八・女神
王の、その身に宿すその呪いが消えるという神託を承ったのは、雪が深々と積もる日のことであった。
王は呪われていた。この上とない魔王の手により、見事討ち取った彼の身には、誰よりも深く、呪いが刻まれてしまっていた。王は深く嘆いた。いずれ腐り、朽ちていく身になってしまえば、永く国を統治するなど到底成しえず、また王が想う人間に再会するなど、夢のまた夢であったからである。
天の一族は肉体が代わることはあっても、その魂が――天使であり続けるゆえに、羽を生えた子どもを新しく創ることは叶わなかった。羽の生えない、人間ではない子どもなら天使でも創造することはできる。だが女神と同じ、女神から分かたれた肉体と魂を模倣することは、天使にはついぞ出来ることはなかった。
亡国の和平の証しにひときわ小さな女神の分身を送ったのは、それも女神の神託であったからだ。彼らにとっては知る由もない。もしかしたら天使が創造できるかもしれない。そんな彼女の気まぐれでおこしたことなど、誰も最後まで、女神が気まぐれであると、気付きもしなかった。
女神の神託は、何十年かに一度、羽の生えた、女神の分身である誰かに、何も前触れもなく予兆もなく告げられる。彼女は時に多弁に語り、時にはほぼ隠喩で、時にはただ一言。女神の神託は様々な形で彼らに伝えられ、それは絶対だと、女神の意志に従い、彼らは神託通りに実行した。
あくる日、誰よりも女神を信じていた信奉者に、神託が授けられる。女神を降臨させれば、王の呪いは解けられる――女神は王の心に語り掛け、そのまま再び天へその身を戻した。
王は歓喜した。ついに報われるときがきたのだ。
王の願いはたった一つ。その為には、まずこの身を治さなければならない。
女神降臨の儀式は恙なく進められた。成功するかしないかなんて誰も考えやしない。女神降臨の儀さえ執り行われたら、女神は必ず降臨する。誰もがそう信じていた。
国中の聖職者が集まり、天使たちは一人残らず、他国にいたものさえも呼び戻される。彼らがかつて望んだ、尊き神の降臨。女神の儀はようやく始まろうとしていた。
女神降臨の儀式は全て細かく打ち合わせされ、ようやくその日が決まる。天使による占星術によって場所も時間も、女神がその身をこの地に降臨にされる為に、彼らは厳密に決まり事を重ねていた。
その日は雲一つない、快晴であった。
王は女神が第一に見るものとして、降臨の為の、言祝ぎを紡ぐことになっている。
聖職者は、この国の要人はみな、羽を一切惜しみなく晒し、純銀の衣装をまとい、女神が降臨される教会に一列となって並んでいた。
民衆も、教会の外で、もしかしたら女神を一目見られるかもしれないと一縷の希望を抱いて、老若男女問わず、全ての天使が地面に立ち、詰めかけていた。空を飛ぶことはしない。女神がその身を現すのに邪魔をしてはいけない。
全ての国民が、女神の来訪を今か今かと待っていた。
王は祭壇の真ん中で、青く長いローブを纏い、王笏を持ち、王冠を被って女神が降り立つ瞬間を待ちわびる。
王は紡いだ。女神の為だけの言葉を。その身は既に腐り、立つことすら辛い。けれど女神のためならば、いずれきたる自分の悲願の為ならば、朽ちていくことも叶わない。
そうして、やがて黄金の光が、王の前に、人の形となり現れ、そして。
ばりん、と音がした。
天窓も、ステンドグラスも粉々に砕け落ちて、静寂を突き破ったかと思えば。
王は頭の天辺から胴体に向けて真っすぐに、禍々しく、美しい剣をその身に突き立てられていた。
刺した天使は、全身が一切の、混じりけがない純白で出来ていた――
