九・妹
「え、兄さん、結婚するの!?」
「あぁ、お前だけは、たとえ決められた婚姻だとしても、祝ってくれるよな?」
「勿論! たった一人の家族だもの! 祝わないはずがないよ!」
「さすが俺の弟。俺だけの天使!」
兄が結婚すると聞いたとき、ほんの少しだけの不安がリオンを襲った。たった一人の兄なのだ。一族はたくさんいるが、同じ色の、同じ枚数の羽を持つ人間は、既に兄とリオンの二人だけである。
兄――セトは既に一族の長となることが決定されていた。そして婚姻に自由はなく、一族で定められた花嫁を迎える手はずとなった。だがそれでも、セトはリオンに、たとえ花嫁を迎えても、彼は家にずっといればいいと、確かにセトはリオンに言ったのだ。
リオンはそのとき、セトの言葉を一言一句覚えている。約束は守られることはなかった。セトが約束を覚えていないなんて、リオンが落とされるときまで、まさかそんなことがあるなんて考えもつかなかった。
「本当にお前は天才だな! 俺の弟はこんなにもすごいって、ご近所にも言い回したいぐらいだ!」
「もう、そんなに褒めないでよ! 照れるじゃないか」
セトはまるで息をするかのように褒めてくれる。リオンはその度に擽られるような感覚を味わい、そして兄に褒められることによって、自身を初めて誇らしく感じるのだ。
リオンは音楽にも絵を描くことも、周りの人間が高尚な趣味だというものに、何ら興味を持っていなかった。ただ、兄が褒めてくれるから。リオンはそれだけで、
そんな日々を過ごして、ついに彼らのもとに、兄の花嫁たちが迎え入れられた。兄の花嫁であるアズラと、その妹、ティリ。
かくして彼らは恙なく過ごした――こともなく。いつからだろう。兄が笑わなくなったのは。兄がリオンを褒めてくれなくなったのは。兄が――自分を厭うようになったのは。
気付きたくなかった。知りたくなかった。リオンは未だに彼を愛している。彼を兄として慕っている。そんな彼が代わっていく様など、どうしてもリオンは認めたくなかった。
彼は夜、音楽を奏でる。こんなもの、興味も欠片ほどなかったけれど。兄に褒められたい一心で彼は弦を弾いていた。それなのに。
「なぁ」
「何? 兄さん」
「その、弦楽器――音楽、目障りだから、やめてくれないか」
「……わかった……兄さんごめん」
「すまん。今は、何も訊きたくはないんだ」
兄は何故、そうなってしまったのか、ついぞリオンに語ってくれることはなかった。しかしいずれリオンは、兄がもとに戻ってくれる。そう信じていたのだけれど。
「兄さん! 何でアズラに羽をあげてしまったの!? あれは兄さんにとって、大事な羽であるというのに!」
セトはついに、己の半身である羽を妻であるアズラに分け与えてしまった。しかも、奇跡を宿した十二枚の羽の内、半分である六枚も、アズラに与えてしまったのだ。その身に宿す奇跡が半分になってしまえば――彼が一族の長から引きずり落されないほどの愚行。けれども彼は、その愚かな行動を、ついに実行してしまった。
リオンは兄を責める。そんな愚かなこと、今まで他の人間がしたなんて訊いたことがない。けれど彼はまるで蠅を追い払うように――いや、もっと質が悪い。兄はあろうことに、リオンに手を振り上げ、そして怒りのままに降り降ろした。
行為は増長していく。段々と、殴るだけのはずが、彼らが最も大切にしているはずの羽が毟り取られていることにリオンは気付いた。
しかし、リオンは止められなかった。最愛の兄が怒っているのだ。そして彼の怒りを受け止められる度量には、リオンにはまだなかった。
「痛いよ、やめてよ、兄さん!」
セトは殴り続ける。リオンの羽を毟り続ける。リオンの羽は八枚となり、やがて六枚となり、三枚となり、そして――
「う゛……っ」
彼から生えていた羽は、ついに一枚も残らず毟られてしまった。彼の背中には何もない。彼は長く意識を失った。まさか兄が介抱してくれるとは思わなかったが、彼が再び目覚めたときには、気を失った時と同じまま。本当に長い間、誰もが手すら差し伸べず、そこに放置されていたのだ。
悲劇は止まらない。そこにいたのは、羽を毟られたときと全く同じ状況であったわけではない。彼は、彼の毟られた羽がそこに一つもないことに気付いたのだ。
彼は痛む背中を無視して、羽を探す。激高した兄がわざわざ拾い上げるとは思わない。その辺に捨てられていたら、まだよかったのだけれど。
「なんで、僕の羽……ティリがつけているの……」
リオンの羽は、残らずすべて、義理の妹であるティリが身に着けていた。
ティリはまるで宝物であるかのように、奪った羽をリオンに見せつけた。白く、汚れの一切を見せつけない、美しい羽。
ティリは美しかった。彼女の纏っている白いワンピースは白金の髪に似合っているし、淡く色付いた青色の瞳は、まさしく彼女の性質を現していた。
しかし、白い、十二枚の翼だけは、彼女のものではない。リオンのものだ。彼は一言も、彼女に譲るなんてこと、言わなかったし、自分は渡す気なんて毛頭なかった。けれど。
「だって姉さまがつけているなら、私だってつけるべきなのよ。いいでしょう、この羽! とてもきれいでしょう? これならお義兄さまに見染められるかもしれないし、誰にとってもいいこと尽くめだわ!」
