十・姉
アリアとリオンは、血の繋がらない姉弟であり、また気の合った幼馴染みであった。アリアが初めて彼を見たのは、川の淵辺で気を失っている少年であった。半身をさらけ出し、羽を無残にも捥がれて、しかし塞がっているところを見ると、彼がいまだ幼い頃に、罪深き人により悪戯に毟りとられていたようだった。
あまりにも酷い光景から、彼女は慌てて村人を呼び込む。村人たちは慌てて、羽を捥がれた人間を、それでも人の形をしているからと、少年を介抱することになった。
彼は村の中で協議を重ねた結果、アリアの弟となった。アリアが一番初めに見つけたから、彼女の家族が責任をとって面倒を見るべきだ――と言ったのは、誰だっただろうか。
とにかく彼は、こうしてアリアの家族の一員となった。もっともこの頃から、彼は食事を拒み続け、大量に摂取すれば吐き出していたのだけれど。呆れた家族が、そのうち彼に食事を出さなくなったのは、アリアは知る由もない。
「ねぇ、約束よ! 絶対の約束!」
アリアは花畑をくるくると駆け巡り、走り舞いながら、後を追う少年を見た。少年はついてくる必要がないのに、それでもアリアを守ろうと後を追ってくる。
なら――と、アリアは考えた。どうせ後をついてきてくれるなら、物語の絵本でみたような、王子様がお姫様にプロポーズされるような、あんなことをされてみたい。
「騎士は女の子を守るものなの! だからリオンは、絶対私のこと、守ってね!」
「……うん、アリア。何があろうとも、僕は君を守るよ」
少年は彼に剣を肩に置いたふりをし、誓った。何があろうと傍にいると。彼にとっての主であり続けると少年は辿々しく、それでもしっかりと言葉を紡いだ。
これはある日の出来事。今となっては懐かしい、過去に起きた話――
アリアはその内、いつまで経っても成長しないリオンに呆れていた。リオンは誰が見ても文句がないほどの――美少年である。けれど羽の生えていない人間と比べても、あまりにも成長していないのだ。自らを天使と称する一族は、総じて成長が、羽の生えていない人間に比べて、断然遅い。
とっくの昔に、アリアの身長はリオンを追い越していた。それがアリアにとってとても不満だった。だが、リオン本人に言ったって、それだけはどうにもならないことであった。
羽だって再び生えてこない。剥ぎ取られた羽がまた生えるなんてそんなことあり得ないと彼女は知っていた。しかし、もしかしたらリオンなら、そんな奇跡さえ起こしてしまうのだと思っていたのだけれど。
彼はいつまで経っても、羽を生やさなかった。当然のことなのだけれど、自分に相応しくありたいなら、少しは努力するべきだとアリアは思う。
そうして彼女はやがて、村で二番目に美しかった少年に惹かれていく。彼はリオンほど美しくはないが成長するにつれ、やがて美しさの中に精悍さを兼ね備え、アリアにとって相応しい人物へとなりえた。
青年へと成長したカインは、少年のころからアリアのことを一筋に想っていた。だからこそ、リオンが駄目だったらカイン――と少しの下心があったわけだが。
やがて二人は結ばれる。誰が見ても文句がない、相思相愛の二人だった。二人は恋人同士として、甘いときを過ごす。
けれど村の皆が祝福する中、一人だけその姿がいないことに気付く。たった一人の姉の慶事なのだ、彼女は弟も祝うべきだと鼻息を荒くし、彼が住んでいる小屋へ単身で訪れる。
未だあどけない少年である弟は、訪れた姉を歓迎するわけでもなく、仕事道具の手入れをしていた。
「リオン! えへへ、お姉ちゃんからの重大発表があります!」
「何だよ、今更。俺のところにきて、何の用がある」
リオンはすっかり捻くれていた。彼は既にアリアの家を出て、荒ら屋と言いかねないほどの掘っ建て小屋の中に住みついていた。彼は屠殺用のナイフの手入れをしていた。リオンは一人で山に入り、一人で獲物を狩り、皮を剥ぎ解体し、それらを売って生計を立てていたのだ。
リオンにとって生命線である大事な道具であることは分かる。頻繁に使うそれを、こびり付く血液や脂肪を剥ぎ、研がなければいけないのも分かる。
けれどそれがアリアを祝わない理由にならない。アリアは胸を張って、彼が作業をしている机を乱暴に叩いた。
「私、カインと恋人になったの! あのカインとよ! リオンも祝福して!」
「そうか、おめでとう」
「……あれ、妬かないの?」
