよ」
これは最後の忠告。友であった彼が本心から告げた言葉を、リオンはらしくないと一笑に付した。
「そんなのとっくの昔に、羽を千切られる前からずっと、思っていたさ」
彼は笑いもせずに、ただ事実を述べた。リオンは最初から、それこそ双子の姉妹が家に来る前から既に後悔していた。既にあのときから兄はおかしかった。初めから気付いていれば良かったのに。そうすればずっと二人で暮らして、友と笑いあいながら、今も幸せなときを過ごしていたかもしれないのに。
結局どうにもならなかった。リオンもサシャも、みんなみんな、穏やかに語り合うときなんて、そんな未来はあり得ない。
彼は立ち上がる。全ての罪が洗われたその瞬間、見なければならない。見届けなければならない。それでもリオンの瞳はどこまでも昏く、青黒く濁ってしまったサシャの瞳でさえ、彼が抱える業の深さを測ることはできなかった。
セトの魂が地上にあるとう冥府に行き着いたのはたまたまの偶然が重なり合わさった――まさに奇跡であった。
かつてセトは、彼の花嫁たちであった姉妹神により、権限も、権能も、羽に宿した奇跡でさえ彼女たちに奪われてしまっていた。
セトは最期、呪詛の肉塊と成りはて、地上に堕ちることとなった。堕ちた先ですらその身は呪詛を周囲に振り翳し、やがてその土地を枯らし、土地までも呪いそのものへと化してしまった。
姉妹に全ての羽が剥ぎ取られたわけではない。堕ちてもなお彼には、穢れた二枚の羽が背中に残っていた。羽は呪いをより強大で邪悪にしていく。それは彼が降り立った土地にとって、最も不幸なことであった。
その羽が摩耗し、やがて溶けて消えてしまうほど、彼の肉体はずっと怨嗟の声を上げていた。セトはいつ、自らの魂が呪縛から逃れたことを知らない。少なくとも冥府の門が未だ開いていた頃というのだけは確かだ。
冥府は彼らの罪を顕わにすると同時に、彼らの罪を洗っていく。そうしてその身に宿る罪を雪いだものだけが、再び輪廻の輪に入るのだ。
セトもまた、冥府に身を寄せているうちに、段々と心が洗われていった。冥府ではかつて自分が何者であったなど、貴賤もいっさい関係なかった。かつて一族を治めるほど強大な力を持っていた彼は、あまりに長い刻の間に全てのものを呪うほど罪にまみれていたけれど、少しずつ少しずつ、一滴の水がやがて石を穿つように、確かに彼の魂は雪がれていったのだ。
やがて、自分がかつて何者であったか忘れてしまうほどに。
冥府の国の住人は皆、穏やかだ。どんな大罪を犯し得ようと、その罪は必ず、雪がれていく。完全に洗われるその前に魂が摩耗してしまい、消えることもあったけれど、それでも彼らは日々の糧に感謝しながら静かに生きていた。
セトもまた、例外ではなく。
かつて罪人であった国の民に何ができようか。セトは段々と、かつての自分を取り戻していく。
けれど彼が多くの人を見送ってもなお、そこに留まり続けたのは、たった一つだけ忘れたくないことがあったから。自分がかつてどんな人間であったか忘れてしまっても、彼が飲み込み、やがて悔恨すら忘れてしまうほどの遠い月日を過ごしたとしても。
それだけは、どうしても忘れたくなかった。
男は家の中で作業をしていた。日々を過ごすために、のんびりと読書をしていた。いずれ忘れてしまうけれど、文字を追うことは無益ではないと彼は知っていた。それに蓄音機から奏でられる音楽の中で、日々を過ごすことは、彼にとってどんなに癒やしになっただろうか。男はついに平穏を手にしたのだ。ただ、そこにかつて最も愛した人がいない。それだけが、とても寂しいことではあるけれど。
彼が音楽が途切れたことに気付いた。随分前から鳴っていなかったようだ。彼は立ち上がり、巻きなおそうとする。そのとき。
「? どなたでしょうか?」
扉がノックされたのだ。来訪者の気配を感じ取った彼は、何も疑うことなく扉を開ける。
「……リオン……!」