彼女は無邪気に笑う。本当に悪びれもせず。その辺に捨ててあったから。そんな理由で彼女はリオンの翼を奪い取った。
そして呆然としているリオンに向かって、陰から一族の使いが向かってくる。今までは直接、兄自身が来ていたのに。彼は抵抗せずに、長がいる間に連れていかれた。
彼は頬杖を突いて、まるで自分に弟などいなかったように振る舞う。リオンに味方などいなかった。彼を助けるものなんて、最後までいなかったのだ。
「羽を何故義理とはいえ、何故、全て妹にあげた? 過ぎた善性もいいが、それでお前が堕ちてしまったらどうしようもない。現にお前の魂は濁ってしまっているじゃないか」
「……違うよ……違うよ兄さん……」
「言い訳なんか聞きたくない。これから一族で会議が執り行われる。追って沙汰を待つがいい」
兄は何も憶えていなかった。弟の羽を毟り、義妹が勝手に拾い上げたことも気付いていなかった。どんなに愚かなことをしたのか、声の抑揚もなく、淡々とリオンに対し説教をしていく。
「違うよ! 嫌だよ、兄さん! やだよ! 助けてよ!」
彼に追いすがろうとしても、兄は二度と弟を振り返ろうとはしなかった。彼の中では、既にリオンは愚かな人間ですらない生き物になり下がっていたのだ。
絶望し、膝をつくリオンの横から、ふわりと何かが通り過ぎる。彼女は――十二枚の羽をもったティリは、あろうことにかセトに向かって駆け出したのだ。
「おにいさま~!」
「あぁ、ティリか。ティリはかわいいなぁ。俺の自慢の妹だ!」
「えへへ~」
抱き上げられたティリはとても嬉しそうな顔をして、ティリを見つめている。まるで本物の兄妹であるかのようだった。彼はあっけにとられる。だって、その表情は僕だけに向けられるはずのものだったのに。
「僕の羽を返して!」
「嫌よ、これはもう、私のものだもの」
リオンは流刑に処されることになった。実質死刑と言われているそれは、裁きの間から、地上に向かって突き落とされる、羽を失くし、飛ぶことさえ出来なくなった彼にとって最も残酷な罰であった。リオンは刑罰に立ち会うことになったティリと言い争う。しかしその身に宿す奇跡も、力も、全てを奪われたリオンに為すすべもなく。
「あ」
彼は蹴落とされた。他の誰でもない、義理の妹だった天使の手によって。彼は地上に堕ちていく。落ちるのは一瞬だ。けれどもこれは刑罰の名の通り、彼は永遠ともいえる永い刻、ずっと落ち続けていくことになる――彼は地上に落ちるまで、いずれ魂が摩耗するまでずっとずっと――堕ちていく。
「愚図でのろまのリオン、可哀そうに、羽もその身に宿す奇跡も全部なくなっちゃった、馬鹿なリオン」
リオンが蹴落とされる瞬間、彼女はふわりと笑う。これから罪人を裁くとは、とても思えない、可愛らしい笑顔であった。
「ばいばいリオン、二度とこっちに戻ってこないでね」
こうしてリオンはティリに蹴落とされ、落ちてしまった。もうあの地に家に戻ることもない。戻ることもできない。その身に宿していた奇跡はすべてティリに奪われた。たった一人の家族もアズラに盗られてしまった。
それでも彼は戻りたかった。彼はどうしたって、たった一人の兄に会いたかったし、どんなに蔑まれようが、この世でたった一人の兄を愛し続けていた。
しかしてそれはリオンが後に友となった一匹の竜によって、兄の花嫁が殺されたことにより、皮肉にも兄弟は完全に訣別することになってしまう。けれどリオンは、彼にもう一度、幼かったあの頃のように、一度だけ笑いかけてほしかったのだ。自慢の弟だって褒めてほしかった。ただの二人の、家族であり続けたかった。
今となってはもはや過去となってしまった、叶うはずもない夢の残滓。
セトは結局、一切の悪意がない彼女によって、呪詛を吐き続けるだけの肉塊となり、最期は他ならない弟によって討たれた。兄だった人間の花嫁もまた、竜にその身を引き裂かれたはしたが、元はといえばティリが何もしなければ――ただの愚かな人間の、愚かな結末で終わったはずなのに――魂を砕かれ、その身体は地上へと堕ち、新たな創造を成して、奇跡を起こしてしまった。
ティリの非道はそれだけに留まらなかった。リオンにほんの少し残っていた奇跡でさえ利用し、徹底的に弄んだ。怒り狂ったもう一匹の竜により、彼女の肉体はバラバラにはされたが、それだけ。魂は未だに彼女を天に残し、肉体は地上に
地上に羽をもつ人間など、欠片でさえ残してはいけないのだ。天使はそこにあるだけで因果を狂わす。だからリオンは天使を殺す、徹底的に奇跡を拒む。受け入れれば、それは女神を受け入れたと同義になる。それだけは、絶対に赦してはならないこと。
リオンは結局、ティリを殺すために奇跡をもう一度宿してしまったけれど、彼が罪人であり続ける為には、この身の宿る奇跡をもう一度剥がさなければならない。
そのときは、あまり痛ければいいなと思うばかりだが、こればかりは奇跡を再び宿したリオンさえ、予想できないことだった――
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