六対からなる十二枚の羽は誰よりも美しく、そして誰よりも、王でさえも見たことがない枚数と美しい色をもってその姿を顕わにした。
白銀の髪は一括りに纏められ、髪紐から零された送り毛ですらも、その者の美を飾るといわれても違和感はなかった。
けれど彼の纏っている衣服だけは、黒い革で出来た鎧と、その身に持つ剣だけはやけに禍々しく、しかしそれですら、彼を彩るというまでに、美しく。
彼らは呆然とした。全く予定にはない、白銀の美丈夫ともいうべき天使が舞い降りた事実に驚愕した。そしてまもなく、それから上から巨躯ともいうべき身体が落ちてきたことについては、その事実を知る前に息絶えてしまったのは、惜しむべきところだろう。
否、落ちてきたのではない。彼らは明確に殺意を以て現れた――
「私を生き返らせてくれてありがとう、リオン。あなたなら、私を生き返らせてくれると信じていたわ」
「久しぶりだな、ティリ。殺しにきたぞ」
リオンは女神の血を、王の前にあった女神の遺骸に降り掛けていた。つい王を殺してしまったが、リオンの今回の目的は女神そのもの。その女神は、見事復活し、目の前にその身を現している。
肉体が朽ち、魂だけとなった女神を復活させるには、聖遺物が必要だ。天使たちは一斉に聖遺物をかき集めていた。そうして女神を降臨させるに最低限の物質を得た彼らはようやく儀式を開始させることとなる。
ただ一つだけ、リオンが手にしていた女神の血だけはつい手に入れられないまま。彼女の復活には、女神の血が必要であった。死者すら蘇生させる奇跡の秘薬。女神の血、そのもの――骨もある。肉もある。あとは血だけが、ティリの蘇生に必要であった。
かくしてティリは無事に蘇生された。これも予定調和であるかのように、ティリはここにいた。
彼女は白金の髪に、僅かに青色を含む銀の瞳をした、まさに古来に伝わっていた女神の風貌だった。リオンは知っている。恐らく彼女は、姉よりも自分の方が似ていると。だからこその嫌悪。本当なら彼女の一片たりとも似たくはなかったのだが、それはこれから彼女を葬り去ることで、この嫌悪感も消え去るであろうことを予感していた。
かくして女神降臨の儀は一瞬にして戦場と化した。教会は怒号が鳴りやまず、彼らはそれでも侵略者であるに攻撃を出来ないでいた。彼の近くには竜がいたからだ。そして竜は、彼らに隙を一切見せず、一方的な虐殺をしていく。教会は一瞬にして廃墟となり、彼らは逃げまどっていた。自分たちを祝福する女神ではなく、大地を揺るがすほどの竜が空から現れたのだ。武器を持たない天使たちその身にもつ翼を使って逃げ出そうとしていた。
しかしただの一人が、逃亡が叶わなかったのは。
「一匹たりとも包囲網から逃すな! 囲め! 勝利は我らにあり!」
ユーリスが、かつて亡国の騎士であったときと同じ銀の甲冑を纏い、彼がかつて仕えていた亡国の人間と共に、天使たちを残さず虐殺していた。天使たちは全て成長し、子どものなりをしている人間は一人もいない。そして彼らは、亡国の無抵抗で幸福を受け入れた女王と王女を一方的に嬲り殺しにした。
未だ恨みは忘れていない。あまりの惨状に、亡国の兵士が吐いて詫びながら死んでいく様を見逃すほど、彼らは優しくはなかった。
しかし天使たちもただ殺されているだけではない。やがて槍が、天使たちの手に行き渡る。彼らもまた、死体から武器を持ち出し、空を飛んでその槍を落とそうと目論んでいた。だが。
「――……ッ」
「麻痺性の毒煙はたとえ、死に至らずとも地に落ち痙攣するしかない、――その姿は、蛾のようだなぁ……なぁ、我らの仇敵よ」