「姉に妬く弟がどこにいる」
リオンはアリアの方を一切顔を向けず、淡々と武器の手入れをしている。今は防錆用のオイルを塗っていた。
アリアは正直、リオンの反応が面白くはなかった。もっと青ざめ、彼女にそんな男は似合わないと、説得さえされるかと想像していたのに。
つまらない。
そんな感想が、アリアの胸に占めた。幼い頃、確かに約束したのだ。一面に赤い花が咲いている花畑で、彼らは約束したのに。
少しの意趣返しで、アリアは独り言のようにリオンに言葉を投げつけた。もっとも返事が返ってくるなんて、思いもしなかったけれど。
「リオンもいつか、良い人できるといいね」
「そうかよ」
リオンは最後まで、アリアを見なかった。けれどアリアと話した数日後に、あばら家から姿を消したことそ知って、なぁんだ、リオンもやっぱり私のこと、好きだったんじゃない――と、多少胸のすく想いをした。
リオンと再会したのは、ずっとこの後のこと。彼女たちが大人となり、カインとともに大国の騎士となり、戦争が始まり、その腕を戦場で十分に振るっていたその矢先のことである。ある日唐突に、女神は神託を下した。魔王を斃せ――と。魔王を斃す人間も女神によって定められた。勇者に聖女、カインとアリア、そして――ここにいはいないリオン。
彼女はリオンのことを忘れてはいなかった。本当だったら彼女がリオンを迎えに行くはずだった。しかしカインがアリアが赴くことを良しとせず、勝手にリオンを迎えに行ってしまったのだ。
カインはまもなくして帰還した。隣には、リオンがいた。彼女は息を密かに飲む。まさか彼が、こんなにも美しく成長しているなんて思いもしなかったのだ。
リオンはカインに気を使って、アリアに再会の言葉も、視線も決して振り向こうとはしなかった。何て健気だろう。アリアの恋人すら気を遣う姿に、想い人を恋敵にとられたとしてもなお献身する姿にアリアは再び恋に落ちた。
けれど、リオンの隣には彼の娘らしき子どもがいた。彼に子どもがいたなんて聞いていない。しかしカインが零した言葉により、すぐにアリアは安心した。子どもは、彼と血がつながっていないらしい。
彼は一途にアリアを想っていたのだ。彼は誰とも結ばれず子どもも作らず、ずっとアリアを姉として、想い人として見守ってくれていた。
けれどもアリアから話しかけることはあっても、リオンは頑なに彼女と話すことを拒んでいた。積もる話もあるだろうに、それでももう一人の幼馴染みに義理立てするなんて、何て立派なのだろうか。
あまりにいじらしいものだから、当てつけに彼が隣にいる部屋で、わざとカインに抱かれたこともあったし、それも一回や二回ではなかったけれど、それでもリオンはひたすら、アリア達を見守っていた。
そしてあくる日、ほんのちょっとした事件が起こる。リオンの養女――ノエルがぽつりと、リオンの決して知られてはならない秘密を勇者に零してしまったのだ。勇者は絶句し、彼の罪に苦悩することなる。
アリアも勿論、リオンの罪――羽をなくしたことを知っていた。けれどももしかしたら、彼はアリアのために再びその身に羽を生やしたかもしれないかったと、一縷の希望を抱いたけれど。
結局、彼は最後まで羽は生えなかったらしい。
その日からリオンのみの食事はなくなった。リオンは食事はおろか、水さえ身体の中に入れることはなくなったのだ。
リオンは日に日に、目の隈を濃くしていく。アリアは少し、夜に大きな声を出してしまいすぎたかなと反省する。しかし彼だっていけないのだ。たった一言いえば、リオンにその思いを成就させる心づもりだってあるのに。リオンは結局何も言わない。それがアリアにとっては大きな不満であった。
アリアはついに、リオンと二人きりになれた。ほんの僅かな時間。彼女はこの時間を逃すまいと、勇気を出してリオンに話しかけようとした。
「……アリアか」
だが、空気を口に含めたところで、彼のほうが先に話しかけてきた。リオンは振り返らず、ただ目の前の焚き火の管理をしている。あのときと同じ、今は敵を屠る為の剣の手入れをしながら。彼女は何を話しかけていいか分からず、躊躇して、そしてまずは彼を慰めることにした。
「可哀そうに、結局、羽、生えなかったんだね。もしかしたらと思ったけど、奇跡はやっぱり起きなかったかぁ」
「あぁ、そうだな」