そこにいたのは、自分の名前を忘れてもなお、忘れられることができなかった、最愛の人がいた。姿かたちは大きく変容している気がする。けれど彼は、最愛の家族に違いない。直感が告げている。彼はまさしく、男が求めていた人物に違いなかった。
「会いたかった! リオン」
男は弟を抱きしめる。男は全てを忘れつつあった。あともう少し、彼の訪問が遅れていれば、彼は全て忘れてしまって、あっという間に輪廻の輪に組み込まれてしまっただろう。
けれど運命はついに奇跡を呼び起こしたのだ。
「……何で、どうして」
リオンは呆然と呟いている。しかし男は再会できた歓びでその声に気付かなかった。彼は大きくなったらしいリオンをまじまじと眺めた。自分の顔も朧気であるというのに、弟は代わらず白銀の髪も銀の瞳も、幸せだった頃の姿と何一つ代わらないまま。
良かった――と、思った。弟は自分と違って、大罪を犯していないのだ。彼は平穏に、その人生を全うしたように思えた。
天使は不死である。成長はすれども老化はしない。
そんな当たり前のことですら、男は忘れてしまっていた。
「罪が全て雪がれるまえに、お前を忘れてしまう前に、お前に会えて、本当に良かった……!」
既に弟と過ごした穏やかな生活も、何が起きたかさえ朧気である。けれども確かに幸せな日々はあったのだ。男にとってはそれだけで十分だった。
「何で、どうして――最後に残ったものが、それなんだよ! 兄さん……ッ!」
彼は声を荒らげる。男は首を傾げた。そんな当然のこと、言われるまでもなかったからだ。
「何故って、お前を忘れたくなかったからに決まっているだろう。俺の愛する自慢の弟をどうして忘れようか、たった一人の、愛する家族なのに」
そう、彼は男にとって唯一の家族であった。彼と過ごす日々は既に心の中に今も砂のように消え去ってしまっている。段々と、弟の顔も見えなくなる。念願の再会が叶ってしまったから。男はついに自分も消えてしまうと理解してしまったのだ。
「あぁ、だがすまない、愛する弟よ。本当に俺はもう、何もかも、なくなってしまう。記憶も何もかも。辛かったことも、楽しかったことさえ、今はもう――お前の名前だけは、忘れたくなかったのに」
弟の名前すら、喉につっかえて口から吐き出せなくなってしまった。自分の名前は忘れても後悔などなかったのに。もう、彼の名前すら呼べないことが、とても悲しくて。
「俺は、もう、羽だってないのに――なんで、そんな」
「羽? そんなもの、あってもなくてもお前には変わりないだろう? どんな姿になっても、魂でも、全てを忘れようとも、俺がお前を愛することには、変わりないよ」
この事実だけは分からない。もう男には、愛する人がいたことさえ忘れようとしている。それでも、男は確かに愛していた。たとえ自分が忘れようと、これは確かに変わらない事実なのだ。
目の前の人物は泣きながら、抜き身の剣を掲げる。本当に涙をぼろぼろと零しながら、やがて襟元を濡らす人がとても可哀そうで、見ていられなくて。
しかし男は、自分のために悲しんでいるであろう人を、その人が何者か分からなくても、慰めずにはいられなかった。
「本当になんで――」
彼はその人のただ頬を撫でる。声も既に、発する器官が、ない。撫でている手だって、光の砂となって、段々と崩れ落ちていく。彼は泣いていた。間違いなく泣いていた。けれどその剣は決して手放すことなく、男の喉を突き破った。
「天使は必ず殺すって、思っちゃったんだろう」
魂は間違いなく、割れた。白くて美しい、無垢な魂が欠片も残さず崩れてしまった。
リオンは初めて、自分がした行いについて後悔すら許されず、泣き崩れる。
後悔はずっとしていた。二人で暮らしていたあの平穏な日々が続けばどんなに良かっただろうか。幸せだっただろうか。
けれども決して、その日々は戻らない。彼は自らの手で壊してしまった。
全てを呪い、狂いたくなる日々が続く地獄の日々。
結局彼は、地獄でその身を業火に任せるしか――選べなかったのだ。
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