教会を囲む街は――首都は燃えていた。要人も、兵も全員が一カ所に集められていたのだ。敵国の人間は今までの堅牢さは何だったのだろうと思いながら、いとも容易く、要所に火を投げ込むことに成功した。火はやがて炎となり、まるで生き物のようにうねり、煙と灰が、空へと昇っていく。
毒草が含まれた煙は彼らにとって猛毒だ。上にいけばいくほど、その身には耐えられないほどの神経毒が彼らを侵していく。
彼らは次々に落ち、そして敵国の人間たちによって、一人一人が翼を剥ぎ取られ、そして頭をつぶされた。
決して生き返らないように。再びその魂が肉体を経て、この大地を踏まないように。彼らは知っていた。天使と自称する彼らが、再び肉体を得る手段を持っていることを。奇跡を用いれば、彼らは復活してしまうかもしれないと、兵たちはユーリスから、そして天使を憎む人間からそのことを訊いていた。
竜はその身をもって大地を震わせるほど天使を虐殺し、敵国の兵も、天使が逃げることすら許さず――彼らに逃げ場などなかった。そう、彼らが縋るべき女神さえ今は――
「まぁ、あんよが上手になったわねぇ、リオン」
「……――ッ!」
リオンとティリは、竜が舞い踊るその上を、刹那の間、幾つもの剣戟を、刃を重ねていた。火花が散る。
ティリは剣ですらない、王が持っていた王笏を気まぐれに使い武器として振る舞っていた。彼女に剣技の心得などなく、ただ振ればそれだけで天変地異を起こしてしまうから、剣術も何も教わらなかっただけで。
リオンは一撃がまさに女神の鉄槌のようだと、それでも何とか躱せていたのは、彼が全盛の姿を取り戻していたからだ。
互いは、同じ片翼が六枚の、十二枚の翼を持っている。翼を多く持つ人間ほど、強大な魔法を行使できる。リオンはその奇跡をいまこのときの為に、全力を以て出し惜しみなく奮っていた。
けれどそれでも、ティリを殺すには至らない。
彼は、起死回生の一手を既に思いついていた。しかしそれは、彼の憎しみを否定するような、そんな手でもあり。
「……ッ!」
迷っている時間はない。彼は意を決し、彼女の胸に飛び込む。
ただ剣を突き出してしまえば、彼女は王笏で避けてしまうだろう。ならば、避けないよう、隙を突けばいい。
「ティリ」
彼は彼女の義兄に
リオンとティリはよく似ていた。しかしそれ以上に、彼はリオンの兄と全く同じ顔貌をしていたのだ。
「――……おにいさま?」
彼女は呆然と、急に現れた姉の夫に驚く。こんなところに、いるはずがない。だって彼は、自分の姉ともども自らの手で、奇跡さえ起きないように、丹念に殺したのだから。けれども、自分の前に謝罪を乞い、自分の物になるなら赦してあげなくもないと――そんな他愛もないことを覚えて。
ぐしゃり、と音がした。彼女の喉が、頸椎が音を立ててつぶれていく。ほんの束の間。ほんの一瞬。けれどその時間があるだけで、ティリの身体は、魂ごと砕け散った。
「グヴィヴェル!」
彼女の肉体が腐り始める、ほんの少し前に、彼は竜を、その身をもって大声で呼ぶ。女神の身体をただ殺しただけでは、姉神と同じように、彼女はその肉体と魂を世界中に飛来させて、新しい生物を創造してしまうだろう。だから、その前に。
グヴィヴェルは。大気すら震わせながらリオンと、ティリであった死体に向けて、痩躯を捩らせ巨躯ともいうべき口を開けた。竜はそれ自体が女神たちにとって死に等しい。それでも全て殺しつくすには。完全に消化する必要がある。
竜は大口を開けて、やがて幾つもの建物ごと彼らを飲み込む。食事というにはあまりにも不躾な行為は、それでも確かに瓦礫とともに、彼女の死体を魂ごとその身の内に取り込んだ。
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