違う、そうではない。彼女は言葉を間違えた。アリアは慌てる。彼が一言助けて――と言えばそれでいいのだ。そう、あの時とは逆ではあるけれど。アリアは一言さえ言ってもらえれば、彼を助けるつもりでいたのだ。
「ねぇリオン」
「なんだ」
「リオンはまだ私のこと、好きだよね?」
好きって言ってくれれば、助けてもいい。たった一言いってくれればそれでいいのだ。けれど結局、彼はアリアに振り向かず、彼女が望んでいない言葉を言い放つ。
「さぁな」
どうして彼はこんなに素直じゃないのだ。じれったいにも程がある。アリアは若干苛立ちながら、それでも彼の献身に応えようとしていた。
「またまたぁ、だって良い人ができるといいねっていっても結局リオン、誰も恋人、作らなかったでしょう。ならリオンは、あのときの約束、守ろうとしてくれてるんだよね?」
「……カインが見ている。寝ろ」
「わわ、本当だ! カインったらやきもちなんだから! じゃあね、リオン! お休みなさい!」
カインはかなり嫉妬深い。こうしてリオンと二人きりで話していたら、かなりきついお仕置きをされてしまうほど。今日も彼は寝かせてくれないだろう。彼が眠れないほどのあられのない声をあげてしまう事実に少し落ち込みながら、しかしリオンが最後までアリアを便りにはしなかった。ならば少しの声ぐらい、彼は我慢するべきだろう。
「……くだらない」
リオンは何と言ったのか、最後まで彼女がその言葉を聞くことはなく。アリアはカインの元に慌てて走り寄った。
戦争の紛争地は国境に数々あるが、ここまで激化しているとなると、幾ら手勢とはいえ、誰かが囮にならなければならなかった。先に立候補したのはリオンだった。彼は珍しく自ら手をあげ、殿を務めるといった。ならば――と、アリアも同行をすることとなった。彼女だって騎士であり、戦力になる。殿を務めるならば、人数が多い方がいいのだ。
カインは勇者を守らなければならない。かくして二人はまさか最後になるとは思わない会話を交わして、戦場へ旅立った。
けれどアリアは然程心配していない。リオンが未だにあの約束を覚えてくれているのなら、身を挺してでもアリアを守ってくれるだろう。それにリオンは自分を今も一途に想っている。想い人の危機なら、彼は絶対に助けてくれるはずだ。
そう考えて、いたのに。
「……アリア」
リオンは息を切らしながら、かつてアリアであった死体を一瞥する。それでも彼女の彼女は目を見開いて、驚愕のままに死んだ。あっという間だった。リオンが守るなんて時間は微塵もなかった。
「……ッ」
リオンには一刻の時間もなかった。
彼は急いで一房の髪を切り取る。敵が大波となって押し寄せてきているのだ。リオンは彼女の死体から急いで離れ、撤退した勇者一行の下へ足を急ぐ。
たった一房の髪。それが彼女が唯一持っていたもの。
リオンはアリアが嫌いだった。外見が大人になっていくにつれ、色目を使っていく彼女。リオンが家を出たのだって彼女の両親に疎まれていたからだけじゃない。肌を触れてこようとする彼女が気持ち悪くて、これ以上傍にいると自分が望まないことにせよ、一線を越えられそうになったからだ。
けれど、幼い頃は未だ。互いに笑いあっていたはずなのに。
全てが終わったら、彼女の遺品を花畑に還しもいいかもしれない。
あの美しい花畑。真っ赤な花が一面に咲き乱れた、美しい場所。誓いは破られたし、既に彼女の魂はそこにはないが、せめてもの慰みに、あの場所に彼女の墓を建ててもいいと思うくらいには、あの思い出だけは彼にとっても美しかった。
カインに渡すつもりは毛頭なかった。あのときの思い出は自分のものだ。どんなに願われても、その思い出を誰かに渡すなんてことはしたくなかった。
何とか敵の退け、一段落したところで髪紐を解き、彼女の髪を纏めて懐に忍ばせる。金色の髪は自分がいる国ではありふれた色であった。けれどもリオンは持っているとしたらそれはきっと彼女のものであると悟られるに違いなかった。
だから、誰にも気づかれずにはいかない。
その一房の髪は結局、あの花畑に埋められることはなく、その髪を以て彼女は生き返り、この手で殺す未来をリオンは未だ知らない。
全ては魔王が斃されたときに決定される未来。
彼は結局、何も知らずして、再び彼らの撤退の殿を務めるために、手に抱いていた剣を振るった。
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